ストロー・ミーツ・ファーストカスタマー
悲報。弱筆者、謎の腹痛に襲われる。
「いらっしゃい」
宿屋のドアが開かれる。そこには歴戦の勇者を示す傷が無数に刻まれた、ラメラ・アーマーを纏った壮年の剣士が笑顔を見せている。彼は既にこの宿屋のリピーターであり、ストローに気さくな様子で手を振るとカウンターに近づいてきた。その後、取り留めもない世間話をしたあとに彼のお気に入りの位置のベッドに潜り込み、様子を伺う者の方が気持ちの良くなってしまいそうな寝息を立て始める。
「いらっしゃい」
宿屋のドアが開かれる。ドアの隙間から周囲の行きかう人々の喧噪が音の波となって入り込んでくる。 はて? いつの間にこの宿屋の周囲に他の建物や賑やかな市場が建ったのだろうか? まあ、そんな事はどうでも良いことだ。ストローが改めて来訪者を見ればまだ若い娘であった。品の良い身なりに整った顔からは長い耳が伸びている。ほう。エルフですか? 良いですねえ。そもストローもエルフを目にするのは今回で3人目…イヤ5人…もっと髪型や服装の違うバージョンも含めるともっといたような気もする。彼女は気恥ずかしそうに宿帳に名前を記載しストローに宿泊料を手渡した。しかし、このコインは初めて見るデザインだった。いや、まあそんな事だってあるのだろう、彼は気にせず彼女をベッドまで案内する。おっかなびっくりっといった感じでベッドに身を横たえ、幸せそうな寝息を立てた彼女の寝顔を見届けたストローは次に訪れる客の為にカウンターへと戻っていく。
「いらっしゃい」
宿屋のドアが乱暴に開かれる。そこにはまるで世紀末といったモヒカンヘアに凄まじい入れ墨を顔に刻んだ、屈強な猛者が仁王立ちして正面を睨んでいた。並の者であればあまりの恐怖に夢の世界へと逃げてしまうのであろうが、そこはこのストローという男である。まるで動じない。"客を選ぶ権利はあるが、差別はしない。宿に迎えたならば友も同然、全力で持て成せ!"…それがストローが決めた絶対のルールである。屈強なモヒカンはそんな姿勢のストローを気に入り、白い歯を見せて彼と熱い握手を交わすのである。そして、この素晴らしい宿屋の虜のひとりとなる。
「いらっしゃい」
ドアが開かれなかった。
どうやら今日はこれまでのようだ。ストローは微笑を浮かべながらカウンターの開き戸から出ると、その足で宿屋のドアを開く。外は日が落ち、オレンジ色の光線が森の枝や葉を赤く、昏く染め上げている。どこか遠くでギャアギャアと品の無い鳥の鳴き声が響く。間もなく完全な闇が支配するのだ。そして、ストローは大きな溜息を吐くと中に戻ってギィと音を鳴らしてドアを閉める。
宿屋は静かであった。まるで誰もいないように静かであった。寝息すら聞こえない。
そう、あれらの客は単なる妄想の産物であった。途方もない悲しみがひとりカウンターへと戻ってきた男を覆いつくし、完全に脱力した頭が勢いよくカウンターの上に叩きつけられる。
「………全然、客、こねえ。…暇だ。…暇過ぎて麻痺する。…心が死ぬ」
ストローが北ルディア中央を統べるトリスモンド王国。の、辺境の未開の土地、古き言葉では"ブルガ"と呼ばれる土地に宿屋を開いてからもう3日程が過ぎた。まあ、あまり流行らない普通の宿屋だってこんな風に客足が向かないこともあるだろう。しかしながら、運が無いことに彼が意気揚々と宿を構えたのは辺境の森の真っ只中。1匹でも下手な街ならば壊滅的な被害を出しかねない脅威度のモンスターが闊歩する場所でもある。結果、宿屋を利用とするものは残念ながらこの周囲にはいない。流石に彼もその事には薄々気付いてはいたが、それでも誰かひとりくらい近くを通り掛かるだろう。そう信じて…。
後に彼は愚かな行いであったと親族に漏らしている。
「3日も待ってはみたが…やっぱり場所が悪いよな…でも次はどこに向えばいいのやら」
ストローはカウンター奥のドアから近代的なデザインの部屋へと入り、ソファーに上に寝転がる。
彼は"3日も待った"と独り言ちたがこれには理由がある。宿を置いて暫くした後、このカウンター奥以降の生活空間とも呼べる場所(以降Pゾーン)とその外では時間の流れが大きく異なることに彼は気が付いた。この快適な環境での1時間は外の1分と同じ時間となる。ストローは初日に1日中、夜になるまで宿屋や外で時間を潰していた。その後、Pゾーンで食事や風呂、テレビを楽しみたっぷりホテルのような自室で10時間ほど就寝した後、彼は身も心もリフレッシュして宿屋へと戻り外の空気を吸う為に外へと出る。朝日が目に入るはずが外は暗闇に閉ざされたまま。頭を捻るもPゾーンには時計のような調度品は置かれていないし、呼び出した半透明のウインドウにも時間の表記は無い。なにか違和感を感じながらも、もしかして丸1日寝てしまったか?と考えた彼は再度Pゾーンへと戻る。テレビジョンで時間を潰し、再度宿屋外を伺う。何も変わらない、暗闇のまま。
彼はこの世界に来てから初めて恐怖を覚えたのかもしれない。
ストローは標準装備であった布巾を水に浸して宿屋の外のドアノブに括る。彼はテレビジョンでドラマを見る。刑事ものの喜劇で3シーズン36話ある。つまり見終わるまで36時間、1日半掛かる。それを見終え目をショボつかせたストローは外へと出て括りつけた布巾に手をやる。
布巾はグッショリと変わらずに濡れたままであった。地面へと垂れた水滴が作ったのであろう小さな池も渇いた様子はない。そこで彼はPゾーンでは殆ど時間が過ぎていないことを知るのであった。なので、Pゾーンに出入りする彼は3日どころではなく数十日間にも感じられる孤独感に身を晒されていたのだ。
ストローは電源の点けていない壁掛けのテレビ画面に映った自分の顔をジッと見る。
「明日、誰もこなかったらここを離れよう。イヤ、離れるべきだな。場所さえ確保できればどこでも宿を出せるんだ、何日掛かっても問題ないだろ。…とにかく、もう少しは人気のある場所に行かなきゃ俺がまいっちまいそうだぜ」
ストローは目を閉じた。
だが、物事は諦めた時に急な変化を起こすのは良くあることだ。
次の日の朝を過ぎた頃だろうか、突然ドアから男が宿屋へと飛び込んで来たのだ!最初、ストローはこれも妄想であろうかと思い平時の声で、
「いらっしゃい」
だが、目の前の男はいつまでも消えてなくならないではないか!本物の客だ!心の底から歓喜の声を上げたいのを必死に堪えるが顔がにやけてしまう。だが、ここで逃げられては溜まらない!ストローは入ってきた男の様子を伺う…
◆◆◆◆
◤ストロー◢
諦めた途端にコレだよ。アレだ。探すのをやめた時~♪ってヤツだ。
…………。
ひゃっほォ!? やっとこさ客が来たぜ!? ど、どどどうする!?
下手な対応をして逃げられたらヤバイぜ!…ス、スマイル!スマイルだ。まるで何事も問題がないかのように気楽な感じで話し掛けねばなるまい…ミッション・スタートだ…!
「いやはや記念すべきお客第1号がこんなにボロボロとは、恐れ入る。…この辺はもしかして大分、物騒な場所なのか? 緑が多いから割と気に入っていたんだがなあ」
兎に角、此処が安全な場所であることを教えておかねば!それとさりげなく周囲のロケーションもアピっておこう。
床に転がっていた男が何とか頭を上げて俺を見る。それにしても、本当にボロッボロじゃあねえか。よっぽど酷い目に遭わされたに違いない。…良し!コレだけやられてたらダメージも相当溜まってるに違いない!宿を使わずにはいられないはずだ!(ニヤリ)…ん?随分を床に気を取られたてたみたいだが。気のせいか?
男は何とか膝で立って体を起こした。しまった!顔に出たか? ヤバイぞ、折角の初客に逃げられちまうっ!
「おいおい、大丈夫か? 酷ぇな」
慌ててカウンターの開き戸を上げて男の近くに寄って行った。おう、近くでみりゃあ本当に酷い怪我だな。血がかなり流れてるし、男の顔色も悪いな…。だが、男は暫く俺を呆けて見ていたと思ったら急に土下座を決めてきた!えっ!? まさかコレがこの世界でのスタンダードな挨拶だったりするのか?
お、俺もやった方が良いのかなあ~どうしよ。
俺が身を屈めると、男が口を開いて頭を更に下げ出した。
「…お、おい。逃げろ! 俺はモンスターに追われてる。すまねェ…!」
「モンスター? ふーん、変な鳴き声とか聞こえてたけど。やっぱりモンスターとか普通にいんのね。なるほど、流石ファンタジー」
「ふ、ふぁん? ってオイ!」
モンスター、だとお? やっぱいやがんのか。俺は客が欲しいだけで別に経験値とかは要らん。だから戦うなんて事はしたくなかったが、俺の大事な客を取ろ―とするのなら、このストロー。容赦せんッ!
男が後ろで何か叫んでいるが、まいいや。確かにドアの外にはゴリラみたいな生き物が5、6匹こちらに向かって吠えながら突進してきてるなあ。
「「グギャアアアアアア!」」
とても、俺にはフレンドリーに彼らと接する自信が無い。
「…団体さんだが、どうやらお客じゃあないようだ」
あ、そういう時の締め出し機能じゃあねえか。うん、大事な客が怖がって逃げたら困るんだよ。さて、お帰り頂こうか?
「迷惑な奴はお断りだ。…帰ってくれ」
俺らがゴリラ共に向かって"締め出し"と念じるとゴリラ共が金属質な音と共に掻き消える。ふう、これで一安心だ。まったく、ゴリラは動物園でウ●コでも投げて子供を喜ばせてるんだな。
俺はそっとドアを閉めて客の退路を塞ぐ。男は信じられない、と言う表情で俺とドアを交互に見ている。…アレ、拙かったか? モンスター、ってアイツ達だろう。…まさか仲間とかペットだったって事はないような? いくらファンタジーとはいえ。…しかし、今後は軽率にこの機能は使えないな。下手すると客の連れを出禁にしちまうかもしれないし、要確認ってところだな。
「さて、マシな客はアンタだけのようだな。…アンタ、客だよな?」
「客って…お前、何トチ狂ったこと言ってんだ?」
え!? 客じゃあないの!?
男はフラフラと立ち上がるとドアを開いて外を確認している。そういやあ…看板もかかってないもんなあ、無理ないか。どうやら男はここが宿屋とは知らずにここへ来てしまったので若干混乱しているようだ。
「ハ…ハハハ。俺は夢でも見てんのか? それとも、もう死んであの世に?」
「おい冷やかしか? でも、悪いことは言わないアンタ泊まってきなよ」
俺の声に慌てて客はドアを閉めてくれた。良かった、帰っちゃうんじゃないかと思った…
「と、トマル? 泊まるって…ここは一体なんだってんだ?」
「え? 何かも知らずに入ってきたのか? チャレンジャーだなあ…まあ、仕方ないか看板も外に掛かってないしなあ」
うん。そこは本当に謝罪する。ゲームだって看板掛かってないのに何の店かわからねーよ!って怒るモンだしなあ。だが、心配ないさ。俺の宿にはこの一級品があるんだぜ!
「このベッドを見りゃあわかるだろう? 宿屋だよ。ここは」
俺は会心のスマイルを決めてベッドを指さした。…決まったな!(宿泊が)
あぁ!? 一番大事な事を聞いてなかったわ。俺は男に一般的な宿屋の料金を聞いたら答えてくれた。ほう、銀貨3枚か。なら、暫くはそれでいいや。まあ、銀貨1枚でどんだけ価値があるかしらんがな。
男はそれからも何かブツクサ言ってたり、妹自慢をしたかと思えば俺に出張サービスを願い出てきたりしたのだが、結局はカウンターの宿帳に自身の名前を文句も言わずに記載してくれた。ああ、良かった。どうやら泊まってくれるらしい。
半透明のウインドウ画面がカタカタと音を立てて更新される。どうやら客にはコイツが見えてないらしいが、画面には男の情報が記載されている。…ほほう、ボーゲン、さんね?個人情報丸解りだな!だが変な奴を他の客と一緒に泊める訳にはいかないし、…そういやぁその内に料理や酒類の提供もしたいから、好物とかアレルギーの情報とかこれでわかるんなら使えるな!やっぱり泊まっくれる客には満足して欲しいしなぁ。
そんなやり取りをしてたらボーゲンがぶっ倒れた、ヤバイ!HPの減り具合見てなかった…拙い拙い、折角の客を死なせてしまうとこだった。ボーゲンはハタチのくせになかなか生意気な口をきくなと思ったが、自分の血でベッドを汚すのが申し訳ないと言ってきた。…なんだよ、そういう気づかいとかできるんじゃあねえか。気に入った!
俺は問答無用でボーゲンを担ぐとベッドの上に放り投げる。ベッドにスッポリと収まったボーゲンは死んだように眠ってしまった。本当に死んでしまったのかと不安になったが、ステイタスを確認するとHPがみるみる満タンになったので安心した。
「…よっぽど、疲れてたんだなあ。あんな若いのに大変だねえ冒険者ってヤツは? 俺もそりゃチョットは憧れる職業だけど、無理だなぁ~! …ま、起きたら何か食わしてやれば文句もないだろう」
俺は若い冒険者の寝顔を眺めた後、カウンターへと戻った。
俺が宿屋の看板のデザインを練っている内にすっかり朝になっていたようで、ボーゲンがムクリと寝台から起き上がった。よし、完全復活したようだな。流石はファンタジー。
「おはようさん」
俺はこのセリフが言いたくて宿屋なんてモンになりたかったのかもしれんなあ…おっと、忘れるとこだったぜ。俺は銀貨3枚を取り出すと、目の前の寝起きから預かっていた財布を投げ返す。ついでに、その王都とやらへの出張サービスも断っておいた。そりゃあ、王都ってんなら客はイイパイいそうだがな~? 理想は村くらいのとこから始めたいんだよなあ。
男は信じられないといった様子で口をパクパクさせていたが、俺に矢継ぎ早に質問攻めをかましてきた。いやあ~そこまで喜んでくれるのはありがたいんだが、俺にだって分からない事はある。ぶっちゃけファンタジーの事はわからんぜ。そういうもんだろ? っとボーゲンにゴリ押しすると大人しくなってくれたのでテーブルの椅子に座らして目の前に豆腐のようなもの(温かい)とレモン水を出してやる。
ボーゲンは恐る恐る豆腐のようなものに口をつけた、と思ったら物凄い勢いでそれをかきこみ、水を飲み干す。相当気に入ったようだな。まあ、こんなもんでよけりゃあいくらでも食わしてやろう。…よっぽど腹減ってたんだなあ。どうやら、いくらファンタジーとはいえだ、寝ただけじゃあ空腹までは回復しないようだな? そりゃあそうか。 この宿で食事を提供する時には食べ放題にした方が良いな…。
だが、満腹になったボーゲンは徐々に顔を青くして震え始めた。え。アレルギーとかは無かったよな? …うん、ないぞ。どうしたんだ?
あ!そうか、食事代を気にしてるんだな? あんだけ金持ってんのに小心者だなあ。俺は食事はサービスだと言ったのだが、ボーゲンは首が取れるほど首を振って俺に財布を押し付ける。あまりに必死だからチップということで受け取ることにした。貰い過ぎだと思うんだがなあ~…だが、俺はよっぽど寂しかったのだろう。帰ろうとするボーゲンを止めて、後何日か泊まっていけと勧めた。とりあえず後9回泊まってくれればスキルのレベルが上げられるしな。
だが、ボーゲンは折れなかった。どうしても妹の為に王都へと帰りたい。お願いします帰して下さい!精霊様!っと泣きながら土下座されてしまっては俺も帰さない訳にはいかなかった。…それにしても、精霊様ってのはどういう事なんだ? 何かの敬称みたいなモンなのかもな。だって俺、精霊じゃあねーし。
どうやら、自分が倒したワイバーンの素材を回収したいらしい。俺がボーゲンの腰にある牙について尋ねたら、なんと俺にくれるという。ふーむ。俺にはこの価値がよくわからないが、ボーゲンの名を彫って記念に宿屋に飾らして貰う。と言って受け取ると、何故か当人はえらく感動した様子だった。まあ、冒険者の風習というヤツなのかもしれないし、気持ちを無下にもできないからな。
最初の客であるボーゲンが去った後、忘れていた寂しさが俺の心を満たす。俺は宿屋の前に立って独り言ちる。
「よし!別の場所に行こう!世界は広いんだ、ちょっと旅する移動宿屋…なんてあっても問題ないだろうさ!…だって、ファンタジーだし」
俺はワイバーンとやらの牙を眺めた後、ウインドウ画面を操作し、宿屋を消す。
さて、出掛けよう。新しい客にも、きっと会えるだろうさ…。
◆◆◆◆
北ルディア中央を統べるトリスモンド王国。その辺境"ブルガ"の人を寄せ付けることなどないはずの森の中で呑気な男の鼻歌が聞こえてくる。
―こうして、後に誰もが知るであろう"精霊の宿"の物語が始まるのである。