仕事はじめ
「ああ、来たか」
事務所の玄関で出迎えた水沢を見て、樹はぽかんと口を開けた。
「何を突っ立っている、早く入れ」
水沢に言われぎこちなく足を動かす。
―――あれ、昨日と雰囲気がだいぶ違うぞ
昨日は物腰の柔らかい紳士的な印象を抱いたが、今日は紳士どころかどこぞの組の若頭のような、剣呑な雰囲気が漂っている。顔が整っている分、背筋がぞくっとするような凄みがあった。昨日はきっちりとワイシャツの第一ボタンまで締め、まっさらな生地には皺ひとつついていなかった。しかし今日はだらしなくボタンを二つ目まであけ、無造作に袖をまくりあげている。
「そこに座れ」
「は、はい」
言われて樹は昨日と同じソファに腰掛けた。今度は沈みこまないように、前の方に軽く腰を下ろす程度にした。
「まずは昨日渡した契約書を出してくれ」
「はい」
樹は急いで鞄から一枚の紙を取り出す。契約書にはインターンシップ中の労働時間や賃金など労働条件について書かれてあった。さらっと目を通し必要事項を記入したが、樹には一つ気になることがあった。
「あの、一つ質問いいですか?」
「なんだ」
早くしろと、水沢が目で急かしてくる。樹は焦りながら気になった一文を指でなぞった。
「ここに『妖怪により怪我をしたり大病を患ったりしても当社の関与するところではない』と書かれているんですが、どういうことですか・…」
「そのままの意味だ。業務中に妖怪に攻撃されたり呪いをかけられたりしても自己責任だ」
そう言って水沢はにやりと笑った。それから樹が手に持っていた契約書をひったくる。契約書に樹の名前が書かれ捺印されていることを確認すると、脇に置き樹に顔を向けた。
「お前、疑問があるのに契約書に名前を書くとか馬鹿か」
「え…」
会って二日目にして馬鹿呼ばわりされ樹はその場で固まった。
「疑問あるならまずはそれを解決させろ。何も考えず言われた通りやっているといずれ痛い目見ることになる。今回みたいにな。もうこの契約書に自分で名前を書いたんだから、これで契約成立だからな。今後は自分の身を守れるよう頭を働かせろ」
「はい…」
初日から説教され樹はうなだれる。まさか契約書を渡す段階からこんなにボロクソ言われるなんて。一カ月やっていけるだろうか。
「ちょっと所長。初っ端から新人くんをいじめないで下さい」
ふいに上から女性の声がした。樹が顔を上げると、昨日パソコンに向かっていた女性がお茶を運んで来てくれていた。
「ごめんね、うちの所長口が汚いというか不器用な言い方しかできなくて。ほんとは自分みたいな悪い奴に騙されないように気をつけろよって言いたかっただけなの」
そう言ってにっこりと樹に笑いかけた。
「おい言葉の端々に悪意を感じるぞ、穂群」
穂群と呼ばれた女性は丸く黒眼勝ちな瞳を水沢に向け、「えへへ」と照れ笑いする。それから樹の方へ向き直り、身をかがめて樹に視線を合わせた。
「自己紹介がまだだったね。私は穂群想。ここで働き始めて2年になります。よろしくね」
「あ、俺は原田樹といいます。よろしくお願いします」
樹が頭を下げると穂群は「そんなに緊張しなくていいよぉ」ところころと笑った。樹はその可愛らしい笑顔にしばし見とれる。
「それじゃ私は自分の仕事に戻るね」
穂群が自分の机に戻るのを見送っていると、「おい」と水沢に声をかけられた。
「お前、鼻の下のばすのはいいが、あいつああ見えて百を過ぎたばあさんだからな」
水沢は可哀想なものを見る目で樹を見てくる。
「あいつは人の皮かぶった化け狐だから油断するなよ?」
「えっ」
樹はパソコンに向かう穂群をまじまじと見る。彼女が化け狐?嘘だろ。樹が呆然としていると水沢は一つ咳払いをした。
「さて邪魔が入ったが、話を戻すぞ。とにかくこれからは一癖も二癖もある妖怪と仕事をすることになるから、自分の頭でよく考え行動しろ。わからないことがあれば実行する前に聞け。わかったな?」
「はい…」
「それじゃ仕事の詳しい説明をしていくが、その前にまず妖怪の世界について説明しなければいけないな」
水沢の言葉に樹はこくこくと頷く。樹には仕事の内容以前に聞きたいことは山ほどあった。その中でも一番聞きたいのは…
「あの、先に質問なんですが、なんで急に妖怪を見えるにようになったんでしょう?」
樹は昨日、浮綿とかいう妖怪を目にして以降妖怪の類だと思われるものをさんざん見てしまった。家への帰路でも見たし家の中でも見た。ほとんどが虫のような妖怪だったので気づかないふりをしてやり過ごしたが、時たま人の背丈ほどある着物を着た猫や狐、得体のしれないどろっとしたもの、手のひらサイズの子鬼などを見つけ生きた心地がしなかった。
「それは元々お前が妖怪を見ることができる側の人間だったということだ」
「え、でも今まで見たことなんてないですよ」
樹は眉根を寄せる。小さい頃もそんなおかしなものを見た記憶はない。
「そうだな、急に妖怪が見れるようになった原因はいくつか思いつくが、その前にまずはなぜ妖怪を見える人間とみえない人間がいるか説明する。そもそも人間と妖怪が棲む次元は僅かだがズレているんだ。そのズレのせいでお互いの姿を認知できない。姿だけじゃなくそれぞれが書いた文字や作った物を見ることもできない。まあ昔はそのズレもほとんど無かったから今よりも見える人間は多かったし、人と妖怪が交わることもあった。交わった結果人間の中に妖怪の血が流れる者も出てきた。そういった人間は妖怪の棲む次元と人間が棲む次元の両方に足をかけていることになるから、妖怪も見ることができる。お前はそういった人間の末裔ってことだ」
「それは…つまり僕の先祖に妖怪がいるってことですか」
「ああ。今まで見えなかったのは妖怪の血がだいぶ薄まってしまったんだろう。だがこの場所の強い妖力に触れ、血が目覚めたのかもな」
そんな馬鹿な話があるかと否定したかったが、ここに来てからおかしなモノを見るようになってしまっていたので樹は黙りこくるしかなかった。
「そもそもここに応募できるのは多少なりとも妖怪を見ることができる人間だしな」
いつの間にか煙草を手にした水沢が煙を吐きながら呟く。
「どういうことですか?」
「応募申請のページに細工してあるんだよ。妖力で応募フォームにいくための箇所を覆って、妖怪を見ることができる人間だけが応募できるようにしてある。妖怪を見れないやつにはページの下半分はただ真っ白いままになっているようにしか見えない」
「そうだったんですか…」
まさかそんな仕掛けがしてあるとは。しかも自分はそれを突破してしまうなんて。軽率に応募なんてするんじゃなかった。樹は応募した日のことを思い出し、過去の自分を恨んだ。
「それにしても妖怪の文字が見えるだけでなく解読できる奴とはな。今回は大収穫だ」
煙草を燻らせながら水沢は樹に顔を向けにやにやと笑った。樹はその顔を腹立たしく思いながら、試験の時から疑問に感じていたことを口にした。
「あの、そのことなんですけど、試験で解けた文章の文字、僕が小さい頃考えた暗号とそっくりな字だったんですが、それって昔なにか妖怪と関わったことがあるんでしょうか?」
樹の言葉に表情を戻し水沢は頷いた。
「その可能性は高いな。どういうきっかけかはわからんが、妖怪と知り合いそいつに字を教わったのかもな。その後成長するとともに忘れたのか、そいつに忘れさせられたのか、妖怪と関わったことは記憶から消えたんだろうな。だがそいつから教えられた文字だけは覚えていて、自分で作った文字だと無意識に記憶を書き換えたんだろう」
「妖怪に教わった…」
幼い頃の記憶を手繰ってもそんな思い出はでてこない。水沢の言うように妖怪に記憶を消されたのだろうか。ただもしそうだとして、なぜ物心ついてからは妖怪を見ることが無くなったのだろう。文字を教わるぐらい妖怪をはっきり見て関わっているのなら、今日に至るまで妖怪を見ていてもおかしくない。しかしこの事務所に来るまでは妖怪など本やマンガの中でしか見たことが無かった。そのことを口にすると、水沢は顎を長い指で撫でながらぽつりとつぶやいた。
「何者かによって妖怪が見えなくなる術をかけられたのかもな」
「妖怪が見えなくなる術?そんなのあるんですか」
「いちおうな。妖力の強いモノには効き目は薄いが」
「一体誰がそんなことを」
「さあ。そこまでは知らん。だがこれだけは言える。お前に術をかけた奴は俺以下の力しかない」
「どういうことですか」
「こういう術の類は術をかけた奴以上の力のあるモノに会うと解けてしまうもんだ」
水沢はそう言ってにやりと笑った。
「良かったな、昔会った術者以上の力を持つモノとお近づきになれて。おかげで隠されていた能力を見つけられたぞ」
良くない。まったく良くない。この男の言うことが本当なら、ここに来なければ妖怪を見ることも無く平穏無事な生活を続けられていたってことじゃないか。つくづく馬鹿なことをしたものだと、自分にあきれ深くため息をついた。
「そんな不満そうな顔をするな。ここで働いてもらうからには、それなりの妖怪への対処を教えてやるから」
「…お願いします」
そうじゃないと今後の人生がとんでもないことになる。…いや、もうすでにとんでもないことに巻き込まれているか。
「さて、先ほどの質問の答えはこういうことだが納得できたか?」
納得はできないが疑問は解決できたのでとりあえず頷いておく。
「他にも疑問がありそうだが、それは追々答えていこう。まずはここでの仕事を説明する」
「わかりました」
樹が答えると水沢は一つ頷き説明を始めた。
「ここでは最初に言った通り人が使う言葉―――この事務所では日本語だが、この日本語を妖怪の言葉に翻訳するのが主な仕事だ。依頼客は個人から法人と幅広い」
「あの、質問いいですか」
「…なんだ」
「法人って、企業ってことですよね。妖怪の世界にも企業があるんですか」
「ああ。それに関しては仕事をやっていく中で教えてやる。まずは口を挟まず話を聞け」
水沢に言われ樹はそれから黙って水沢の話を聞くことにした。質問したいことは山とあったが。
「妖怪が書いた文をたいていの人間は見ることはできないと言ったが、逆もまた然りだ。妖力の強い者や狐狸狢といった元々妖怪と人との世界に両足つっこんでいる奴ら以外は人間が書いた文字を見ることができない。だが、妖怪と人との世界を行き来できる奴が書くと、妖怪からも人からも見ることができる。ようは妖怪と人の架け橋になってんだ」
「嫌な架け橋ですね」
あきれたように樹は呟く。水沢は樹の言葉を無視し、説明を続けた。
「だがな、見えたところで妖怪と人が使う文字は違い、人間が書いたものをそのまま写しても妖怪が読むことはできない。そこで、人間が書いたものを翻訳する仕事ができたというわけだ」
「…人間が書いたものって妖怪に需要あるんですか」
思わず樹は質問してしまった。だが水沢は嫌な顔せず大きく頷いた。
「ああ。昔から人が書く物語は妖怪に人気だ。昔は翻訳する会社なんてなかったから、人の文字を読める奴が他の妖怪に読み聞かせていた。今はうちのように翻訳する会社が幾つかできたから、人間が書いた本を翻訳して妖怪の世界で出版できる。ちなみに、ここの事務所では主に書籍の翻訳に携わっている。時々映像の字幕も頼まれるが。それから妖怪の作家の本を日本語に訳す仕事もある」
「え、妖怪が人間の世界向けに本を書いてるんですか」
樹は驚いて声をあげた。
「ああ。数は少ないがいるんだ。その大概が妖力の強い妖怪だから自分で書いた文字はそのまま人間も見ることはできるんだが、めんどくさがって日本語を学習してくれなくてな。せっかく翻訳を承る会社ができたからと、こっちに翻訳を依頼してくる」
「そうなんですか…」
もしかしたら過去に読んだ本の中には妖怪が執筆したものもあるかもしれないのか。予想以上に妖怪が人間の世界に入り込んでいてなんとも恐ろしい。
「それでだ。お前にはインターンシップ中、こちらを頼みたい」
「へ?」
「妖怪作家の原稿を日本語に翻訳するのがお前の仕事だ。妖怪語を日本語で解説した妖和時点はあるのでそれで意味を確認しながら和訳してもらう」
嘘だろ。それじゃ思いっきり妖怪と接触することになるじゃないか。樹が唖然としている中、水沢は淡々と説明を続ける。
「今日はまずお前が担当する作家達に挨拶にまわろうと思う。お前が担当する作家は3人だ。大妖怪ばかりだから注意しろよ」
そこまで言って水沢は上半身をひねり後ろを向いた。
「その前にこの事務所のメンバーを紹介する」
水沢はまず穂群と名乗った女性を指差した。
「さっき勝手に自己紹介し始めた穂群想は日本語を妖怪の言語に翻訳する、妖訳を専門にしている。そんであいつの正体はうん百年生きている狐の大妖怪だ。それからあそこにいるのは…」
水沢は後ろを向いたまま穂群の斜め前でパソコンに向かう、昨日樹にお茶を出した女性を顎でしゃくる。
「お茶出し、アポ取り、経理、人事など雑用を一手に引き受ける俵怜だ」
「所長、雑用とか言わないで下さい。心外です」
水沢の言葉を聞いた俵は顔を上げ、水沢をキッと睨む。
「すまん」
慌てて水沢は詫びる。それから一つ咳払いし、紹介し直す。
「彼女はこの事務所の縁の下の力持ち、無くてはならない存在だ。それで彼女も穂群と同じくらいの歳の狸の妖怪だ」
狸…?樹は首を傾げた。俵はどう見ても狸には見えない。細身のスーツに身を包み、長い黒髪を丁寧に結いあげている彼女の姿はどちらかというと狐のイメージに近い。むしろ穂群の方がほんわかとした雰囲気で狸のイメージだ。そんなことを考えていると、水沢がにやにやと笑って「逆だと思っただろ」と口を挟んできた。考えていたことを指摘さればつ悪く樹は小さく頷いた。
「俵は性格きつそうな雰囲気だが、あれで可愛いところがあるんだ。逆に穂群はおっとりしているように見えるが、毒は吐くし人の心は抉ってくる。見かけに騙されず気をつけろよ」
先ほどの水沢と穂群のやりとりを思い出し、樹は素直に頷いた。毒吐かれるだけならまだしも相手は妖怪だ。何されるかわかったものではない。樹は重々注意しようと心の内で思った。
「さて、ざっとここまで説明したが、聞きたいことはあるか?」
水沢に聞かれ、樹は説明を受けながら浮かんできた疑問を水沢にぶつけようとした。だが、話を聞き終わった今、その質問を忘れてしまっていた。樹はなんとか思い出そうとして出てきた質問は「なんで昨日と今日で人格変わっているんですか?」だった。
「あははは」
樹の質問を聞いた瞬間、穂群は盛大に笑いだした。俵も陰でふっと吹き出している。
「あれは所長の外用の顔だよ。この事務所にとって大事だと思われる人にはああやって外面良くするの。所長にとって樹君は逃がしたくない魚だったんだねぇ」
「逃がしたくない魚…」
穂群に言われ喜んでいいのか悲しむべきなのか分からなかった。
「でも樹君がここで仕事をするって決めたから、所長は内用の顔に戻したの」
「それにしたって豹変しすぎじゃないですか」
「本性露わにしても逃げないって確証したんじゃない?ね、所長」
穂群はそう言って水沢に笑顔を向ける。
「まあな」
そう言って水沢はにやりと笑う。
「で、他に質問はあるか?」
「え、えーと」
樹は必死に考えるが出てこない。そんな樹をにやにやと見ながら水沢は秒読みを始める。
「3、2、1…時間切れだ」
「え」
「質問が無いなら行くぞ」
そう言うなり水沢は立ち上がり、俵が無言で手渡す外套を羽織った。それから樹を見下ろし、早く立てと目で促す。樹は慌てて外に向かう水沢の後を追った。