序章
2006年9月初め、照りつける残暑がアスファルトを焼き、遠くに陽炎を見せる頃
都内の高級住宅密集地、絢爛な西洋式住宅や見目新しいデザイナーズ住宅が立ち並ぶ一角で、一際目を見張る建物が鎮座していた。周囲を威圧するように、また、外から隠すように華美のないコンクリートの塀が高く伸び、塀の上には等間隔で監視カメラが設置されている。入り口は正面にある、車の通用門としての固く閉ざされた巨大なシャッターと隣に人一人通れる鉄の扉のみであり、まるで住宅というより、要塞か砦のような異質さを放つ建物であった。
そしてシャッターの前にはスーツ姿の男が一人、白い作業着姿の男が一人と立っていた。双方共に一切着崩さず、残暑が厳しい最中でありながら、スーツ姿の男はジャケットも第一釦まで留め、赤いネクタイをキツく締めていた。作業着姿の男も、皺一つない真っ新であり、白手袋をもはめていた。そして、目の前の道路を睥睨するように出で立つ。
スーツ姿の男は何かを気にしながら、頻りに腕を捲り、腕時計を見る。
十時十五分、陽炎の揺れる道路の向こうより二台の黒塗りの車が近付き、先頭を走るセダンが二度三度パッシングしてシャッター前に停車させると、スーツ姿の男は小走りにセダンの助手席側に寄る。
「高沢組だ。開けろや、組長は後ろのバンにいるから一緒に入るぞ」
助手席側に座る頭を丸めた壮年の男が腕を窓から出し、親指で追走してきたバンに指を指す。スーツ姿の男は深くお辞儀すると、作業着姿の男も深くお辞儀し、急ぎ足で鉄の扉の向こうに行く。
すると、先程まで固く閉ざされていたシャッターは駆動音と軋みを響かせながらゆっくりと上へ上へと開いていく。そしてシャッターが完全に開ききる前に二台の車は塀の向こうへと入って行った。
「お疲れ様です」とシャッターの向こうで複数人の白い作業着姿の男たちが二台の車に向け、お辞儀をする。
「これで全員だ。お前ら戻って撮影と食事の準備してこい。絶対に粗相な事はするなよ」
スーツ姿の男は作業着姿の男たちを呼び寄せ、顎で命令するように託ける。スーツ姿の男は一服しようと胸ポケットからタバコの箱とライターを取り出し、さぁ咥えようかとする時に、一人の作業着の男が両手を合わせて媚び諂うように不安げな声で話しかける。
「坂口さんはどうするんですか?俺たち住み込みだけで出来るかどうか不安でして…出来れば少しマナーというか礼儀みたいなの教えてもらいたいなと」
敬語に慣れていないのか、どうも鼻につく若者言葉にスーツ姿の男、坂口久俊は眉間に皺を寄せ、深く溜息をつく。
「てめぇらも一端の筋者なら、自分の兄貴見て覚えろや、学生気分でヤクザやるなら辞めちまえ」
坂口は、その男の左頬に強く平手打ちをして周りの男たちを睨み付ける。男たちは一瞬肩を窄め、目を固く閉じる。そしてすぐ起立姿勢になり、坂口にお辞儀をする。
「すみません、ありがとうございます!」大声で九十度近いお辞儀で一同する様に、流石は族上がりだと坂口は感嘆と頷く
「気を付けろよ、訳わかんねぇ兄貴分らは何でキレるか知らんから、よく見てよく動けよ」
「はい!ありがとうございます!」
再び深くお辞儀し、小走りで坂口の下を去る。彼等は皆、学も無く、敬語は上手くないにしても、熱意や誠意は十二分にある。
坂口はシャッター近くの塀の陰でタバコを吹かすと、空に鈍色の雲が渦巻くのに気がつく。
「これは一雨降るかなぁ、予報じゃ降らねぇって言ってたのになぁ…」
坂口はまだ吸いかけのタバコをポケット灰皿に押し込み、駐車場に向けて足早に歩く。継承式の列席者である親分たちは皆、紋付袴姿である為に正面玄関から駐車場まで傘を差しながら行くのは酷であり、殆どの親分らは灘角会の先先代から世話になっている古参組員が占めており、今後の定例会や会合に不義がないよう任侠道を遵守しなければならない。
坂口が駐車場に着く頃、駐車場では送迎にきていた組員らが各々、車にワックスをかけていたり、談笑しながらタバコを吸っていたりしていた。
組員らは近付く坂口に気がつくと、揃えて深くお辞儀する。
「お疲れ様です!!」
坂口は四代目村岡組の執行部の一人であり、長野県に本部を置く《信州一心会》会長で、今回の継承式の列席者の一人でもある。今回は人手不足とマスコミ、警察対策に執行部の一人、坂口が正面の警備や継承式の準備を行なっている。
「お前ら、一雨降りそうだから、式終わったら正面玄関に車横付けしとけ」
暗雲は更に深く、更に黒く、肥大していく。脈動するように暗雲の中で雷が煌々と蠢く。