第四章 闇の中
「ママ、お腹すいた」
浅田真奈美の腕の中で六歳になる息子、雄大が上目遣いに言った。
マリンシティホイールが鳥居坂に滑落し、暴走、香澄の捨て身の転進によりなんとか体制を持ち直してからすでに数時間が経過している。時刻はそろそろ深夜を回る頃だ。思えば事故発生から九時間近くが経っている。恐怖と緊張の中、空腹など感じている余裕も無かったが、人間とはどの様な状況であれ、環境に適応する生き物だ。高架をレールに使った転進の末、その摩擦により一時より遥かに速度が落ちた今、飢えや乾きを感じ始めたとしても何ら不思議な事はない。まして雄大は子供だ。体内に溜めておける食糧や水分の量も大人より少ない。
「ごめんね、今、飴しかないや。食べる? いちごみるくだよ」
そう言って真奈美が鞄から取り出すと雄大はこくりと頷いて包みを開いて口に運んだ。
真奈美と雄大は、傍らでスマートフォンを熱心に見ている正弘と親子三人で徳島から観光に来ていた。当初はお台場の既に開けた商業施設に行ったのだが、お盆後すぐの人の多さに辟易して、マリンシティーホイールに搭乗する事になった。人に当てられて体調を悪くしたのは真奈美だし、ならば向こうにあまり人気の無い観覧車もあるぞと言いだしたのは正弘であり、どちらに責任があるなどとは言えないし、正弘もそれについては何も言わない。それどころか、真奈美からしてみれば鳥居坂での暴走の時、自分と雄大を身を呈して庇い、体中のあちこちを強打、今も少し動かすだけでも痛そうにしている正弘に感謝さえしていた。真奈美もまた正弘に庇われながら雄大を抱いて守っていた事で、大事な息子には傷一つなく、それだけが不幸中の幸いだった。
「そうか、桐ケ谷香澄さんというのか」
不意に正弘がつぶやいた。
「それ誰?」
真奈美が聞き返す。
「ほら、これだよ。今まで何度も俺達を助けてくれた人。崩落後すぐのレインボーブリッジ通過、高架からの降下、けやき坂への誘導、それからあの暴走の時に車で体当たりして方向を変えたりした人、全部、この桐ケ谷香澄さんって人がやったんだって」
正弘が真奈美達に向けたスマートフォンの画面には、けやき坂作戦前にテレビインタビューに応えた香澄の姿があった。その記事は香澄の行った事には割と友好的で、今までの経緯を事実のまま書いた簡素な物だったが、記者の感想なのだろう一文が最後に書き添えられていた。
『衝撃的な事故に敢然と立ち向かう現代のジャンヌダルクの活躍に期待したい』
「ジャンヌダルクだなんて、なかなか上手い事を書くもんだよな」
そう言って正弘が笑った。
笑顔。そう言えば誰かの笑顔を見たのなんて、もう何時間ぶりだろう。そう思った真奈美は
「そうね、ほんと」
と言って笑ったが、同時に涙が出てきた。笑顔がいびつに歪み、終いには涙に押し負けてしまう。
緊張の糸が溶けたんだな、と思い正弘は真奈美の肩を優しく抱いた。
「大丈夫、大丈夫だ。きっと助けは来る。このジャンヌダルクさんが何とかしてくれるよ。だから大丈夫。」
そう語りかける正弘に真奈美は言葉を返す事はできなかったが、何度も頷いて同意を伝えた。
「桐ケ谷香澄はどうっておるのかね」
非常呼集された内閣の面々の前に内閣情報調査室室長である元町壬午が吊るし上げの様に立たされ、矢継ぎ早の質疑が行われていた。
香澄の行動は、評価こそされても悪し様に言われる物ではない。元町はそう考えていたし、それを伝える為にこの場に来ていた。とは言え、数の暴力と言うか、元町は一言も発する事ができないまま、すでに数十分が経過している。内閣の面々による言い分は、総じて、香澄の行動が過程において看過できるレベルを越えた危険な物であるとの言と、けやき坂作戦の失敗に占められていた。
失敗、とは言うが、そもそも香澄は理研の出してきた試算に則り、寸分たがわぬ状態でけやき坂に突入させている。それはリアルタイムでモニタリングしていた元町はよく知っていたし、この場に居る面々もモニタリングはしていたはずである。しかしそれをして香澄に全ての責任を負わせようと言うのだ。これがもっと長期にわたる事態であれば、割に友好的な世論を盾にする事も出来るが、こうした短期にならざるを得ない場合、閣議での悪印象は、そのまま決定事項足り得てしまう。事態の平和的収束の為にも、香澄を使わないという事態だけは元町は避けたかった。香澄は、桐ケ谷香澄は、内閣情報調査室の絶対的エースなのだ。
「宜しいでしょうか」
流れを断ち切ったのは、厚生労働相の立石だった。
「この場は、責任を追及する場では無く、事態の収束を図る為の物のはずです。確かに桐ケ谷捜査官の行動は場当たり的で、被害に合われている方々にも、当の桐ケ谷捜査官本人にとっても危険な物ではあったと思います。ですがそれは事態の収束後に、国会の証人喚問などで行えば良い事であり、ましてや当人も居ない場でとやかく言う事ではないはずです。今は内部の乗客達を気遣うのが先決ではないでしょうか」
至極正論だった。野次が乱れ飛ぶ国会を見る様であった周囲に水を打ったような静寂が波及した。
「立石さん、ならば何か良い手立てがあると言う事ですか?」
文科相の責にある毒島が問う。金山の蟲として内閣に巣食い、桐ケ谷香澄に対する苦言を呈していた急先鋒だ。
「まずは食料と、携帯バッテリの補給を行いましょう。内部の方々の健康管理と、対話手段の確保、これが第一です」
立石は組んだ両手をテーブルの上に出し、言葉のイントネーションに合わせて、少し動かしながら、面々の顔を見て言った。ボディランゲージと視線を合わせながらの提案、それは交渉における極々基礎的な手法ではあったが、こうした白熱しすぎた場においては、非常に効果的だった。
「こちらをご覧ください」
どこから入手したのかは分からないが、立石が提示したのは、マリンシティーホイールのゴンドラの設計図だった。
「マリンシティーホイールの窓の内、一番外側に当たる部分は、左右端の中央に軸が入っており、僅かですが開閉が可能です。軸を中心に下端と上端が二十センチほど、シーソーの様に開くのです。無論、頭は通りませんので、ここから脱出する事は不可能ですが、物資を中に入れる事はできるのではないでしょうか。滑落防止の為に、下端が内側に、上端が外側に開きますので、ドローンを使ったピストン輸送を行えば、乗客全員に十分な物資を送り込めます」
なるほど立石の提案は香澄に対する糾弾より遥かに建設的で、完全に一方向に向かっていた場の流れを変えていた。
「使用するドローンはいかがされますか? 立石さんの言われる様に急務になりますから、すぐにでも使用できる状態の物が必要になりますが、この時間ですから、民間に頼る訳にもいきません」
そう毒島が発言したのを受けて、農水相の清水が挙手する。
「それならば私の管轄する農水省に、国有林監視と農薬散布用の機体があります。昔はラジコンヘリを使用しておりましたが、取り回しの良さから、近年はこれを使用しております。農薬散布を行う為に、コントローラからの信号で簡単なアクションを行わせる事もできますので、届けた物資を切り離すといった事も容易です」
「決まりですな。すぐさまに物資の調達と送り込みの準備にかかってください。清水さんは使用するドローンの手配と、耐加重などのスペックを皆様にお伝えください。尚、準備が出来次第の実施となる為、深夜の間に決行されることが予想されますので、哨戒任務中の自衛隊のヘリを上空に待機させ、その照明をもってマリーンシティーホイールを照らして頂ければと思います。宜しいですか、防衛大臣」
総理が言うと応えて防衛大臣が頷くのが見えた。
やるべき事が確定し、事態が前進しようとしたその時、毒島が口を開いた。
「ちょっと待って下さい、皆さん。物資の補給、それは大変結構な事です。大切な事です。しかしながら、この先の現場の指揮はどうされるおつもりですか? まさか先の失態に目を瞑って、桐ケ谷香澄捜査官に一任しっぱなしという事はないでしょう? 無論、彼女の功績は大きな物です。あの巨大なマリンシティホイールを転進させる術を考案し、実行までして見せたのですから。ですが、そもそも諜報機関である内閣情報調査室の捜査官を現場指揮につかせるというのは、いささか畑違いだと感じるのです。無論事故発生当時は、このような突発的な事態に自衛隊や警察がその組織の大きさ故に初動が遅れ、最も身軽に動けた公的機関と言う事で、内閣情報調査室のお力を借りた訳ですが、今ここにあっては、既にその職務は移管されてしかるべきです。ましてや当の桐ケ谷捜査官が例の映画さながらのカーアクションの結果、負傷して病院に搬送されたとも聞いております。そこでどうでしょう。今回、その責務が誰にあるにせよ失敗こそしてしまいましたが、現状唯一のシミュレートのできる理研を統括するという意味で、私の下に居ります、政務次官の藪下を今後の指揮に当たらせてはと思うのです。彼は優秀なだけでなく、桐ケ谷捜査官には及ばぬものの、大学時代はラグビーでならした体力もあり、咄嗟の判断も早い。私の直下である為、ルート算出を行う理研からの連絡もスムーズに行える。適任ではないでしょうか?」
蛇が鎌首を持ち上げ、ちらりちらりと舌を出しながら獲物を狙う様に、毒島は独特なイントネーションをつけながらそこまでを一気に捲し立てた。
「元町さん、桐ケ谷捜査官が病院に搬送されたというのは?」
総理が元町に振りかえり短く質問する。
「事実です。が、頭部の浅い裂傷と脳しんとうと言った程度で、大きな怪我には至っておりません。皆様にはご報告が遅れ、申し訳ありませんでした」
そう言いながら頭を下げた元町は、自らの失態を悔やんだ。誰かに指摘される前に報告し、その上で任務の続行が可能である旨を説明すべきだった。しかしこうなってしまっては、後の祭、毒島の提案が通る事になるだろう。
「…………」
その様を無言で見ていた総理だったが、すぐに他の大臣たちに向き直り言った。
「やむをえませんね。現時刻をもって、内閣情報調査室所属の桐ケ谷香澄を本件の現場指揮の任を解き、同職務を文部科学省の藪下政務次官に移管するものとする。以上、今後の準備段取りにかかって下さい」
泣いて疲れが出たのか、緊張の糸が切れたのか、真奈美は腕に雄大を抱いて眠っていた。
妻と息子を安心させる為に普段通りに振る舞って見せていた物の、正弘も当然ながら重度の疲労が溜まっていた。あちこち殴打した箇所もズキズキと痛み、炎症が進んでいるのか熱を帯びている箇所も数か所ある。
香澄の決死の行動によりなんとか体制を立て直したマリンシティホイールは、そのまま首都高速の高架に沿う様に進行している。現在はその速度も落ち着き、けやき坂作戦が開始される前より、若干速い程度の速度で、在日フランス大使館の脇を通過した所だった。
正弘は現在暇さえあればスマートフォンを取り出し、状況掌握の為に情報を漁った。無論、様々な知人から心配するメール等も来ていたし、何か情報があれば教えて欲しい旨も伝えたが、すでに時間も深くなっており、そちら方面から新しい情報がもたらされる期待は薄く、バッテリー残量を気にしながら情報を集めるしかなかった。
不意に正弘の視界が滲む。
何が起きたのかと思い、目をこすって初めて分かった。正弘は自分が泣いているのだと分かった。
情報を集めた所で何になる。僅かに安堵するだけじゃないか。生涯をかけて守って行こうと決めた真奈美と、雄大を救ってやる事もできず、ただただ自分が安心する為だけにやってるんじゃないのか。俺は、無力だ。
すでにスマートフォンのバッテリーは二十パーセントを切っていたし、このままだと朝が来るまでに外部との通信すらできなくなってしまう。それは分かっているのに、けれどこれを止めて、静寂の中に身を委ねてしまったら、自分は真奈美と雄大の前で情けなくも泣き崩れてしまうだろう。父としての、夫としての威厳も何もあったものじゃない。
それにそもそも、この観覧車に乗ろうと言いだしたのは自分だ。徳島の田舎から観光に来て、大都会の人の多さに酔ってしまった真奈美を引っ張って、ここなら人が少ないぞ等と言って乗せてしまったばかりに、こんな目にあったのだ。もっと言えば、この東京旅行だって、言いだしっぺは自分だ。いつものように地元の川で釣りをしたり、雄大と一緒に水遊びをしたり、真奈美の作った弁当を食べていれば良かった。全ては俺のせいじゃないか。他でも無い俺が、愛する家族を、この手で守ると誓った真奈美と雄大を危険な目に合わせ、怖い思いをさせているんじゃないか。
正弘の目を滲ませた涙は次第に粒を大きくし、ぽたり、ぽたりとゴンドラの床を穿った。
マリンシティホイールの周辺は、未だに停電から復旧せず、首都高速の高架の照明だけが唯一の光源だった。その首都高速も現在はマリンシティホイールの接触の危険性を鑑みて通行止めになっており、そこを走る車も無い。
闇の中、暑さも寒さも飢えも凌ぐ事の出来ない、この閉鎖されたゴンドラは、檻の様であった。
本来なら安らぐはずの家族の寝顔でさえ、自らの贖罪の対象になってしまっている正弘にとって、このゴンドラという檻は、地下深くの独居房よりも強く心を苛み、孤独を募らせた。
その時だった。
バババババババババババババババババ
ヘリのローター音が近づいて来るのがわかった。テレビ局のヘリだろうか。それとも自衛隊のヘリ? どちらにせよ同じだった。こんなに近くに居るのに、ロープ一本さえも垂らしてくれないのなら、何の役にも立たない。それどころか、見世物にされている様で不快ですらある。
ゴツン
正弘が膝を抱えて何も見ない様にしていると、何かが窓にぶつかる音がした。
不思議に思い顔を上げると、外は眩いばかりの光で照らされていて、窓のすぐ外にドローンが静止していた。ドローンの下部にはミネラルウォーターのペットボトルが下げられている。
慌てた正弘は窓に額をぶつけるも、その手元に窓を開閉する取っ手があるのを見つけ、すぐに開け放つ。ドローンは器用に少し上昇して、ペットボトルを開いた窓の上端に差しこんで切り離し、すぐに飛び去った。外を見ると、上空から自衛隊の物と思われるヘリが照明で照らして視界を確保しながら、他のゴンドラにもドローンが飛来し、同じ様に物資を配っているのが見えた。
ドローンは照明を投下しているヘリとゴンドラを何度も往復して、様々な物資を運んできた。
飲み水、惣菜パン、おにぎり、氷砂糖、ソーラー発電式の携帯電話の充電器、そして、最後に来た時、一枚の紙片をゴンドラへと投下した。
『マリンシティホイール内に閉じ込められた皆様、大変な不自由をされている事と存じます。
私は、文科省の政務次官を勤めております、藪下と申します。
本件はこの先もしばらく解決までは時間を要するものと思いますが、必ず皆様をお救いしますので、ご安心ください。
今回の様な補給を行ったり、皆様からのご要望を聞かせていただく為に、一つお願いがございます。お配りしましたソーラー発電式の充電機があれば、現在すでにバッテリーが切れてしまった方も、携帯電話やスマートフォンを充電して頂けるはずです。その上で、スカイプというアプリケーションをダウンロード、インストールして頂き、以下に記述のある私のIDに対してフレンド登録をして頂きたいのです。現状こちらでは、既に皆様の携帯番号等は把握させて頂いておりますが、このスカイプというアプリケーションを使用すれば、皆様全員と同時に通話が可能になり、今後の作戦をお伝えする時などにも有効なのです。お手数ですが、円滑な救出活動の為にもご理解、ご協力お願いいたします。』
自分は、自分達はまだ見捨てられてなんて居ない。正弘はその事が嬉しく、また涙したが、その涙を拭い、無理矢理笑顔と明るい声を作って、愛する家族をゆり起こす。
「おい、真奈美、雄大、起きろ、飯だぞ! 水もあるぞ! ほら、早く起きろって!」
カツカツカツカツ
リノリウムの床を革靴の踵が打ち鳴らし、香澄が治療と検査の為に運び込まれた病室の前で止まる。
「元町だ。入って宜しいか」
「どうぞ」
香澄の声を聞き、わずかに安堵する。しかし同時に自らの不甲斐なさに少し胸を痛める。
「傷の具合はどうだ」
ドアを閉めながら元町が尋ねる。見た限り、頭部に包帯が巻かれているが、それほど大きな傷ではないようだ。腕や脚には湿布が少々貼ってある程度だ。
「おかげさまで、大事には至りませんでした。愛車はフレームからいっちゃいましたけどね」
香澄は苦笑とも自嘲とも付かない、哀しげな表情ながら、少しおどけた様に言った。
「でも大丈夫ですよ。すぐに現場に復帰できます。まずは新たな誘導ルートの算出と…」
「すまない。桐ケ谷捜査官、君は、本件の指揮を罷免された」
「…どういう…どういう事、ですか…?」
「今後は文科省の藪下政務次官が指揮を取られる。そこで、君のシミュレーションデータを引き継いで貰いたい。全ては私の失態だ。本当に申し訳ない」
力こぶを作るような仕草で自らの無事をアピールしていた香澄の腕が、ベッドに沈んだ。
お待たせいたしました。
前回の更新がとてもとても好評頂いた様で、今までと比べて、PVが一気に三倍くらいになりました。
これも一重に、読者様あっての事と、大変ありがたく思っております。
さて、前回の後書きでも少し触れましたが、今回で話はちょうど折り返しという事になります。
後半に出すキャラクターも全て出揃い、いよいよ大団円に向けて行く事になると思います。
しばらくは香澄が現場を外れる事により、派手な回はなくなりますが、それでも毎回、手を変え品を変えしつつ、皆様に楽しんで頂けるよう頑張りますので、今後ともよろしくお願いします。