10 傷心
そうして。
俺のアルバイト生活は比較的順調に滑り出した。
俺とパチューカは安宿から引っ越してオンボロのアパートで住むことにした。
安定的にお金が入るといっても皿洗いの俺の収入は雀の涙だ。
草食ドラゴンであるパチューカは昼間は郊外へいき、適当に食事を済ませてくれるので、本来ならかなり高くつくはずのエサ代はかからなかった。
俺の稼ぎは丸一日働いても、そのおかげでなんとかやっていける程度の給金だった。
やはり、暮らしに余裕を持たせるためには、どこかのギルドに所属して魔物退治や傭兵などをすることが望ましかった。
「本当に困ったらウチが他ギルドに丁稚奉公しよか?」
パチューカはそんな冗談ともマジともとれないジョークを言っていたけど。
そんな事態にだけは絶対にならないようにしなければならない。
パチューカが俺以外のテイマーに使役されてるとこなんて、想像するだけでも嫌になるってもんだ。
幸い今の働き先であるバルの店長は良い人で、俺の事情を組んで出来るだけたくさんシフトを入れてくれると言ってくれた。
あとは一生懸命働いて、オーナーや仲間たちの信頼を勝ち取り、少しでも時給をあげていくだけだ。
俺は朝の11時ごろに出勤して、夜は日付が変わるまで店にいた。
仕事さえきちんとしていれば、出勤時刻や休憩時間はかなりアバウトでも許された。
肉体的にはキツかったが、精神的には安定していた。
勇者たちと冒険しているときは毎日が闘いで、命の危険と隣り合わせの日々だった。
それはとてもスリリングで刺激的ではあったが、心が休まるときはあまりなかった。
今こうして一般人としての普通の暮らしのただ中にいると、その頃の生活がいかに心を疲弊させていたかを実感した。
命を賭ける旅は、やはり相応の覚悟がいる。
それに。
この忙しい日々というのは、嫌なことを忘れさせてくれた。
俺の心はまだたぶん、傷付いていた。
暇をして宿でゴロゴロしていたら、勇者たちから追放されたときのことを頻繁に思い出して、その度に煩悶していたことだろう。
ムカムカして、イライラして。
そして、悲しんでいたことだろう。
でも、こうして朝から晩まで働くことで、俺の気はかなり紛れていた。
夜、疲れてすぐに眠りにつくことは、俺にとっては救いですらあった。
それでも。
ふとしたとき、思い出した。
勇者たちは今ごろ、順調に旅を進めているんだろうか。
俺がいないことで不便はないのだろうか。
俺がいないことで、仲間たちに不和が起こっていないだろうか。
もちろん。
これは心配してるわけではない。
むしろ逆だ。
俺はそこまでお人好しではない。
俺は考えていた。
どうか。
どうか――
どうか、揉めててくれ。
困っていてくれ。
そう思わずにはいられなかった。
俺を首にしたことで、勇者たちには、俺のありがたみを感じていて欲しかった。
あんな理由で俺を首にしてしまったことを、どうか後悔していて欲しかった。
いや。
もっと言うなら。
あんな奴ら。
不幸になってしまえば良い。
俺はときどき、そんな風にすら考えていた。
やはり俺はまだ、あの出来事から立ち直れていなかった。
鬱屈した想いが晴れていなかった。
まだ、俺を追い出した勇者たちが憎かった。
勇者と一緒に世界を救う。
その夢から。
理想の人生から。
俺を追放した、あいつらが。
俺はまだ、許せていなかった。
だからいつか。
いつの日か。
どうにかして見返してやりたかった。
我ながら女々しいけど。
もう有り得ないくらいダセーけど。
立派な男になって、いつか。
「リドルをクビにするんじゃなかった」
いつか、そう言わせてやりたかった。
「たまには休んだらどうや?」
ある日の夜。
あまり寝る気がしなくて、窓の外の月を眺めていると。
ベッドに丸まっていたパチューカが、目をつむったまま、そのように言った。
「リドル、もう10日も働き詰めやない。あんまり根つめるとよくないよ」
まだ起きていたのか。
俺は肩を竦めた。
「サンキューな。でも、平気だよ。俺、あの職場、嫌いじゃないし」
「職場のことは心配してへん。そうじゃなくてや」
「じゃあなんのことだよ」
「リドル、まだ時々、辛そうやから」
俺は驚いて、思わず目を大きくした。
パチューカは、俺の心を読んでいた。
そのことに、驚いた。
「誰かを恨みながら生きるんはしんどいで。気持ちは分かるけど、もう済んだことや。忘れや」
パチューカは相変わらず目を閉じたままだ。
俺は作り笑いを浮かべて、「なんの話だよ」とすっとぼけた。
パチューカの返事はなかった。
彼女はすぐに、すーすーと寝息を立て始めた。
忘れろ、か。
俺は窓の格子に肘をつき、月夜に照らされた、美しいパチューカの寝顔を見た。
きっと、パチューカの言うことは真理なんだろう。
これ以上終わったことに執着しても、得なことはなにもない。
それどころか。
自己嫌悪でどんどん自分が嫌いになる。
わかってる。
理屈では、分かっている。
――けれど。
それはまだ当分のあいだ、無理そうだ。
俺はもう一度。
目を窓の外に移した。
闇夜に浮かぶ真ん丸の月が、綺麗だった。
ああ。
アーシャも、この世界のどこかで、あの月を見ているだろうか。




