崖下の死者
「浅草、起きろ」
「うん……もう朝ですか? まだ寝足りないんですけど……」
「まだ五時だからな。とはいえお前の寝た時間を考えれば十分すぎるとは思うが。それより、緊急事態だ。取り敢えず目を覚ませ」
「緊急事態?」
ぼんやりとした意識の中、寝袋に入ったまま上半身を起こす。それから何度か目をこすり、しぱしぱする目をゆっくり開いた。
スタンドライトの明かりは消えていたが、窓から微かに光が漏れている。そのため暗いものの部屋を見渡す程度の明るさは保たれていた。
寝ぼけ眼に映る師匠は、相も変わらず無表情で焦った様子はない。しかし師匠が朝からジョークを言うとも思えない為、緊急事態なのは事実なのだろう。
僕は頬を両手で叩いて眠気を覚ます。ある程度目が覚めた所で全身を寝袋から出し、改めて師匠に尋ねた。
「それで、緊急事態って一体何ですか? 隕石でも落ちてきたんでしょうか?」
「幸いにもそこまでの危機ではないな。ただ、三浦という記者が崖から落ちて死んでいるというだけだ」
「はあ、三浦さんが崖から落ちてお亡くなりに……って! へ! それ本当ですか!」
「ああ。俺に朝からそんな悪趣味な嘘を言う理由はないな」
「いや、えと、そんな……」
寝起きということもあり、頭が全くその言葉を受けとめられない。
崖から落ちて死んだとは一体とういう意味か。どういう意味も何も崖から落ちて死んだ以外の意味などないだろうけれど、でもなぜ崖から落ちて死んだのかさっぱり理解が追い付かない。
ぽわぽわする頭を振り絞り、気になったことを聞いていく。
「三浦さんは、その、殺されたんでしょうか? それとも足を滑らせて事故に遭ったとか?」
「それは分からない。彼が落ちた瞬間を見た者はいないからな」
「じゃ、じゃあそもそもどうして三浦さんの死体が見つかったんでしょうか? 崖の下なんて理由もなく見るとは思えないんですけど」
「発見したの宜保とよさんだ。早朝の散歩をしていた際崖下をたまたま見て、人が倒れているのを発見。急いで家に戻り、皆を起こして回った」
「早朝から散歩……。あれ、じゃあちょうど今発見された感じですか?」
「いや、お前以外は皆既に起きて、崖下に人が倒れているのを確認しにいった。そしてとよさんの話が事実だと分かったため、改めてお前を起こしに来たんだ」
「そ、それはお手間を掛けさせてしまい申し訳ありません……」
まさかそこまでぐっすり眠ってしまっていたとは。まあ僕が行ったところで何ができるというわけでもないから、何も問題ないと思うけど。流石に図々しいというか、人としてどうかというか。これでは三浦さんのことを馬鹿にできない。
あまりにも厚顔無恥な自分の行いに恐縮していると、師匠は「まあ死体を確認してないのはお前だけではないが」と呟いた。
「僕以外にもまだ寝たままの人がいるんですか?」
師匠は首を横に振る。
「寝ていたのはお前だけだ。ただ、マッスル美智雄が今のところ見つかっていない。とよさんの話によれば、散歩に行く直前、『ランニングしてくる!』と笑顔で走っていく彼の姿を見たそうだから、死んでいるわけではないだろうが」
「あ、ああ……さすが美智雄さん」
マイペース大王とでも呼ぶべきマイペースさ。まあ三浦さんが死んでいることを知らなかったのだとすれば、別に不思議なことではないのだろうけど。
と、そこでようやく僕は、こんなに悠長に話している場合ではないのでは? と思い当たった。
「あの、師匠。すぐに警察に連絡を、というか皆さんは今何してるんでしょうか? もしかしてこんなゆっくり話聞いている場合じゃないのでは?」
「皆はまだ崖にいるな。お前を起こしたら戻ると言っておいたから、確かに悠長に話してる場合じゃないかもしれない」
「それを先に言ってくださいよ!」
僕は今度こそ完全に頭を覚醒させ、十秒とせずに着替えを済ませると、皆が待つ崖に向かって走り出した。
崖には美智雄さんを含めた全員が集まっていた。どうやら師匠と話をしている間に美智雄さんも戻ってきたらしい。しかし……何か揉めている?
僕は「すいません、遅れました」と謝罪しながら彼らの輪に加わる。だけれど僕に視線を移す者はほぼおらず、皆必死に美智雄さんの説得を試みていた。
「落ち着いてよく考えるんだ。いくら君でもこの崖を降りるのは危険すぎる。無茶なことはせず、救急隊が来るのを待とう」
「そうですよ。いくら何でもこの高さを降りるなんて……そんな危険な行いは許容できません」
「しかし万が一にもまだ息があるやもしれませんし、私なら心配せずともこの程度の崖――」
「ここから落ちてまだ息があるはずないでしょう! いいから少し大人しくしていてください!」
どうやら、崖に落ちた三浦さんを助けに行こうとする美智雄さんを、皆で止めている状況のようだ。まあ崖の高さは優に十メートルを超えており、命綱もなくここから降りるなんて正気の沙汰ではない。ただの自殺行為だ。
とはいえ、降りると言っているのはあのマッスル美智雄さんだ。超常的な筋肉を持つ彼なら、ここから飛び降りても無傷で着地できるのではという気もする。しかしまあ、仮にできたとしてもわざわざやるメリットは低いだろう。
まだ僕は死体を見ていないからあれだけど、本当にここから落ちたのなら、一般人は確実に死ぬ。まず間違いなく即死だ。生きていられるはずがない。
降りる、降りない、の言い争いをしている彼らを尻目に、僕はへっぴり腰になりながらも崖の下を覗き見る。すると確かに、遥か下方の大地で、三浦さんと思しき人――顔はよく見えないが、少なくとも服装は同じっぽい――が横になって倒れているのが見えた。その周囲には真っ赤な血が飛び散っており、あれが人形でなく人間であるなら、万に一つも生きてはいなさそうだった。
これでは助けに行くだけ無駄な気がする。僕もクラーラさんや宜保さんの味方をしようかと考えた所で――ふと、ある考えが頭をよぎった。
激しく口論し合っている方たちに聞こえるよう、「あの!」と大きな声で語り掛ける。
ようやく僕が来たことに気づいた様子で、皆の視線がこちらに集まる。
その状況にちょっぴりドキドキしつつ、思い浮かんだ考えを言った。
「えと、美智雄さんは、三浦さんが生きてるかもしれないから、ここから降りて助けに行こうとしてるんですよね?」
「まあそうだな。皆はここから落ちれば間違いなく死ぬと言っているが、そもそもここから落ちたとは限らないだろう? 唐突にロッククライミングをやりたくなって、途中まで下りた所で足を滑らせ、地面に落ちたのかもしれない。それならまだ生きている可能性はあると思うんだ」
美智雄さんでもなければ、命綱もなしに唐突にロッククライミングなんて始めないと思うけれど……そこに突っ込んでいると話が進まないのでスルー。今はそこが大事なわけじゃない。
「じゃあなんですけど、もし三浦さんが死んでいると分かれば、この崖を降りるなんて危険な真似はしませんよね?」
「ふむ。危険かどうかはともかく、すぐに降りる意味は感じなくはなるな。だが生きているかどうかは、実際に助けに行ってみないと分かるまい」
「まあ普通はそうですけど、でもここには霊を見ることのできる霊能力者がいますよね。まずは三浦さんが死んでいるかどうか、その力を使って調べてもらうのはどうでしょうか? ここで言い争いをしているより、そちらの方がずっと早いと思うんですけど」
「む。そんな方法があるのか? では是非早速やってみてくれ。仮に死んでいないのだとすれば、一分一秒争う問題だ」
そう言って、美智雄さんは宜保さんたちを見回す。
さて、どうなるのだろうと、僕はゴクリとつばを飲んだ。
何度も言うようであれだが、僕はまだ霊能力を信じ切れていない。昨日の件からかなり信じる方向に傾いたが、三浦さんの言葉もありまだ半信半疑だ。
そしてこの状況。霊を見ることができると公言していたのは宜保親子だけだったと思うけれど、果たしてどんな言葉を返すのか。
彼女らが三浦さんを殺したわけでないのなら、実際彼がまだ生きている可能性を完全に捨てるのは難しいはずだ。三浦さんは表向き、霊能力者をこけ降ろすような記事を書くためにこの会談に潜り込んだ人。死体のように見えているのが実は演技で、宜保さんに霊能力がないのを見定めるためにやった可能性も高い。
かといって、三浦さんが生きているというのもリスクが大きい。これで実際に死んでいたとなれば、この場における信用はがた落ち。二度と大山祁さんに呼ばれることもなくなるだろう。
ただしこれらは、宜保さんに霊能力がなかった場合の話。もし本当に霊を見る力があるのなら、一切悩むことなく答えを出しそうだけれど――
「……ここからでは遠くてよく分かりません。もう少し近づけば別でしょうけれど」
と、宜保卑弥呼さんは目を細めて谷底を見下ろす。
うーむ、これはまた判断に困る発言。
霊の見える見えないが、普通に目で見るのと同じであるのなら、確かに見えなくても不思議ではないだろうけど。霊を見る力のない僕には何が原因なのか分からない。
卑弥呼さんの言葉を聞いた美智雄さんは、「ならやはり、私が下りて確認してこよう」と準備運動を始めている。
再びクラーラさんが彼を止めようとあたふたし始める。
もうここまでやれると言っているのだから取り敢えず美智雄さんを行かせればいいのではないかと思ってしまうが、果たして僕とクラーラさんどちらの考えが正しいのか。
美智雄さんの持つ霊能力をどこまで信じているかの差に思えるけれど、そういえばクラーラさんは美智雄さんに関してだけはあまり情報を集められていないようだった。実際に彼のマッスルパワーを見た僕ほど、彼の力を信じられていないのかもしれない。
ここはどっちの味方をするべきか?
そう頭を悩ませていると、
「彼は死んでいません。ただ死んだ演技をしているだけです。なので助けに行く必要はないと思います」
分厚い黒縁メガネを光らせ、とよさんが呟いた。