前編
「行ってきます」
「...ああ」
「ちゃんと行って来てね」
「分かってるよ...三時からだろ」
出勤前、朝の支度を終え、玄関に向かう手前で寝室に眠る男に声を掛ける。
時計は7時を回っているのに、ベッドから出ようともしない。
どうせ昼前まで寝るつもりだろう。
壁には昨日の夜、アイロンを掛けたスーツが掛かっていた。
「紗央莉...」
「お金はテーブルに置いてるから」
「すまない」
シーツの中から聞こえる情けない男の声に苛立ちが募る。
テーブルには今日の交通費や、昼食代として男に渡す1万円札。
ギリギリの生活費を切り詰めているのを分かっているのか?
『なんでこんな男を養ってるんだろ?』
沸き上がる心の声を懸命に堪える。
言ったところで、どうなる話でもない。
男は私が三年前まで勤めていた会社の元上司。
三年に渡る不倫がバレ、妻に離婚を言い渡され、男は裸同然で家から放り出された。
私まで男の妻に慰謝料を請求され、独身時代から貯めていた預貯金の大半を失ってしまった。
男は勤めていた会社も就業規則違反で、閑職に廻された。
『あんな事くらいで俺を外すだと?
こっちから辞めてやるさ!』
プライドの高かった男は自分から会社を辞めた。
同業種で再就職を狙った男だったが、どこからも採用されなかった。
当然の事だ、誰が勤めていた会社で問題を起こした男を同じ条件で雇うものか。
続く不採用に男の気持ちは折れ、今では働く気力すら失ってしまった。
私は男をなんとか励まし、今日はハローワークで紹介してくれた会社の面接だったのだが...
私は役職を持たない社員だったので、自主退職を余儀無くされた。
それは仕方ない、あのまま針のむしろの会社に留まる事は無理だ。
男はそのまま私の住むマンションに転がり込んで来た。
このマンションは私の名義。
5年前に離婚した際、財産分与で私の物になった。
もちろんローンは残っていたが、手放すには惜しい物件だった。
離婚理由は性格の不一致。
前の主人と知り合ってから、結婚まで5年。
しかし結婚生活は僅か2年で終止符を打った。
「もう少しごねていたら貯金も貰えていたかしら?」
あさましい考えと知りつつ、言葉が出る。
離婚は旦那から言い出した。
『夫婦である意味があるか?』
お互い仕事が忙しく、子供を作る事は出来なかった。
離婚の1年前には殆ど会話らしい会話も無かった。
『良いわ、別れましょ』
話し合いはあっさりした物だった。
結婚生活が短かったから共同の財産は殆ど無かったし。
それでも結婚の為、購入したマンションは貰えて満足していたのに。
「今どうしているんだろ?」
電車の窓から外を眺めながら、ふと考えるのは別れた元旦那の事。
彼は決して嫌いでは無かった。
見た目も悪くないし、性格も穏やか、稼ぎも同世代の中じゃ高い方だったし...
「...何を考えてるの?」
慌てて頭を振る。
もう忘れないと、彼だって5年も経てば新しい人生を歩んでいるだろうに。
「外回りに行ってきます」
勤め先の会社、私は荷物を抱えて同僚に一声掛けてから事務所を後にする。
仕事は小さな税理士事務所の事務員。
前の職場に比べ、給料は随分下がったが、贅沢は言えなかった。
何しろマンションのローンを抱えていたから。
「...え?」
顧客の会社に書類を渡し、外に出た私の目に思いもよらない人が飛び込んで来た。
それは別れた元旦那だった。
「久しぶり」
思わず声を掛ける。
躊躇いは無い、懐かしさからだし。
「......」
私の姿を一瞥した彼は少し驚いた目をし、無言ですり抜ける様に歩きだすではないか!
「ちょっと待って!」
余りの冷たい態度に語気が強まる。
別れたとは言っても、憎しみ合って離婚した訳じゃないのに。
「どうしたの?」
元旦那の隣に居た女が不思議そうに声を掛ける。
見た所、私より随分若そうだ。
おそらく20代中盤か、一見すると分からないが、着ている服や手にしているバッグは高級なブランド品。
なにより、その綺麗な容姿に息を飲んだ。
「なんでもない」
「なんでもない訳無いじゃない」
言葉を失う私を他所に元旦那と女は会話を続ける。
「誰よこの女?」
「君には関係無いだろ」
私に対して冷えきった元旦那の言葉。
こんな態度は離婚前でさえ取られた記憶は無い。
「...関係無い?」
元旦那は、睨みつける私に視線を合わせようともしない。
「...あの場所を変えませんか?」
私達の様子に女が呟いた。
「栞...」
「あなた、分かってるから。
静かな所に行きませんか?
お時間は取らせません」
「...なによ、この女」
あまりに落ち着いた女の態度。
まるで私を子供扱いではないか。
先を行く二人に続き、後ろを歩く。
親しげな様子、元旦那と女の関係に胸騒ぎを覚える。
「...ここは」
「さあどうぞ」
着いたのは誰もが知る高級ホテル。
こんな所に地味な服装で入るなんて...
「遠慮なさらないで」
「分かってるわ」
舐められている。
女の態度から、そう確信した。
恥ずかしさを堪えてホテルの中に入った。
「いらっしゃいませ」
「奥のラウンジ空いてるかしら?」
「はい、どうぞこちらに」
出迎えるホテルマンに馴れた態度で尋ねる女。
一体何者だ?
ラウンジ奥の個室に案内され、私は大きなテーブルに座る。
向かいには元旦那と女、彼の目は相変わらず冷えていた。
「...あなた久しぶりね」
「君にあなた呼ばわりされたくない」
なんとか言葉を絞り出すが、彼の態度は素っ気ない。
「随分と雰囲気が変わったわね、すっかり見違えたわ」
彼の着ているスーツが高級な物だと直ぐ分かった。
靴や腕時計も、結婚していた頃とは全く違う。
お洒落には疎いと思っていたが、
「5年も経てば変わるさ」
「そんなに経つのね」
彼は腕時計を慌てて隠しながら苦笑い。
やっと会話らしくなってきた。
ほっとした私は運ばれて来たコーヒーに口を着けた。
「ところで貴女は?」
「挨拶が遅れました、五十嵐栞と申します」
頭を下げる女の言葉に激しい衝撃を受けた。
「五十嵐...まさか?」
「はい、五十嵐正太の妻です」
「そんな...」
まさか再婚していたなんて。
それも、こんな若い女と。
「何を驚いているんですか?
貴女が五十嵐紗央莉...いいえ、離婚されて今は旧姓に戻られいたんでしたね、失礼しました」
勝ち誇ったような笑みを浮かべる女。
こんな屈辱、許せない!
「おい栞」
「ごめんなさい、あなた。
少し二人切りで話がしたいの、先に会社に戻っててくれる?」
「...分かった」
「終わったら電話するから」
怒りに震える私の前で元旦那が席を立つ、まだ話は終わって無いのに。
「ち、ちょっと、そんな勝手な真似は...」
「お座り下さい!」
慌てて止めようとする私に女から厳しい声が。
さっきまでと全く違う。
纏う雰囲気、私を睨む目、まるで別人の様。
「先程言いましたね、あなたが主人の別れた奥様...いいえ、上司と不倫の果てに別れた元奥様でしたね」
彼が閉めた扉を呆然と見つめる私に、女は更なる追い討ちを掛けた。
「...何の事?」
平常を装うが、声は震える。
なんとか平静を保たなくなくては。
「隠しても無駄です」
「...どうして...?」
どうしてその事を知っているの?
言葉が続かない私を睨む女の視線に、この場から逃げる事も出来ないと感じた。