七月、第一金曜日
「二人で抜け出さないか」
同じ研究室の角谷に肩を叩かれて、昌人はグラスを置いた。
研究室のデスクの上には、空き瓶や空き缶が山となっている。すっかり出来上がった院生の先輩達は、我先におんぼろのソファを奪い合った。勝者のいびきをBGMに、まだ飲み足りない奴らが、ちびちび余った酒を舐めている。
「いいよ」
つまみは生協で見繕った菓子ばかりだった。昌人達はまだ若く、酒の味も実はよくわからない。でも、若者は、大人の仲間入りをしたと宣言するために、酒を飲んで少しばかり理性を手放し、子供のようにバカ騒ぎをしたがるものだ。
研究室の仲間達が楽しげに酒を酌み交わす様子を、昌人は幾分さめた目で見ていたと自覚している。昔から、どうしても集団から一歩引いてしまう。
角谷は昌人を灯りの消えた暗い廊下に連れ出した。
研究室の窓から漏れる光が廊下を照らし、あとは非常ベルの赤い灯りがあるのみ。窓の外は真っ暗闇だ。この大学は山の中に建っているのだ。だから、七月だというのに、夜の廊下は薄ら寒いし、静けさが満ちている。こんな真夜中に活動しているのは、昌人達学生と、虫くらいのものだろう。
角谷は実験室の鍵を開けると、入口近くの冷蔵庫からアイスを二本取りだした。
「ほい」
「サンキュ」
渡されたアイスのパッケージの値段は七十円。あたりが出たら、角谷に渡そう。昌人は角谷がアイスを食べ始めてから、封を切った。ソーダ味のかき氷。
ふらふらとまた廊下を歩き、非常口を開けて、外の階段に出た。角谷が腰を下ろし、昌人もそれに続いた。
角谷はアイスを半分食べてから、口を開いた。
「あのさ、俺、ずっと実家帰ってたのね」
「うん、知ってる」
角谷の実家は県外にある。夏休みに入ってもいない、試験前の変な時期に帰るものだと、人づてに聞いて昌人は思った。
「それで、何で帰ったか、聞いてる?」
昌人はアイスを口に入れた。非常口を駆け上ってくる風は、酔いを急速にさましていく。アイスは酒に火照った舌を冷やし、昌人の唇を凍えさせる。
「まあ、きいてても、きいてなくても、いいんだけど。……親父が死んでさ。それで、通夜とか、葬式とかで、なかなか戻ってこれなかった。お前にも迷惑かけたな。レポート、一人でやったんだろ」
「別に、慣れてるから」
「そういうなよ」
角谷は笑って、昌人の髪の毛をかき混ぜた。
兄貴然とした角谷。出会ってしばらくして、よく話すようになった。
才気煥発とした角谷が、昌人には眩しかった。何をするにも器用で、人にもよく好かれる。なぜか角谷は昌人を気に入った。ある日の帰り道、「お前って、なんか、側にいるとほっとするよな。いつもにこにこしてて、穏やかで、幸せに育てられたんだろうなって思う」と、角谷は笑って昌人に言った。
昌人は角谷の顔を見るたびに、その事を思い出す。角谷は昌人の顔に「幸せ」を読み取ったのだ。その事に、強く罪悪感と、儚い優越感を持っていた。
──母子家庭だから。
昌人が告げると、角谷は意外そうに目を瞠った。角谷の目に、昌人は、何不自由なく円満な家庭で育った青年に見えたのだ。
角谷はやはり屈託無く、「へえ、きっと、いいお母さんなんだろうな」と言った。
「帰りの飛行機でさ、やっぱり親父はいなくなったんだって。もう親父はいないって、思ったら、たまらなくってさ。昌人のこと思い出した。昌人はずっと、こんな気持ちだったのかなって」
角谷の手は震えていた。
「母親と妹がずっと泣いててさ。俺がしっかりしなきゃって。どこにも吐き出せなくて。救われないなって思った。でも、昌人は俺と同じなのかって、思ったら、ふっと心が軽くなった」
角谷はとりとめも無く、在りし日の父親について昌人に語った。昌人はそれを聞きながら、酔いとは別に、心の芯がすぅっと冷えていくのを感じていた。
──悲しめるだけの、思い出があるだけ、お前の方が全然マシだよ。
働きづめの母親の背中は、いつも昌人を孤独にした。地域の学校の友人達は、昌人の前では父親の話をしない。彼の父親が、家庭内暴力を振るっていたことを知っているからだ。ゲームの話もしなかった。昌人がゲーム機を買い与えられていなかったことを、そこまでの経済的余裕がなかったことを知っているからだ。遠巻きな同情は、昌人を物静かな優等生にした。
父親がいなくても、昌人に不自由はさせたくないという、母親の気持ちがひしひしと伝わったせいもある。年齢が上がるにつれ、自分は腹を空かせていても、昌人に牛肉を食べさせたがるような、母の愛情が重苦しく感じられるようになった。大学受験は、母親から逃げるための手立てだった。母親の払った労苦に見合うくらいの、けれど家を出なければ通えないくらい遠くの、「いい大学」に入る。
昌人は幸運なことに志望校に入学し、奨学金を得て、大学の寮に入った。授業料も免除される。バイトだってしている。もうこれで、昌人のための金銭的負担は、なくなったはずだ。それでも母親は、猛烈に働くことをやめない。万が一のため、昌人に残すためと言って、働き続ける。昌人はお母さんとは違って、幸せになるんだよ、と母親は言う。
母親は、幸せになるために、母親の人生を殺せという。
──お前が幸せだといった俺。
昌人には、角谷こそが幸せに見えてならない。幸せで、甘ったれていて、憎しみの匂いを知らない。一度だけ、昌人は自分の父親に会いに行ったことがある。あれは高校三年生、いよいよ志望校を決めるとなったときに、追い詰められて、衝動的に母の持ち物を漁った。父の勤め先という手がかりを得て、昌人は父親に会うことができた。父親は、突然の来訪に驚いた様子だったが、「大きくなったな、苦労をかけたな」と昌人を労って、連絡先を教えてくれた。あとからその連絡先に電話したら、無機質な女の声が「この番号は、現在使われておりません」
父親は、昌人が幼い頃から、昌人を必要としていない。
非常階段の冷たさが尻を伝わる。ふと、昌人の手にあたたかいものが重なった。それは角谷の手だった。角谷の手は昌人の手よりも随分あたたかく、昌人はそのことに改めて打ちのめされた。
友達が深く傷ついている時に、自分は何を考えていたのだろう。本当に、自分は心が汚い。母親を犠牲にして育ったからか。暴力を振るう父親の血を引いているからか。どちらにせよ、昌人は醜く、汚い心の持ち主なのだ。昌人のせいで母親は辛い思いをする。父親にとって昌人はいない方が良かった。昌人はそういう、誰にとっても価値のない人間で、最低の存在なのだ。
だから、心から角谷に同情することができない。
角谷は昌人の肩に自分の頭を載せ、すすり泣き始めた。休日になると、息子を釣りに伴った父親。勉強を教えてくれた父親。母の日には、妻にカーネーションにプラスワン、何か贈り物を欠かさなかった父。妹に甘く、すぐにおねだりをきいて妻に怒られた父。仕事ではみなに頼られ、いくつものプロジェクトを成功させた父。あんな父親になりたいんだ、親父の背中を追う息子とか、ドラマみたいじゃねぇ?と、角谷に言わしめた、彼の父。
息子から去って行った、それだけだ。昌人の父親と同じところは。でも、昌人の父は自分から去り、角谷の父は奪われた。
──だから、お前にかける言葉が、見つからないんだよ。
いいじゃないか、いい父親だったんだから。いなくなっても、たくさん思い出があるんだろ、幸せな! お前は幸せだったんだろ、幸せなのは俺じゃ無い、お前だ!
失ってまで俺に見せつけるな。俺をこれ以上、惨めにさせるな。
角谷の頭の重みが、昌人を苦しめる。その重みは、彼が昌人に寄せる親愛そのもののようで。
その時、視界の端に、黄緑色の光点が現れた。
「あ」
昌人は思わず、小さく声をあげる。角谷も顔を上げて、昌人が見たのと同じ方を見遣った。
黄緑色の小さな光は、明滅を繰り返しながら、増える。ひとつがふたつへ、ふたつが、みっつへ。
増えた光は消え、新たな光が生まれる。みな一様に、光は闇の中に瞬いている。
「……蛍だ。そうか、この下、沢だから……」
昌人と角谷は、しばらく光が跳ね、闇のうちに躍るのを眺める。外灯も無い暗闇だから、やっと見ることのできる微かな光が、やけに眩しかった。
食べられぬままで、溶け出したアイスが、棒を伝って昌人の手を濡らした。昌人は目は光りに向けたまま、のこりのアイスを口に入れる。甘い氷の味。
「きれいだなあ……きれいだな」
鼻をぐすぐす鳴らしながら角谷が言う。
「俺さ、昌人と見た、この風景、たぶん、一生忘れないよ」
そのうち、昌人達は、学生時代を終えて社会に出る。子供時代と比べ、選択肢は格段に増える。その選択肢のひとつに、大人として、仕事をし、相手が見つかれば結婚をし、家庭を築く、そういう日々もある。
お父さんと、お母さん。それから子供。愛されるのを待っている子供。
子供の昌人は──小さな昌人は、お父さんのことが大好きだった。お母さんのことも大好きだった。
お父さんとお母さんがいる、普通の子供でいたかった。普通の家で、普通の子供みたいに、ゲームを買ってもらって、釣りに連れて行ってもらいたかった。それらはもう決して叶わない。かなわなかったことは闇のなかに沈み込んで、決して光ることは無い。
けれど、確かに起きた出来事が、消えて無くなることもないのだ。それがどれ程ささやかであっても、昌人の心を照らす、光になる。
昌人はぼんやり憶えている。両親が仲良く、昌人がその間に収まっていた瞬間があったことを。甘く満たされた時間のことを。
角谷は感極まったようで、わっと声をあげて泣き伏した。昌人は笑って、ハンカチを角谷に渡す。食べ終わったアイスの棒も、角谷に渡す。それがあたりであればいいと、昌人は思う。
アイスの棒の当たり外れくらい、先がどうなるのか、人間にはわからない。──そんなものなのだろう、生きていくのは。無限の可能性だけがあって、正解は示されない。小さなことに一喜一憂して、自分を責めて、他人を責めて、傷ついて、それでも、忘れられなくて、求めて、死んでいく。
「……そうだな、俺も、忘れないかも」
人間ってちっぽけだな、と昌人は、若者らしく思った。ちっぽけで、弱くて、儚い。
だからこそ、闇に抗う蛍の光の美しさが、これほど胸に焼き付くのだ──胸の、心の、いちばん深く、やわらかいところに。
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