空色ラムネ
海沿いの古い校舎を出て、すっかり熱くなったサドルに跨った。ジリジリと肌を焼く日の光に痛みを感じながら、隣に置かれた自転車に目を向ける。
「今日も暑いね」
自転車の前かごに厚みのない鞄を放り込み、平井ハルヤは熱いであろうサドルに恐る恐る跨った。
「そうだねぇ……。クーラー無いから暑くて授業ほぼ頭に入ってないよ僕」
海の近くで尚且つ山に囲まれた田舎であるために住人が少なく、学年が少し離れているくらいの関係ならタメ口も聞けるほど仲がいい。だから、たとえ男女でも『きょうだいのようなもの』としか捉えない大人も多いのだ。現に二人は家も近く、この地域では仲良し姉弟だと有名である。
「おいかけっこをしましょう。さあ、つかまえてごらんなさーい」
真顔で、唐突に言い出す蒼葉エリの演技くさすぎる言い方に苦笑いを浮かべ、ハルヤは自由すぎる二つ上の学年の先輩を追ってペダルを漕ぎ出した。
「ねえ、ラムネ買っていこうよ! エリ先輩」
そう叫び、べったりと額にへばりついた汗を半袖のワイシャツで拭った。視界の端に映る大きな海がキラキラと輝いており、心なしかエリの後ろ姿も光って見える。
いーよ、とエリが返し、コンビニも何もない道路にポツンと建っている駄菓子屋の前に自転車を止め、奥で涼んでいるおばちゃんに声をかけた。
「ラムネニ本くださーい。……わっ、おばちゃん変わらないねえ。いつ見ても若いわ」
「ばか言うんじゃないよ。おまけはしないからね、エリちゃん」
甘えた声でおばちゃんの機嫌を取ろうとして見事に失敗したエリを見て、ハルヤはゲラゲラと笑う。
ぶー、と言う顔をしてエリはパンダのキャラクターがプリントされた小銭入れから二百円を取り出した。
「ハルヤの分も買ったよ。ほれ」
ハルヤにボトルを渡して自分のボトルのビー玉を器用に落とした。
「僕いつも泡がこぼれちゃうんだ。エリ先輩うまいね」
「まーねー。夏休みといえばこればっかり飲んでたもん」
エリの担任の男性教諭が無視にビックリして叫んだとか、ハルヤのクラスメイトのカナちゃんは絵が上手だとか、卒業したら何がしたいか話していると、唐突にエリがおかしな行動をとった。
「ねえ、今日の空みたいだよ」
「……だって先輩、そらにボトルをかざしてるじゃないか。そう見えて当然だよ」
空っぽになったボトルを空中にかざして遊んでいるエリの大人びた横顔を見てから、ハルヤはぬるくなったラムネを一気に煽った。カラン、とビー玉の音がする。
「……本当だ。空と一緒だね」
赤くなった頬を誤魔化すように、エリと同じ変なポーズをとって、どちらともなく笑いだした。
それから一週間しないうちに、二人はおそろいのサンダル姿で近所の広いひまわり畑を駆けていた。ふかふかの草に飛び込んで仰向けになったエリの短い髪の先に小さなてんとう虫が止まる。
「まぶしいねぇ……さすがは八月だ」
エリは入道雲が浮かぶ青空に目を細め、今までの暑い夏休みを振り返った。ふわりとエリの白いワンピースが風に揺れる。
「これで最後なんだね。ハルヤとの夏休み」
地元で過ごす最後の夏休みを寂しく思って、眉を八の字にした。
「エリ先輩の大学受験がうまくいくように応援してる」
言いながら、ハルヤは胸がザワっとして少し怪訝な顔をした。
夏休みも中盤。今年一番の猛暑日になると予報された十四時半。
「先生、相談です」
学校から持ち帰り忘れた夏課題を手に持ち、エリを迎えに来たハルヤが見た光景は、エリの担任に真剣な眼差しで話しかけているようすだった。何となく話の内容がわかってしまったハルヤは昇降口でエリを待つことにして、すぐにその場を後にした。
「私は本当にここを出た方がいいですか……? 分からないです。自分の気持ちが」
「……それが自分で出した答えじゃないのか? 自分を信じてあげることは自分にしか出来ないぞ」
エリは少しうつむいて唇の端をきゅっと結んだ。
──そんなの、自分が一番わかってる。わかってるよ……。
うるさかった蝉の鳴き声が途切れ途切れになってきた。もうじき夏も終わりを迎えるだろう。
「どうせ上京するならハルヤも来ちゃえばいいのに」
初めて耳にしたエリの気持ちに、ハルヤは心臓を握られるような感覚になった。
「初めて聞いたな、エリ先輩の本音」
「まーねー」
実の姉のように面倒を見てくれていたエリがいなくなってしまうことにハルヤは妙な焦りを感じていた。学年の違う自分には到底、追いつけるはずもないのに……。
蝉の声が、こだまする。
エリたちの次の代が卒業して半年、ハルヤの高校生活最後の夏が来た。すかすかだったスクールバッグには大学の資料が大量に詰まっている。
「エリ先輩。今日も空色のラムネを飲みにいこう」
今日の空はいつかエリと見た変な青空だった。
終わり




