犯行不可能?
崖下でないとはいえ、かなり距離はある。
でもそれが人の頭であり、それも生きていない人の頭であり、さらに生きていた人の頭であることは分かり、「ああ……」と声にならない声が漏れた。
――美智雄さんに抱えてもらっていて本当によかった。
現実とは思えない、思いたくない出来事を前にし、全身の力が抜けていた。もし一人で覗いていたら、足の踏ん張りがきかずに真っ逆さまに落ちていただろう。
そんな力の抜けた状態で、何度か瞬きを繰り返す。
もしかしたら白昼夢を見ているだけとか。そんな風に期待をするものの、目の前の光景は変化しない。それに美智雄さんも先ほどから一言も話さない。きっと彼にも同じ光景が見えていて、体が固まってしまっているのだろう。
しばらくの間、互いに一歩も動けず立ち尽くす時間が続く。
しかしいつまでもこうしてはいられない。
何とか声を出そうとするも、かすれた声しか出てこない。それでも必死に発声を試みていると、ようやく普段の声が戻ってきた。
「あ、あの、美智雄さん。一度、家に戻りませんか? このことを、皆に伝えないと……」
「む……、それもそうだな」
美智雄さんから、短く言葉が返って来る。けれど彼も動揺から立ち直れていないのか、動き出す気配はない。
約一分近く棒立ちでいた後、やっと崖から目を離す。そして僕を抱えたままゆっくりと来た道を戻り始めた。
「……あの、もう降ろしてもらって大丈夫ですよ?」
流石にもう歩けるなと思い、そう声をかける。だが、まるで聞こえていない様子で美智雄さんは黙々と歩みを続ける。
普段明るい人が急に静かになると、やはり不安になるもので。ちょっと強めに暴れてみた。するとようやく僕を抱えたままのことに気付いたのか、「ああ、すまん」と地面に降ろしてくれた。
まだ力が戻りきっていなかったため、岩場に足を突いた直後にグラッと体が傾いた。なんとか転ばずに体勢を立て直すと、黙々と歩みを再開した美智雄さんの後ろにつき、声をかけた。
「崖のあれ……どういうことなんでしょうか? 三浦さんが死んでいるのは間違いない……と思いますけど、状況が意味不明過ぎというか……」
「わからん。だが私たちの中に、彼を殺した人殺しが紛れているのは間違いないだろう」
「僕たちの中に……」
ズバリと核心を突かれ、僕はぐっと息をのむ。
当たり前と言えば当たり前。こんな山奥に僕たち以外に人がいるとは思われず、死体の状況からしてどう考えても獣の仕業でもない。というか、あんな崖の中腹に、人の首を付けた枝を刺しておくなど、一般人にはできそうもない。霊能力が使われたと、そう考えてしまってよい気がする。
因みにその考えだと真っ先に怪しくなるのは、隣にいるこの人だったりするのだけど。
ちらりと、疑惑の視線を向けてみる。
三浦さんが死んでいるかどうかに一番こだわっていたのは、何といっても美智雄さんだ。他の人は最初は死んでいるだろうと判断していたようだし、大山祁さんの意見を聞いた後は生きているとあっさり考えを改めていた。誰か大山祁さんに恥をかかせたい人物でもいたのなら別かもしれないが、そうでなければ、このタイミングで三浦さんを殺す必要はない――実際いつ殺されていたのかは不明だけど。
それからもう一つ。霊能力はかなり強力な力ではあるが、崖の中腹に首を咲かせた枝を差し込むことのできる霊能力を持った人が誰かいただろうかという話である。
師匠や宜保親子、須藤さんなんかはそれを可能にするような霊能力には思えない。大山祁さんや青木さんなら可能かもしれないけれど、やはりこんな回りくどいことをする理由が分からない。
その点美智雄さんがやったのだとしたら、何も疑問がないような気が……いやいや、流石にこれは不敬な考えだ。主観が強く入り過ぎているし、誹謗以外の何物でもない。
それにやっぱり、美智雄さんが殺したにしろ動機がよく分からない。なぜ三浦さんを殺す必要があったのか。昨日あれだけ霊能力を見せつけたのだから、流石に変な記事を書いたりはせず、むしろ霊能力に賛同してくれると考えても不思議ではなかっただろうに。
どうにも意味が分からず、ぐるぐると似た思考を繰り返しては行き止まりに辿り着く。
やはりまだ、冷静に思考を巡らすのは厳しいみたいだ。
「これは、まずいな」
突然、前方を歩く美智雄さんがぼそりと声を漏らした。
一体何がまずいのか。いや、勿論起きた事態はまずいに決まっているのだけれど、たぶんそのことではない気がする。
呟きの意図について聞いてみようとすると、それより早く、美智雄さんは僕を振り返った。
「恭一郎君。一つ聞きたいのだが、霊能力というのはどれほど凄い力なんだい?」
「え! いや、どれほどって聞かれても……人それぞれ違うと思いますから。大麦さん曰く、大山祁さんなんかは何でもできるらしいですよ」
この場において、僕ほど霊能力が何か聞く相手として使えない者もいるまい。正直こちらが教えて欲しいくらいの話だ。
当然美智雄さんは今の答えでは疑問が解消されなかったらしく、眉間に深い皺を刻んだ。
「何でも、か……。しかし例えば、死者を蘇らせることなんかは流石に不可能なんじゃないのかい? もしそれが可能なら、今ここで悩むことも馬鹿らしい気がするのだけれど」
「ああ……、確かに死者蘇生は厳しいかもしれませんね。たぶん」
「となるとやはり何でもではないのだろう。しかしそうすると、うむ……やはりまずいか」
心なしか、いつもより筋肉がしぼんでいるように見える。
どうやら本気で困っているようだが、いまだ彼の考えていることが伝わってこない。霊能力で何でもできないとすると何がまずいのだろうか。
教えてオーラを発しながらじっと見つめてみる。すると美智雄さんは突如その場でスクワットを始めると同時に、淡々と語り出した。
「私たちが崖下の死体を見つけたのは今から数時間前の話だ。そういう意味では、死体を動かす時間は充分にあったと言える。だが、死体発見後、私たちはほとんど時をおかず全員が瞑想の間に集まり、霊能力者会談を開始した。会談中、トイレに行くために部屋を出た者が何人かいたとは思うが、せいぜい席を外した時間は十分程度。崖下に降り、死体から首を切り離し、崖の中腹に首を突き立てていく時間は流石になかったように思う。それは正直、霊能力を使っても同じなんじゃないかと、私は考えている。そして会談が終わってからはすぐ、こうして私と恭一郎君で崖を見に行った。そうなると、私たちの中に犯人がいたと仮定した際、犯行が行えるのはただ一人に絞られてしまう」
「ただ一人に……それってもしかして」
「うむ、私だ」
遠慮がちに向けた視線に対し、美智雄さんは堂々と頷きを返す。
結局その瞬間は見れなかったが、美智雄さんはあの崖から飛び降りても傷一つつかない体らしい。真にそんな強靭な肉体であれば、十分間で崖の上り下りをし、その途中で首付き枝を刺していくのだって容易な話だろう。
加えて美智雄さんは会談中、一度トイレに立っている。正確な時間までは覚えていないが、本人が言う通り犯行を行うのは可能だったかもしれない。
しかしじゃあ美智雄さんが犯人だ、なんて風には流石に思えない。もし本当に犯人だったなら、そもそもこんなこと言わないだろうし、崖から無傷で飛び降りれるほどのマッスルパワーがあることも隠しておくはずだ。
だけどそうすると、誰がこんな犯行を行えたというのだろうか? まさか全くの外部犯?
そもそも犯行が可能だった人物がいないかもしれないという事実に至り、一層頭が混乱する。そんな僕の思考を更にかき乱すが如く、甲高い悲鳴が家の方から聞こえてきた。