第三章 蟲毒使いと光の道(中篇)
たっぷり四時間デキャンタージュされ見事に開いた華やかな香りが、牡丹の様に大振りなグラスに注がれ、空気を取り込んで一層の典雅さで鼻腔をくすぐる。
シャトーマルゴー。世界で最も著名なボルドーワインで、女性的な味わいでも名を馳せる。価格は製造年等により様々だが、いわゆるハズレ年の当年であっても、万を下回る事はない。
無論、贅を極めた金山が飲むのは、そんじょそこらで買えるレベルの物ではない。千九百年代最高の当たり年と言われる1950。世界における現存数がカウントされているレベルのシロモノで、値段など到底つけられる物ではない。
そもそも金山は仕手株で財を成した男だ。仕手とは大規模な資金を任意的に、低迷を続ける弱小銘柄に集め、個人投資家に先んじて売り逃げを図る事で、仕掛け手やその周囲に居る者達だけが短期的に莫大な金額を得る、非合法な取引の事だ。もちろんこれを実行するには、ある程度の資本が元手としてあるか、さもなくば、その周囲でお溢れに預かる立場になくてはならない。金山は戦後のドサクサに紛れて、進駐軍に取り入り、解体された財閥の所持していた土地の多くを持っていて、これを元手に愚連隊程度に組織され始めた各地の暴力団と共謀、戦後最初にして最大の仕手筋を形成したのである。
その後、復興を経て高度経済成長期を迎えた頃にはその利潤はかそくしたし、更には元々土地の所有権を種にしていた為、いわゆるバブル期においては無類の力を得ることになった。
無論、バブルが弾けた時には、金山と言えどある程度は損失を被ったものの、現金や証券の類にも資産を分散させていた分、その額は軽微だったし、何より稼いだ額の方が遥かに莫大であった。
既に普通の遊びに飽きていた金山は、政治家の後援をはじめ、資金繰りに行き詰まった企業の買収などを経て、現在の多方面に渡る絶大な影響力を持つようになったのである。現代における蟲毒使いの誕生だった。
「なかなかに味わいのある前菜でした」
香澄による決死の高架からの降下作戦は、金山にとってただの前菜でしかなかった。無論その主菜は失敗が確約されている、けやき坂での減速・停止作戦であるし、それによって引き起こされる大規模な破壊の惨状はデザートと言った所だ。
「現場で指揮を取っている桐ヶ谷という捜査官、なかなかに優秀だ。私の手駒に欲しいぐらいだ。彼女なら主菜のサーブに相応しい。幸運を祈るとしましょう」
そう言って金山はマルゴーの入ったグラスを目線の高さに上げ、乾杯の仕草で嗤った。
「主菜のダイニングテーブルまでは、ですがね! ヒャッヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!」
けやき坂の連絡橋に到着した香澄は、二台目の改造カーキャリアトレーラーで、連絡橋西側を担当する自衛隊員にレクチャーとタイミングを指示した後、自らも運転席に詰め、広域無線を使って転進誘導を行う各班とのやりとりをしていた。
対象が、マリンシティホイールが、徐々に近付いてくる。
それまで香澄は、この一連の作戦に対して成否が不安定な事に対する恐怖こそあったものの、降下の一幕で生じた僅か一メートルまで迫った超々大質量とのニアミスは、彼女の心中に明確な恐怖の種子を残していた。あの時、もしも運転席の屋根が破れていたら。そう思うと、今から行う作戦など放り出して逃げ出したい衝動に駆られる。けれどと思い直す。自分は内閣情報調査室の副室長であり、現状唯一、この作戦を指揮できる存在だ。
「桐ヶ谷捜査官、今ちょっと宜しいでしょうか?」
不意に無線が入って来た。
「作戦決行前なので手短に」
「赤坂作戦本部なのですが、今、捜査官宛てに高円寺の宝来軒という中華料理屋の主人が訪ねて見えられて、差し入れだと言って餃子を五十人前置いて行かれましたが、いかが致しましょうか?」
ああ、あの時の。
この一連の事件発生直前、香澄がチャレンジメニューを平らげた店だ。ただ量が多いだけじゃない、シンプルながら、何度も通いたくなる絶妙な味付けだった。今回の事が片付いたら、また行こうとは思っていたが、親父さんから来てくれるとは意表をつかれた。
恐れぬ落ちかけていた香澄の心が軽くなり、口からは笑みがこぼれる。
「それと、その男性から、餃子と共に捜査官宛てに手紙も受け取っているのですが、いかがされますか?」
「頼む、今、読み上げてくれ」
「分かりました。では。・・・ 嬢ちゃん、あんた偉い人だったんだな、テレビ見て驚いたよ。ブラックカード出された時からタダモンじゃねぇとは思ったが、まさかそこまでの人だとは思いもしなかった。そんな偉いさんがウチの料理気に入ってくれたってんだから、俺も鼻が高いよ。今、嬢ちゃんは大変な仕事してんだよな。俺も店のガキ共も、みんなで応援してっから頑張れ。とりあえず餃子届けたから、自衛隊の方々と一緒に食ってくれ。で、落ち着いたらまた店来てくれよな。次は絶対に食い切れない新チャレンジメニュー用意しておくからな。・・・だそうです」
「アハハハ。良いね、元気出た」
それまで伏目がちでさえあった香澄の瞳に光が入る。無線を持つ手から無駄なりきみが抜け、軽やかな手つきで全班向けのチャンネルに切替える。
「全隊員に通達。対象が持ち場を通過した班から作戦本部に移動、餃子が用意してある。存分に食ってくれ。ワタシも作戦完了し次第、餃子パーティに合流するから、残しておいてくれ」
唐突な命令に作戦参加中の自衛隊員達はそばに居る者同士、不思議な顔をしてお互いを見合った後、適度にリラックスした声で次々に香澄に応答する。
ワタシだけじゃない、全隊から良い具合に力が抜けた。こりゃ、親父さんに感謝だね。
「さぁ始めよう」
無線を通さず香澄が呟いた。
香澄の指示したコンクリートブロックの位置は正確だった。降下の際、僅かに速度を増したかに見えたマリンシティホイールだったが、けやき坂東側に到達する頃には、想定通りの速度に戻っていた。進入角度もシミュレートした数値と寸分の違いもない。
香澄の待つ連絡橋東側まで来たマリンシティホイールはカーキャリアトレーラーの坂を登り始める。登りきる直前、香澄は坂をリフトアップし、減退した速度を補ってやる。連絡橋西側のカーキャリアトレーラーを任された自衛隊員はその逆、無為に速度を上げ過ぎないようにリフトアップした状態でマリンシティホイールを受け、数秒遅れでリフトダウンする。実にスムーズだった。理研の出してきた作戦指示書通りの速度だった。
しかし、けやき坂全長三百八十メートルの中腹を過ぎ、速度こそ減退したものの未だ停止の兆しは見て取れない。香澄に限らず、居合わせた誰もが最悪の光景を予測した。しかし実際に起きたのは、そんな全ての予測を遥かに上回る、最悪中の最悪だった。
けやき坂西端、速度を殺しきれなかったマリンシティホイールは向正面のビルに激突した。幸いな事に激突したゴンドラは無人のそれで、これにより停止すると思われた。しかしそれは儚い希望的観測でしかなかった。規則的に鉄骨を組み上げて形成された観覧車の本体部がしなり、いわゆるバネの役割を果たしたのである。無数の鉄骨が元に戻ろうとする力は圧倒的に膨大で、激突前、いや、けやき坂突入時よりまだ速い状態で、マリンシティホイールは反対方向へ転がりだしたのである。
「退避ぃぃぃぃぃっ!!」
居合わせた自衛隊員の誰かが叫んだ。
周囲には激突の衝撃で破砕されたビルの破片が降り注ぎ、生身を晒していた者は頭を庇いながら散開する。
テレビ局のヘリによる空撮は、その光景を全国に流していた。テレビで見ていた者は一様に戦慄し、言葉を無くした。ただ一人を除いて。
「良いっ! 実に良い! これこそ私の見たかった光景だよ」
金山は歓喜していた。手元の超高級ワインなどには目もくれず、眼前に据えられた、あらゆる角度からの映像が映し出されるいくつものモニターを見回して悦に入る。
「さぁ、いよいよメインディッシュに入ろう。奴に指示を出せ」
傍らに居た使用人が携帯電話で何事かを伝える。
「さぁ、内調のお嬢さんは、どう料理してくれるかな? 愉しみだねぇ。ヒャッヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
先ほどまでの希望に満ちた笑いなど微塵も無かった。
香澄にせよ、作戦参加中の自衛隊員たちも目の前の惨状に打ちひしがれている。連絡橋西側に待機していたカーキャリアートレーラーのリフトにマリンシティホイールが再びその質量をのしかける。ただでさえカタログスペックを遥かに超えた加重を一度受けた油圧シリンダーが軋み悲鳴を上げる。あまりにも長く感じられた数秒を経てマリンシティホールが連絡橋に乗り上げたその刹那、香澄の視野の一番端、サイドミラーの中で人影が動いた。一般人だ。それもマリンシティホイールがこれから向かう、香澄の乗るカーキャリアートレーラーの真後ろわずか十メートル。
ヤバイ。なぜこんな所に一般人が、などという事を考える暇はなかった。
全身がおぞけだつのを感じた香澄は連絡橋を踏み越えたマリンシティホイールが自らの車体のリフトに乗った軋みを察知してすぐにリフトアップする。と同時に想像を絶する大質量を載せたままギアをバックに入れてアクセルを踏み込んだ。
トレーラーはタイヤを一瞬で十六本すべてバーストさせながらも、ホイールだけで火花を撒き散らしながら後退する。その悲痛な音は香澄の信念が乗り移ったかのようだった。進行に割りこんだ一般人の肩とトレーラーの後端が接する直前、香澄がアクセルを離し、ブレーキを踏み込む。同時にハンドブレーキも引き上げる。より一層の大音量を撒き散らしてトレーラーは停止する。
突如として飛び出した一般人は、迫田徹という名前だった。ほんの三か月前までは蒲田で零細ながらも工場を営む旋盤工で、先代である父親に仕込まれた腕は確かだった。しかし主要取引先である大手自動車メーカーからの受注が止まり、その資金繰りが完全に停止、銀行も融資の引き上げを決めた。このままでは親から引き継いだ工場は潰れ、少ないとは言え雇っている者達に何も残せず、一家もろとも路頭に迷う事になる。そう思いつめた迫田は、あろうことか金山を頼った。頼ってしまった。なけなしの金を渡され、その代わりに絶対の忠誠を誓わされた迫田は、今また、こうして『ショー』を盛り上げる為の捨て駒として、金山の命令どおりに命を投げ打ってマリンシティホイールの進行に身を投じたのだった。金山は特別ボーナスだと言って、五千万を提示してきた。迫田には従う以外、道は無かった。
「身をかがめて!! 私を信じて!!」
香澄が叫ぶ。そしてその声は死を覚悟していた迫田の耳に届いた。憑き物から解放された様に迫田の目に光が戻り、頭上に今まさに我が身を押しつぶさんと落下してくるマリンシティホイールに目をやる。迫田が頭を庇いながら、しゃがみ込むのとほぼ同時に、マリンシティホイールは、その僅かに十センチ先に轟音を伴って着地した。香澄の操るカーキャリアトレーラーの後端からマリンシティホイールの着地点は一メートルも無い。その極々僅かな隙間で迫田は生きていた。確かに生きていた。
サイドミラー越しに人影の無事を確認した香澄は安堵した。しかしまだ事態が収束した訳ではない。マリンシティホイールは依然その進行を止める事はない。運転席を飛び出した香澄は、周囲に居た自衛隊員に迫田の保護を命じ、自らはマリンシティホイールの進行方向に目を向ける。幸運な事に、けやき坂東側、ちょうどビルの間に向かっている。あれならば、上手くいけば左右のビルとの摩擦で停止するかもしれない。そう甘い希望が頭をよぎった瞬間、香澄の理性の部分が、知性の部分が、全てを否定して、全身を泡立たせた。あの先は、鳥居坂だ。九パーセントの勾配を誇る急坂、そこに落ちたら、この場で止める術は無くなる。何より、乗客の無事を保証できなくなる。愛馬、F12フェブリネッタに乗りこみ、香澄は走り出した。
前回の更新で「前後篇の長い話を用意しました」とか言っておきながら、今回、中篇になってしまいました。すいません。
更新予定日を過ぎて、それでもなんとか前後篇でまとめようとしたんですが、まるでまとまりませんでした。
というか、未だに三章が書き上がりません。
次回こそ、ちゃんと後篇と銘打って三章終わらせますので、もうしばらくお待ちください。