プロローグ
深夜2時47分、東京湾岸工業地帯
雨が降っていた。
冷たく、容赦なく、まるで世界が何かを洗い流そうとしているかのように。
錆びたコンテナが積み上げられた廃車置き場の奥で、星野凪は一台の車にもたれかかっていた。全身ずぶ濡れ。黒いジャケットは雨を吸って重く、肩に食い込んでいる。左手の火傷の跡が、冷たい空気に触れて疼いた。
「……クソが」
呟きながら、凪は愛車、2010年式の日産シルビアS15のボンネットに額を押し付けた。エンジンはまだ熱い。レースを終えたばかりだ。勝った。Cランク下位の雑魚を3台まとめてぶち抜いて、完全勝利。
だが、代償は大きかった。
「……また、やっちまった」
ボンネットを開ける。
白煙が立ち上る。オーバーヒート。ラジエーターが割れ、冷却水が地面に滴り落ちていた。エンジンブロックにもヒビが入っている。無理な回転数で回し続けた結果だ。このままではもう走れない。
凪は唇を噛んだ。
「……また、金がねえ」
修理費は最低でも30万。部品は全部ジャンク品を漁るとしても、時間がかかる。次のレースまであと3日。間に合わない。
「くそ……くそっ……!」
拳でボンネットを叩いた。
鈍い音が、雨に吸われて消える。
勝ったのに。
また勝ったのに。
なのに、何も変わらない。
金はない。居場所もない。誰も味方はいない。ただ走って、勝って、それでも前に進めない。まるで、無限に続く坂道を、ブレーキの壊れた車で転がり続けているみたいだ。
「……もう、嫌だ」
ぽつりと呟いた瞬間。
ガラン、と音がした。
「……?」
顔を上げる。
雨の向こうに、人影があった。
男は、まるで亡霊のように現れた
背は高い。180近くあるだろうか。黒いレザージャケットを羽織り、フードで顔を隠している。だが、凪にはわかった。この男は、普通じゃない。
歩き方が違う。
足音が、まるで世界と繋がっていないみたいに、静かで、重い。
男は凪の前で立ち止まった。
フードの下から覗く顔は、やつれていた。頬はこけ、目の下には深いクマ。黒髪には白いものが混じり、実年齢より老けて見える。そして、その瞳は、死んでいた。
まるで、全てを諦めた人間の目だ。
「……何だよ」
凪は警戒しながら言った。
この廃車置き場は、凪の縄張りだ。誰も来ない。来るとしたら、ジャンク屋か、警察か、あるいは、ストリート・サーキットの関係者。
男は答えなかった。
ただ、凪の愛車、シルビアS15を見つめている。
その視線が、やけに鋭かった。
「……お前」
男が口を開いた。
声は低く、掠れていて、まるで長い間誰とも話していなかったような響きがあった。
「……この車、お前が整備したのか?」
「……は?」
凪は眉をひそめた。
「何の話だよ」
「質問に答えろ」
男の声には、有無を言わさぬ圧があった。
凪は舌打ちした。
「……ああ、そうだよ。全部、俺がやった。文句あんのか?」
男は黙って、ボンネットの中を覗き込んだ。
割れたラジエーター。ヒビの入ったエンジンブロック。継ぎ接ぎだらけの配線。全てがボロボロで、まともな整備士が見たら卒倒するような有様だ。
だが、男は、笑った。
いや、笑ったというより、口の端が僅かに歪んだだけだ。だがそれは、確かに笑みだった。
「……素人のくせに、よくここまで走らせたな」
「……あ?」
「このエンジン、もう限界だ。あと1回走らせたら、爆発する」
凪は黙った。
男の言っていることは、正しい。
自分でもわかっていた。この車は、もう死にかけている。それでも走らせ続けたのは、他に選択肢がなかったからだ。
「……で?」
凪は吐き捨てるように言った。
「説教しに来たのか? だったら帰れよ。うるせえ」
男は動かなかった。
ただ、凪を見つめている。
その目には、何かがあった。
諦めと、絶望と、それでもまだ燃えている、小さな炎のようなもの。
「……お前、名前は?」
「……星野、凪」
「ランクは?」
「Cの5位」
「年齢は?」
「17」
男は、また僅かに笑った。
「……17か。若いな」
「……で?」
凪は苛立ちを隠さなかった。
「何が言いてえんだよ」
男は懐から、一枚の名刺を取り出した。
雨に濡れて、文字が滲んでいる。だが、凪には読めた。
神崎 零
元ストリート・サーキット AAAランク 20位
通称 白影
凪の呼吸が、止まった。
「……嘘だろ」
AAAランク。
世界に、たった20人しかいない、頂点のレーサー。
そして、白影。
その名前は、凪も知っていた。20年前、日本人で初めてAAAに到達した伝説のレーサー。だが、レース中に事故を起こし、AI企業の創設者を死なせた殺人者として引退した男。
それが、この男?
「……お前が、白影……?」
凪は信じられなかった。
目の前にいるのは、ただのやつれた中年男だ。伝説でも何でもない。ただの、人生に疲れ果てた男。
だが、男は否定しなかった。
「……昔の話だ」
男、神崎零は、シルビアのボンネットを閉じた。
「この車、もう持たない。次のレースまでに直すなら、3日じゃ無理だ」
「……わかってる」
「だが」
零は、凪の目を見た。
「俺が手伝えば、2日で直せる」
「……は?」
「その代わり、条件がある」
零の声は、静かだった。
だが、その奥には、何か、狂気じみたものがあった。
「お前、師匠がほしいか?」
凪は息を呑んだ。
「……何だって?」
「俺が、お前を教える」
零は言った。
「お前の走りは、狂ってる。本能だけで走って、車を壊して、それでも前に進もうとしてる。だが、そのままじゃ死ぬ」
「……」
「お前には、才能がある」
零の声は、静かに、だが確信に満ちていた。
「だが、才能だけじゃAAAには届かない。技術が要る。知識が要る。そして、車を、理解することが要る」
凪は黙っていた。
零の言葉が、胸に突き刺さる。
「……何で」
凪は呟いた。
「何で、俺なんかに……」
零は、また僅かに笑った。
「……お前、俺に似てるからだ」
「……何?」
「20年前の、俺に」
零は空を見上げた。
雨が、男の顔を濡らしている。
「俺は、全てを失った。車も、地位も、名誉も。AIに裏切られて、人生を奪われて、それでも、まだ、走りたいと思ってる」
零の声は、震えていた。
「だから、お前を見た時、思ったんだ。ああ、こいつは俺と同じだって」
凪は、何も言えなかった。
「……お前、AAAに行きたいか?」
零が聞いた。
凪は、頷いた。
「……ああ」
「なら、俺について来い」
零は背を向けた。
「明日の朝10時。ここに来い。それまでに、お前の車を見てやる」
そして、雨の中に消えていった。
凪は、立ち尽くしていた
雨は、まだ降り続けている。
冷たい雨が、全身を濡らしていく。
だが、凪は、笑っていた。
初めて。
本当に、初めて。
誰かが、自分を認めてくれた。
「……師匠、か」
呟いて、凪はシルビアのボンネットに手を置いた。
「……クロ。もうちょい、頑張れよ」
エンジンは、まだ熱い。
まるで、生きているみたいに。
これが、星野凪と神崎零の、始まりだった。




