第三章 蟲毒使いと光の道(後篇)
長島拓夢はどこまでも続く闇の中に自分が浮いているのを感じていた。
俺は確か…そう、拓夢は暴走するマリンシティホイールのゴンドラの中で、同乗していた恋人の井沢玲奈を抱きしめていた。玲奈は恐怖と不安で震えていたものの、拓夢に抱きつく腕には確かな力が籠っていた。
拓夢と玲奈は芸能人だった。それも拓夢は人気バンドのボーカルで、玲奈はトップアイドルグループの次期リーダーと目される存在だ。まさか二人が交際しているなどと世間は露ほどにも気付いていないし、むしろ気付かれれば日本中の芸能レポーターが押し寄せる事だろう。
拓夢の眼前に広がる闇に懐かしい、けれど決して嬉しくない記憶が浮かび上がる。
二人の交際をはじめる前、すでに現在のグループに所属し、頭角を現し始めた玲奈に、突如心無い噂がインターネットを中心に出始めたのだ。
長い手足と持ち前の運動神経の良さで歌唱中のダンスでファンの目を引いた玲奈は、整った顔立ちと明るい性格もあり、一躍グループの中心的存在へと登り始める。握手会などでは他のメンバーの追随を許さぬほどの長蛇の列を作り、その地位は不動のものになったと思われた矢先だった。
井沢玲奈、衝撃のアダルトビデオ出演疑惑!?
そんなタイトルがつけられたインターネットの記事が書かれたのである。記事と言ってもどこかの出版社などが運営するサイトではなく、個人による物で、その責任を追及するのは少し難しい、そんなタイプの記事だった。しかし、ビデオ内の一部を切り取ったと思われる女性は確かに玲奈と似ている感じがした。
ネット上ではその真偽が噂されるようになり、終いには動画全編がアップロードされ『井沢玲奈? 出演作』という疑問符こそ付いていたものの、あまりに不名誉なタイトルが冠されたまま拡散される事態になった。
騒ぎが広まるにつれ、週刊誌やスポーツ新聞などの性表現に寛容な大手メディアさえもが尻馬に乗る形で、動画内の女優の表情と、過去のライブ映像から見付けた玲奈の表情が酷似しているなどという記事まで出回った。
もちろん玲奈本人や、所属事務所は根も葉もない話として断固拒否した。
しかし火の無い所に煙が立ち、さらにはその煙がいつのまにか火に変わるというのが、芸能界の醜い日常だった。
連日繰り返される報道とは名ばかりの口撃に耐えかねた所属事務所は、あろうことか、玲奈に当面の活動自粛を提案してしまう。ファンも激減し、あまつさえ元ファンから口汚くののしられても尚、何とか気丈に振る舞ってきた玲奈を絶望させるには十分すぎる愚行だった。
その後玲奈は両親やグループのメンバーとさえ口も聞かず、自室にこもり、ただ一日中ぼんやりとついたままのテレビを眺めて居た。
そんなある日の事だった。拓夢のバンドが新曲のプロモーションを兼ねて都内のレコードショップにてミニライブを行い、その終了後にレポーターからインタビューを受ける場面を玲奈は見た。
「恋多き事でも有名な長島さんですが、今、気になっている女性なんていらっしゃいますか?」
新曲のプロモーションには何の関係も無い、ゴシップにまみれた質問がレポーターの口から発せられた。しかし当の拓夢は意にも介さず笑顔で答えた。
「そうですねぇ、最近あまりお見かけしませんが、アイドルの井沢玲奈さんなんて好みですよ。元気があって明るくて、ああいう方、好みですよ」
玲奈の騒動を知らぬ訳はない。けれどあっけらかんと答えた拓夢に、レポーターは豆鉄砲を食らった様にキョトンとした表情で、次の矢を番える事も出来ぬまま沈黙してしまう。
「あのー、井沢さんの件でいろいろ言われてるみたいですけど、あの噂、嘘ですから」
逆に拓夢が畳みかける様にして言葉を繋ぐ。
「恋多き男、長島拓夢としては、一度本職の方にお会いしてみたいなぁと思って、知り合いのプロモーターの方に合コンセッティングして貰った事があるんですよ。うちのバンドメンバー五人と、ビデオに出演されてる女優さん五人で。で、その時、あの動画に出演されてた方も同席されていまして。すっげぇ綺麗な方でしたよ。けど、井沢さんとはちょっと方向違うかなぁ。どっちかって言うと井沢さんって可愛い系清楚系じゃないですか。なのに元気っていうギャップが良いんですけど。でも、当の女優の方は、ザ・お色気って感じのとにかく綺麗って言葉が似合う方でしたから。それに、当日、井沢さん達は全国ツアーの真っ最中でしたから、本人なんて事は絶対に無いですよ」
その言葉で事態は急激に収束し、玲奈も復帰、事件前よりも精力的に活動し、現在の地位を確立していくのだった。
そんな光景が浮かんでは消え、浮かんでは消えするのを見て拓夢は、あの時はテキトーな事を言ったもんだなぁと苦笑した。
事実、拓夢は恋多き男などと言う事はない。無論、人気絶頂なバンドのボーカルである為、女性からの誘いは実に多い。とは言え、それを良い事にとっかえひっかえなんて事はしないし、過去に交際した女性との仲に置いても、一年未満で終わった事はなく、それどころか、いつでも拓夢の人気に嫉妬した女性の方から一方的にフラれて終わり、あまつさえ、その度に極度にヘコむ男であった。それが原因で楽曲の制作に遅れをきたしてバンドメンバーに迷惑をかけた事さえある。
そもそも、アダルトビデオの女優と合コンなんてしていない。しかし言ってしまったのだから仕方ない。その場に居合わせたメンバー達も、常日頃から拓夢が玲奈のファンを自称してやまないのを知っていたし、楽屋に引っ込んでから平謝りする拓夢を笑って許した上、全員で口裏を合わせて、さもそんな合コンが実際にあったかのような話を考えて、出演する番組等で笑いのとれるネタとして使った。しかも所属事務所を通して、当のアダルトビデオの女優にコンタクトを取り、口裏合わせの協力を取りつけたのだから、ボロなど出るはずも無かった。
そんな事があって、後日、歌番組で共演した際、玲奈の方から、食事にでもと拓夢を誘って、交際がスタートした。とは言え、玲奈の所属グループは恋愛禁止であるし、多くの女性ファンを抱える拓夢のバンドも恋愛絡みのスキャンダルが発覚すれば、相当のダメージを被る事になる。故に大っぴらに会う事は出来ず、この日も、人気の無い方の観覧車―つまりはマリンシティホイール―で逢瀬していたという訳だ。
闇の中の拓夢が、そんな事もあったなと思いながら目を伏せると同時に、現実世界の拓夢が意識を取り戻した。眼前には涙でべたべたになった玲奈の顔があった。
「ぶはっ、玲奈、お前泣き過ぎ。ひっでぇ顔になってんぞ」
一瞬、きょとんとした、あっけに取られた様な表情になった玲奈だったが、その口角が震えて歪み、瞳からは大粒の涙がこぼれた。
「…よかっ…良かったぁ…たくっ…拓夢死んじゃうかと思ったよぉ…」
拓夢は玲奈の頭をぽんぽんと優しくはたきながら言った。
「大丈夫か、怪我してないか、心配掛けてごめんな。それはそうと、これ、止まったのか?」
問われた玲奈は少ししゃくり上げながらもどうにか涙を止め、拓夢の手を引いて立ちあがった。
「どうにか止まったみたい。でも見て」
玲奈が指した先にはマリンシティホイールの鉄骨に、ビルの剥がれた外壁が絡んでいた。
「あれでどうにか支えられてるって感じみたい」
なるほどな、と言いかけて視線を後方に移した拓夢の全身に悪寒が走る。
「…鳥居坂、か。」
その言葉を聞いた玲奈も振りかえり、眼前に広がる光景に絶句する。
鳥居坂。今までマリンシティホイールが逆走していたけやき坂は、その勾配度は一.八である。勾配度とは坂の急さを示す単位で、この場合、百メートル平行移動すると一メートル八十センチ高さが変化する坂、ということになる。これに対して鳥居坂の勾配度は八。実に四倍以上の急坂である。日光いろは坂の勾配度が六.四であり、それ以上の角度という事になる。
けやき坂と鳥居坂は、実に近くに存在している。けやき坂の西端から東端に向けて暴走したマリンシティホイールは、すんでの所でビルとの衝突を免れ、隣り合う建物の間をすり抜けた訳だが、その通り抜けた先の道こそ、鳥居坂の北端、つまり最上部に位置しているのだ。
まさか、あの絡んでる所、崩落したりはしないよな? そう拓夢が大きく鼓動する自らの心臓と額から出血と混じって流れる脂汗を無視して自問する。が、それをあざ笑うかのようにパラパラと小さな破片が剥がれて絡む外壁から零れおちる。マリンシティホイールの鉄骨に絡むビルの外壁内の鉄筋が軋み、大きな破片が脱落する。拓夢や玲奈に限らず、誰の目から見ても、崩落と鳥居坂への滑落は時間の問題だと分かった。上空で中継を続けるテレビ局のヘリは勿論、哨戒で飛ぶ警察や自衛隊のヘリであっても有効な手段は何も持たない。下手にロープで降下して窓から乗客を助けようにも、救助活動中に崩落が起これば、そのロープを巻き込まれ、もろともヘリも墜落してしまう。絶体絶命だった。
「玲奈、多分、あれはもうもたない。いつ転がり出しても良い様に、俺にしがみ付いてろ。俺が命に代えてもお前を守るからな」
そう言って拓夢は玲奈に覆いかぶさるように強く抱いた。
「拓夢…拓夢はいつも私を守ってれるね。あの時と同じ。でも、拓夢がその代わりに死んだりしたら絶対に駄目だからね。お願い、約束して」
玲奈の瞳に強い意思の光が宿って拓夢を射抜くように見つめる。
ああ、俺は玲奈のこういう所に惚れたんだな。しみじみと拓夢は思った。
「当然だろ。あの時だって、あの与太話を番組用のネタにまでしたんだぞ俺は。信じろよ」
そう言って優しく笑う拓夢につられて、玲奈にも笑みが零れた。
金属の引きちぎれる音がして、大質量が地面に落ちる音が響いた後、遅れてマリンシティホイールが、その止めていた侵攻を再開する。無論行き先は、悪魔の口の様に待ち受ける鳥居坂だった。
ここに来てマリンシティホイールは過去最高速度に達していた。今までゴンドラが設置している時間が数秒はあったのに対して、現在では着地した次の瞬間にはもう上昇のGに押さえつけられる状態になっていた。鳥居坂はわずか九十メートルの短く急な坂だ。そのちょうど中腹で既にこの速度に達している訳だから、下りきる頃には想像を絶する速度になっているだろう。
乗客達は次々に襲い来る上昇と下降のGに振り回され、ゴンドラ内で強かに体の至る所を殴打し、中には三半規管が耐えられず嘔吐する者もあったが、下りきるまでに致命的な負傷を負った者が居なかったのは不幸中の幸いだった。
急坂から平地に突如戻されたマリンシティホイールは、その急制動に耐えきれずにわずかにバウンドする。再度着地した時には、度重なる衝撃と、速度に依るエネルギーが相まって六時位置のゴンドラの支柱を変形させ、上昇しても回転せず水平位置を保てなくした。乗客の無いゴンドラだった。
またそれと同時に、直下のアスファルトを踏み抜き、埋設されていた送電線を切断する。周囲に高圧のスパークが青く走り、追って周辺の灯りが全て消えた。残った灯りはヘリが照らす僅かな照明だけだった。
マリンシティホイールの進行方向に建造物群が押し迫る。今度こそ正面から衝突し、犠牲者も余儀なくされる。そう誰もが思った瞬間だった。
そのわずか前。拓夢と玲奈は抱き合い、もうどこが痛いのかも分からない程に様々な場所を打ちつけながらも、逸らす事無く進行方向を向いている。まるで言葉に出来ない何かを信じているように、ただ前を見ていた。
「間に……あったあああああああああああああ!!!」
周囲は轟音と恐怖と絶望に支配されている中、ましてやゴンドラの外を走る車中の人物の声など聞こえるはずは無かったが、確かに拓夢と玲奈は聞いていた。
今まさに二人の乗るゴンドラが着地しようというその瞬間、真横を燃える様な深紅の跳ね馬が並走している。騎乗するは幼くさえ見える女性騎士。何かの比喩でもなんでもなく、彼らにはそう見えたのだ。よくよく見ればそれは、愛馬ことF12フェブリネッタを駆り、ドリフトの制動に入った桐ケ谷香澄の姿だった。
香澄はその高貴で高価な愛馬の側面を惜しげもなく、拓夢と玲奈の乗るゴンドラの着地に合わせて衝突させた。刹那、激しい揺れがゴンドラを襲ったが、上昇する窓の外の景色が水平方向に移動する。この非常時には、今までの様にコンクリートブロックでの転進はできない。そう判断した香澄は鳥居坂に滑落するのを予測して、愛馬を駆って先回りしていたのだ。
「このまま誘導する!」
香澄が吠える様にインカムマイクに言葉を投げつける。
マリンシティホイールは直下を走る都営大江戸線の上を沿う様に麻布十番駅方面に向かう。ドリフトで当たった香澄のフェブリネッタは一旦は南方面の路地に入ったが、マリンシティホイールに僅かに遅れながらも次の路地から出てきて、その左側面に位置取る。
埋設された送電線が切れた事で闇に落ちたはずの周囲に灯りが見えた。首都高速都心環状線の高架だった。周辺とは異なる送電経路であったため、その街灯は未だに点いていたのだ。
「光の道…」
再び直以上付近にまで引き上げられたゴンドラの中で玲奈がつぶやいた。
全ての絶望を内包する闇に落ちた町の中、唯一の希望に向かう光の道。その感覚は、それを見た誰の心にも共通して湧きあがった。無論、香澄の心にも!
香澄は尚もアクセルを踏んだまま、マリンシティホイールと並走する。最初のドリフトによる転進だけではない、路地を抜けてきた際にも相当の無茶をしたのだろう、ボディの至る所にヘコミや塗装の剥げが見て取れる。
「ここだ!」
何かを感じ取った香澄はわずかだけ残していたアクセルを最後まで踏み抜き、マリンシティホイールを追い越しにかかる。そして降りてきたゴンドラの角を擦る様にして一の橋ジャンクション下に滑り込んでいく。これにより僅かに進行方向を変えたマリンシティホイールはそのまま鉄骨の側面をと首都高速都心環状線の高架に擦りつける様にして、そのアールに沿って南方向に大きく転進する。
「高架をレールにしたのかっ!」
その一部始終をねめつける様にして見ていた金山が自室のモニター群の前で立ちあがった。
手元の超高級ワインはグラスごと床に打ち捨て、破砕の音と共に毛脚の長い上質な絨毯が吸った。
息も絶え絶えと言った風ながら、香澄の愛馬は主人の燃える意思に呼応して再三いななきを上げる。一の橋ジャンクションの高架下からホイルスピンの音をさせながら急加速でマリンシティホイールに追いついては側面での体当たり、飛ばされては追いつき体当たりを繰り返し、今は首都高速都心環状線から、首都高速二号目黒線と名を変えた高架脇でマリンシティホイールを麻布通り沿いに南下させていく。そして目の前に高架が大きく西へ曲がるのが見えてくる。
これが最後と言わんばかりにF12フェブリネッタのエグソーストが高く街に響き渡った。
今度ばかりは今までとは違う、そのカーブの急さ故に一度の体当たりでは転進できない。
降りてくるゴンドラにドリフトで当たり、走りぬけた先から迂回して今度は逆側の後方に近い部分に体当たりをする。そんな事を繰り返す内、マリンシティホイールはその行く先を天現寺方面に向け始める。
「これで…ラストだあああああああああああああ!!!」
数知れぬ決死の体当たりでF12フェブリネッタの高貴な深紅のボディは見るも無残に変わり果てていたし、それを操る香澄自身もコクピット内でサイドウィンドウなどに打ちつけたのか即頭部から出血して血だらけになっていた。
香澄が吠え、アクセルを踏み抜くと、それに呼応して愛馬は甲高い音を上げ、トップスピードに突入する。時速三百キロを越えた深紅の銃弾と化し、マリンシティホイールに最後のひと押しを加え、そのままタイヤのバーストと共にスピンして傍らのビルに激突して停車する。意識を失った香澄がもたれているのか、クラクションが鳴りやまない。
マリンシティホイールは、そのまま首都高速二号目黒線の高架を沿って走り去って行った。とりあえず、とりあえずではあるが、内部に残された乗客達の命は死守されたのである。
「………………」
無言のまま金山は腰が抜けたように厚い皮張りのソファに身を沈める。
とんでもない物を見た。
当初望んでいたのは『ただの破壊』であった。築きあげられた物が破壊される様を渇望していたはずだった。
しかし今はどうだ。これ程の高揚は、果たしてただの破壊に対して得られたであろうか。
金山の中で何かが変わろうとしていた。
たびたび、投稿ペースを乱しまして申し訳ございません。
実を言えば、今回は、先週の時点で一度書き上がってはいたのです。
私がこの物語を書き始めた時点では、実は状況しか考えておらず、結末をどうするか、まったく決めて無かったのですが、さて書き上がった物を投稿しようかなと思ったのですが、その時、ふとラストに向けた構成を思いついてしまったのです。
となると、そのまま投稿する訳にはいきません。
何せ、その構成で行くのであれば、今回はちょうど前半の終わるターニングポイントになるからです。
その為、やむを得ず、書き上げた原稿を一度捨て、今後の展開に繋げる為の伏線を盛り上げつつ、サブタイトルである「蟲毒使いと光の道」にそぐう形で書きなおす必要が出てしまったのです。
とは言え、その甲斐もあって、満足のいく物を書き上げる事が出来ました。
私の様な名も知られぬ者の書いた物でも、投稿の度に読んで頂ける方々がいらっしゃるのは理解しております。大変ありがたく思っています。
自ら「毎週土曜日更新」と謳っておきながら、それをたびたび破ってしまい、そうした方々を落胆させているのだという自覚はあります。
けれど、それ以上に、より楽しんでもらえる物を書きたいという気持ちも、やはりあるのです。
その辺りを寛容にご容赦頂き、今後もお読みいただければ無上の幸いに思います。
追伸:なるべく毎週更新は破らない様に頑張ります