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32/35

32 気持ち


「さ。さっさと仕事に戻ろうぜ」


 オーナーたちが奥の部屋へと行ってしまうと、ざわつく野次馬従業員たちをよそに、トマはけろりとそのように言い、キッチンのほうへと戻って行った。

 俺の杞憂をよそに、あまりへこんでいるようには見受けられなかった。

 トマはその後もテキパキと動いて仕事をこなし、あのキルシアを見たあとも、それほど落ち込んでいる様子はなかった。

 かといってなにか特別に強がっている風でもなかった。

 トマはいつも通り働いた。


 異変が起きたのは午後からだった。

 トマはいつも以上によく働いた。

 他の人間の仕事までぶんどるような勢いでこなした。

 ほとんど一心不乱だった。

 俺はそれが少し悲しかった。

 トマは――もはや半分、諦めたんだと思った。

 相手があれほどの人物なら仕方がない。

 アスカさんが幸せになるならそれでいい。

 そのように言い聞かせているかのようだった。


 §


 その日の仕事が終わり。

 看板を下げ、残業として明日の仕込みの準備と店内の掃除をしていると。


「リドル。ちょっと良い?」


 人気のないホールで、まだ残っていたらしいアスカさんに呼び止められた。

 最近は良くこのように彼女から話しかけられる。

 大体は豊穣祭関係のことだ。

 最近忙しそうなのは、あの祭りに対して、彼女が並々ならぬ意気込みを持っているからに違いなかった。


「明日、夕方くらい仕事を一旦抜けてもらって、ネメシスたちと豊穣祭当日の本番の予行演習をして欲しいんだけど」

「予行演習、ですか。はあ、まあそれは良いっすけど。人手は足りてるんすか」

「うん。それは大丈夫。シフトをそれ用に組み換えてあるから。……それでさ、ほら、ね? 本番の演習ってなると、その、ほら」


 アスカさんは少し言い辛そうだった。


「ああ、パチューカですね」


 なので、俺が先回りして応えた。

 そうそう、とアスカさんは笑った。


「リドルは察しが良くて助かるわ。申し訳ないんだけど、明日は結構本格的にやっておきたいのよね。もう祭りまで時間がないし。だから、明日の演習にパチューカちゃんも参加できないかしら」

「うん。多分、大丈夫だと思います」


 よかった、とアスカさんは屈託なくにこりと笑った。

 ふむ。

 トマならずとも、この笑顔には癒される。

 普段は滅多に笑わないから余計に可愛く見える。


「それじゃあ、私、今日はもうあがるわね」

「あれ。今日は早いですね」


 早い、と言ってももう12時近い。

 普通ならもう遅すぎるくらいだが――この人にとっては早く感じる。

 この人がいかによく働いているかがよくわかるというものだ。


「うん。これからちょっと人に会う予定があってね」


 アスカさんはそう言って肩を竦めた。

 そのときはたと気付いた。

 アスカさん。

 いつもより、少しおめかしをしている。

 余所行きのスカートに、珍しく口紅まで引いて。


「……キルシアさんですか?」


 俺は少し躊躇いながら聞いた。

 すると、アスカさんは困ったように苦笑しながらうんと頷いた。


「全く、私はいつも遅くなるからって断ったんだけどね。どうしても一度、二人で会いたいって」


 そうですか、と俺は俯いた。

 うーむ。

 なんだろうか。

 このモヤモヤした気持ちは。

 キルシアは悪いやつじゃなさそうだし。

 このお店にとっても、アスカさんにとっても、貴族との血縁が出来るというのは、悪い話じゃないはずなのに。


 すんごいモヤモヤする。


「あの」


 俺は思いきって口を開いた。


「すいません。ちょっとどうしても聞いておきたいんですけど」

「なに?」

「アスカさん、もしも結婚したら、このお店辞めちゃうんですか?」


 かなり踏み込んだことを聞いてしまう。

 だけども。

 これは聞いておかねばならないことだと思った。

 トマのためだけじゃない。

 俺やネメシスや、このバルで働く従業員みんなのために。


 アスカさんは「辞めないわよ」と笑った。


「私はこのお店が大好きだから。ううん。もしかしたらそれ以上かも。この『パリス』は、私の人生そのものみたいなものだから」


 アスカさんはそう言って、壁に飾られた肖像画を見た。

 釣られるように俺も視線を追った。

 そこにはコック帽を被った男たちが二人ならんで写っていた。

 一人はオーナーの若い頃の写真だ。

 そしてもう一人は――見覚えのない、精悍な顔つきの青年。

 誰かに似ていると思ったけど、すぐに分かった。

 アスカさんにほんの少し面影があるのだ。


 アスカさんはその写真を、少し寂しそうに眺めていた。

 彼女はまだ、迷っているのだ。

 その横顔を見ながら、俺はそのように感じた。


「でも」

 と、俺は言った。

「でも、向こうは名家の一族ですよね。しかも大金持ちで、この街を代表するレストランの御子息。アスカさんがここで働くことを許してくれるでしょうか」


 とても許すとは思えない。

 庶民から貴族の跡取りに嫁いだお嫁さんに、そんな自由があるとは思えない。

 世の中の仕組みに疎い俺でも、そのくらいはぼんやりと分かる。


「分からないわね」

 アスカさんは小首を傾げた。

「でも、私は辞めたくない。このお店を辞める気もない。今のところはね」


 アスカさんはあははと明るく笑った。


「今のところは、ですか」


 無意識に小さなため息が出た。

 俺はアスカさんに辞めて欲しくないんだと改めて思った。

 すっかり落ち込んでしまった俺を見て、アスカさんはくすりと笑った。


「そんな顔しないの。まだ何も決まってないんだから。そんな風に深刻にならないで」

「あ、ああ、すいません。そうですよね」

「それじゃあ、戸締まりはしっかりしておいてね」

「はい。お疲れ様でした」


 俺が頭を下げると、アスカさんは「お疲れさま」と言って踵を返したのだった。


 さて、と。

 俺はふう、と息を吐いた。


 それから、アスカさんが出ていった扉を見ながら言った。


「いるんだろ、トマ。出てこいよ」


 

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