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Attack of the Killer 観覧車  作者: 熊子
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第九章 オペレーション・フェルブリッタ

 鈍色に垂れ込めた厚めの雲が視界を覆っている。それはまるで先の見えない乗客達の心象か、はたまたショーの始まりを予感させる緞帳の様でもあった。

 マリンシティホイールの現在地は予定通り、羽田にあった。近くの羽田空港へ誘導して開けた場所から海に向ける案もあったにはあった。しかしそれを行えば、滑走路に甚大なダメージが生じ、今や国内線に留まらず、国際線の発着も賄う羽田空港が、部分的であるにせよ使用出来なくなる恐れがあった。また同時に開けすぎた場所では突風などのイレギュラーがあった時、マリンシティホイールはモロに影響を被る。香澄が空港方面からの誘導を棄却したのは、そういった理由からであった。

 「湿度二十五パーセント、無風、対象は微速。とりあえずはベストコンディションってところね」

 香澄は各種センサーからの情報をリアルタイムに取得出来るように設定したノートパソコンに向かいながら、傍らの薮下に言葉を向けた。

 「はい、こちらとしてもドローンでピストン輸送をしている関係上、無風というのは助かります。既に最低限の物資は運び入れましたが、やはりボンベの予備はいくらでも渡して置きたいですからね」

 今朝方、オペレーションの開始に伴って、香澄と薮下は今一度、乗客達と連絡を取った。窓枠を外すためのボルトの位置確認や、軽量インパクトドライバーの使用説明などがインプレッションされた。また、ボルトは先に外しておくにせよ、窓枠を完全に外してしまうのは最初のゴンドラが着水するまで待てとの話も伝えた。

 それと同時に乗客達に詳細な説明がされたのが、携帯型の酸素ボンベだった。ガスマスクの様な本体と市販の殺虫スプレー程の大きさの酸素ボンベを組み合わせて使う、簡易のアクアラング装備である。無論本来であれば、スキューバダイビングの装備一式を渡したい所ではあるが、ドローンによる配布という形の為、その積載重量の枷から、この選択肢しか無かった。ボンベの交換は水中でも行える為、乗客達には海への突入に先んじてマスクだけを装着してもらい、いざ海中に出る際に最初の一本をセット、残りを急ごしらえされたホルスターに予備として装着して貰う事になった。また、海中に出る際は、完全にゴンドラ内が海水で満たされてからにせよとの話もされた。ゴンドラ内に海水が入ってくるその時には、空間に対して流れ込む水の勢いがある為、窓から出るには、その勢いに反する事になる。そうなれば余程の体力のある者でなければことを成すのは難しく、パニックに陥る可能性さえ出てくる。ゴンドラ内が海水に満たされた後ならば、そうした事なくゴンドラからの脱出が比較的容易になる為だった。ゴンドラ内にあって、流入する海水を見ながらまんじりと待つ事は恐ろしいだろうが、パニックを避け、落ち着いた行動をする為の準備だと受け取って欲しいと香澄が伝えた。皆が一様に押し黙る中、

 「分かった。僕頑張るね。香澄さん、外で会ったら握手してね、ファンになっちゃった」

 と明るく言う雄大には、香澄を含めた皆が助けられたものだった。

 ノートパソコンに硬い表情で向かいながら、雄大の言葉を思い出した香澄は、自然に笑みが出た。まったくあの子には助けられてばかりだ。握手どころかハグだってしてやろう。その為にはまず、このオペレーションを成功させる事だ。フェルブリッタ、また力を貸して貰うぞ。


 最初に着水したのは無人のゴンドラだった。香澄謹製のシミュレータが算出したゴンドラだ。

 「ゴンドラの着水を確認しました。窓枠を外して下さい」

 香澄がスマホのスカイプを通じて乗客に支持を出すと、当初の手筈通り、外れた窓枠が全ての乗客が乗るゴンドラの外側から海面に落下した。ここまでは想定通りだ。

 「陸自空挺部隊隊長どの、準備は宜しいですか?」

 スマホとは別に用意された無線に短く言う。

 「無論だ。見ての通り、全機フォーメーションを組んで上空待機を完了している。指示を待つ」

 言葉通り、上空を見れば、全国から集まった陸上自衛隊空挺師団に属する大型のヘリが三段階のフォーメーションを組んだまま、マリンシティホイールの速度に合わせてランデブー飛行している。

 如何に大型と言えど、ヘリコプターの浮力で膨大な質量を誇るマリンシティホイールの転倒速度を殺すなどと言うことが想像し難いが、事実こうした大型の輸送ヘリはその機体下に工事現場等で使用するブルドーザー等の重機を吊り下げ、地震などで被災し、孤立した地域に輸送を行っている実績があり、その力は想像以上だと言える。それが十五機を一編隊とし、三段階のフォーメーションで、信長の火縄銃部隊の様に入れ替わり立ち代わりで懸架して転倒時の速度を殺すのである。

 今や海中に足を踏み入れる形になったマリンシティホイールを、波と海流がその恐るべき力を持って揺さぶっている。いつ転倒が始まっても不思議はない。各ヘリの操縦士達は事前のブリーフィングでの説明に従い、転倒の向きに注視している。

 乗客の中で最も早く転倒を感じ取ったのは玲奈だった。ホルスターに収めきれなかった酸素ボンベが足元にあり、玲奈はそれを見ていた。それまで地形のアンジュレーションや波に揺れ右に左にと転がるボンベが、なんだか芸能界における自分の姿を見るようだと思っていた。それが、左隅に転がったまま右側へ戻って来なくなったのである。

 「拓夢、これ、左に倒れる。構えて」

 言われて拓夢は椅子の座面に足を掛けスカイプに報告する。

 「左側への傾斜を認識しました。外部からの確認お願いします」

 「桐ヶ谷です。現在、こちらからも傾倒を視認しました。乗客の方々はゴンドラ内部での対応願います」

 「ヘリ部隊、進行方向左弦へフォーメーションを展開してください」

 「金山氏配下の海上チームも移動を開始してください」

 オペレーション・フェルブリッタが始動する。


 「第二編隊、フックを切り離して上昇します」

 「了解した。第三編隊、降下のちフック射出用意、持ち場についた機体から順次射出懸架せよ」

 ぶっつけ本番で、且つ急編成されたチームによる作戦実行と言うことで、混乱が懸念されたヘリ部隊による懸架減速は思いの外スムーズだった。

 これならばいける。香澄は心の中でそう思った。後は、着水して乗客がゴンドラ外部に出るのを待つしか無い。

 そんな事を香澄が思うさなか、最も下部にあったトオルのゴンドラが遂に着水した。

 「トオルです、今、水が入ってきました。このまま満水になるのを待ちますが、そうしたら携帯が死ぬので、先に言います。桐ヶ谷さん、ありがとうございました。今回の事故、貴女が居なけりゃ、俺は二回くらい死んでました。エツコがプロポーズを受けてくれた、あのレインボーブリッジの時には、海に向かう事が、死ぬ事とイコールだと思ってましたが、今じゃ海に向かう事だけが助かる道ってのは、なんだか皮肉な気がします。エツコ、聞いてるよな? 俺が無事に助かって、また会えたら、俺はその場でお前にキスをする。そりゃもう周囲にバッチリ見られるから恥ずかしいけど、そんでもする。もう決めたんだわ。だから、今からリップクリームとか塗って、ぷるんっぷるんのモテ唇作っとけ? 濃厚な」

 「バッカじゃないの!? こんな大事な時になななんて馬鹿な事、しかも他の人も聞いてんだからね、これ! 全国生中継公開プロポーズで懲りてないのアンタは!?」

 ああ、いつ聞いてもこの二人の、夫婦漫才みたいな会話は幸せで良い。端で聞いていた香澄は思う。けれど、これはきっと、トオルなりの緊張のほぐし方なのだろう。誰より先に、たった一人で暗い海中にその身を放り出すのだから、その恐怖たるや筆舌に尽くし難い筈だ。

 「っと、・・・ろそろ・・・携帯がヤベ・・・いので、こ・・・で・・・また・・・陸上」

 そうこうしている内に、トオルからの通話が途絶えた。浸水により、スマートフォンが沈黙したのであろう。そしてそれは、トオルが海中に出たであろう事も示していた。

 傍らで、それまで憎まれ口を叩いていたエツコがぎゅっと固く目を閉じ、歯を食いしばりながら、自らを抱き締める様にして強張りながら涙していた。

 その肩に香澄が手をかける。

 はっとして涙で濡れた瞳をエツコが向ける。香澄の瞳には意志の強い光が宿っていた。


 トオルの見た光景は絶望とさえ思えた。

 なんとか這い出した窓枠の外は、今までで見知っていたはずのマリンシティホイールの鉄骨が折り重なり、以前よりは水質も良くなったとは言え、南国の海とは違い、東京湾の水の透明度が然程高くない事も相まって、殆ど光のない世界だった。簡易酸素ボンベと共に配布された、シュノーケリングマスクが無ければ、視界の無さに見動き一つ取れなかったに違いない。

 とりあえず酸素ボンベは良好だ。呼吸に困ることは無い。マリンシティホイールの周辺はそもそもの海流は元より、その大質量が投じられた事で新たに発生した潮流があるのか、思った方向に泳げず、海中と言えど、鉄骨に当たれば命の危険さえ感じられた。

 トオルはまんじりと先に進めぬ苛立ちを感じたが、それでも潮流に逆らって、少しずつではあるが、マリンシティホイールから離れ、海上と思しき方向へ泳いでいった。

 それはどれぐらいの時間が掛かっただろうか。途中で酸素ボンベを二本交換したので、まさか数十秒とか数分といった短時間では無い筈だ。如何に危機的状況で、精神が昂ぶって居ても肉体が疲れを感じる程には泳ぎ続けていた。

 不意に水を掻く手から、抵抗が消えた。

 顔に押し付けられていた水の感覚が消えた。

 濡れそぼった皮膚が風を感じている。

 水面だ。

 やった。俺は助かった。やったぞ、エツコ、俺は俺は助かったぞ、どこだ、エツコ!

 しばらくパニックになっていたが、はっと思い出す。そうだ、濡れても使える発煙筒を渡されていた。胸元から取り出し、説明を受けた通りにキャップを外して、衣服に着火部を擦り付ける。着火しない。なぜだ? どうして? ここまで来たのに、チクショウ! 付けよ。付けって。俺はここに居る、居るんだよ。誰か、誰か助けて! 桐ヶ谷さん、エツコ、誰でも良いから助けてくれよ!

 「ったく、パニクってんじゃないわよ。何度も言ったじゃない、キャップを外して、安全装置の紐を引き抜いてから、衣服で擦るって。聞いてたの?」

 香澄がボートに乗って、困ったように笑っていた。

 「それより、ほら、掴まって」

 浮き輪を投げ入れられ、何だかキツネに摘まれた様な表情のままトオルはそれに掴まる。

 「生還、おめでとうございます。キャビンでエツコさん、待ってますよ。濃厚なキス、するんでしょ?」

 そう言って笑った香澄の表情は、先程までの笑みとは違う、慈悲に満ちた、菩薩のような微笑みだった。

 涙が自然にこぼれ落ちるのをトオルは感じた。

 トオルを船上に引き上げるのを手伝った後、キャビンから出てきたエツコにまかせて、香澄は未だ倒れきらぬマリンシティホイールに目を向ける。

 先程拓夢から入った報告によれば、今頃、玲奈と二人で海中に居る事だろう。

 金山により多数のダイバーが投入されているとは言っても、自らも助けに行きたい衝動に駆られる。しかし、今は駄目だ。今は、少なくとも今は、生還した乗客達を出迎える事が、ワタシの仕事だ。

 そう自らに香澄が言い聞かせる背後で、歓声が挙がる。

 トオルとエツコの濃厚なキスが実現したらしい。


 既に腰の高さまで浸水しているゴンドラで拓夢と玲奈は抱擁し合っていた。

 「玲奈、海中に出たら俺から離れんなよ。今度も俺が守るからな」

 そう言う拓夢に玲奈はコクと頷いた。

 酸素ボンベを着用し、脱出に備える中で、玲奈は、いつも自らを助けてくれる拓夢と、いつでも助けられている自らの事を逡巡し、エヘヘと、状況に不相応な笑いをこぼした。

 「さぁ、行こう、玲奈」

 水位は見る見る上昇し、既に座面に立つ二人の顔を残して水没した。

 玲奈の返事を待たず、拓夢は酸素ボンベを着用した。既に酸素ボンベをセットし終えていた玲奈も頷き返し、二人は暗い海中へと手を繋いで潜っていった。

 想像していたよりも潮流が早い。

 スカイプを通じてトオル救出の顛末を聞いていたが、その頃より、一層早くなっていると思えた。やはり、マリンシティホイールの浸水が進み、その大質量が起こす波により、潮流が不規則に変化しているようだ。

 トオルは一人で泳ぎきり、海面に顔を出したのを控えていた水上バイクにより発見され、香澄達の乗る舟で救助に向かった。しかし、今まさに拓夢達が身を託す海は、到底一人で泳ぎきれるものでは無く、その環境は刻一刻変化しているようだ。

 (まずいな)

 拓夢は思ったが、既に酸素ボンベを着用していて、玲奈にその意図を伝える術は無い。ならばと玲奈の手をより一層に強く握り、自分から何があっても離れるなという意志を伝えようとした。それに気づいてか否かは分からなかったが、玲奈も拓夢の手を握り返して来た。

 拓夢達二人もルートこそ違えど、トオルと同じく先ずはマリンシティホイールから離れ、その潮流から逃れる事を意識して泳いだ。潮流はまるで蓋するかの様に、海の表層を流ていて、マリンシティホイールへと向かう流れだった。その為、二人は先ずは水面下深くに潜り、迂回する様に進んだ。

 しかし、少し泳いで行った先をそもそもの海流が横断する様に流れていた。

 目には見えぬものの、海流に押され、マリンシティホイール側へと吸い寄せられてしまう。

 このままではマズイと拓夢は思い、玲奈の正面に回ると、今来た方角を指差してそっちに行こうと促した。

 玲奈は大きく頷いてすぐに引き返した。今ならまだ間に合うだろう。このまま沖合いに出て発煙筒を使ってやれば、捜索の網に掛かる筈だ。玲奈、もう少しだ。一緒に帰るぞ。

 その時だった。玲奈が拓夢の手を振りほどき、海流の中に身を投じた。

 (玲奈っ!?)

 拓夢が声にならぬ声で叫ぶ。大きな気泡が拓夢の顔周辺から立ち上る。

 拓夢は・・・いつだって私を助けてくれた。私、知ってるよ? あのアダルトビデオ疑惑の時、合コンした事あるなんて嘘じゃん。バンドの人達に聞いちゃったんだ。拓夢、真面目そうなのに、合コンなんてするんだねって。そしたら、メンバーさん達、互いの顔見て大爆笑してた。俺らならまだしも、拓夢がする訳ねぇじゃんって。あいつは誠実が服来てギター弾いてるみたいなモンだって。だから、アダルト女優さんと合コンなんて全然してないって。マネージャーさんも協力して、先方のアダルトビデオの事務所とすり合わせて、当人にもお願いして、皆で口裏合わせたんだって。私、それ聞いて泣いちゃったよ。どうしてこの人はこんなに私に良くしてくれるんだろうって。優しいだけじゃ説明にならない。私を好きだからでもまだ足りない。根っからのお人好しで、真剣に生きる、真面目で素直で、自分にも相手にも正直な人なんだと思ったよ。最初は、ただ、お礼のつもりで拓夢と付き合う事にしたのに、いつの間にか本当に好きになってた。なのに私ったら、このマリンシティホイールの中でも助けられてばかりで、一個も拓夢に返せてない。対等な関係で居たいのに。お互いに助け合える仲でありたいのに。私、一個も返せてないよ。

 だから拓夢、バイバイ。

 この海流、拓夢だけなら泳ぎきれるはず。

 私なんかが一緒に居たら、拓夢まで死んじゃうよ。

 今までありがとう。

 大好き。

 玲奈は酸素ボンベの下で微笑みながら涙したが、それを拓夢が見ることは出来ない。

 拓夢は手を玲奈に伸ばし続けて居る。

 ああ、もう、早く泳いでってば。せっかく私が拓夢を助けてあげられる時が来たんだから、格好つけさせて。お願い。生きて。私の分まで。

 そして玲奈は目を閉じた。


 時同じくして、マリンシティホイールが完全に横倒しになった。最上部付近の浅田一家も酸素ボンベを着装して海中へと身を投じていた。

 思っていたよりも暗く海流が早い。まずは真奈美を先に出そう。正広と前々からそう決めていた。少なくとも自分は男であり真奈美は女だ。体力の絶対値に差がある。真奈美にその事を話せば間違いなく反対される。しかし問題は雄大だ。口で葉強がっていても、誰よりも力で劣る事は事実だ。もしもの時には、誰かが抱えて泳ぐしかない。その時、真奈美が居ては足手まといになる。ここは父親の出番だ。

 夫の決意を知ってか知らずか、真奈美はゴンドラを出ると、まずは自らの安全を確保しようと、ただただ前方へと泳いだ。そして振り返ると、とんでもない光景が目に飛び込んできた。

 事もあろうか、窓枠に雄大の酸素ボンベのホルスターが引っ掛かり、正広共々、立ち往生している。

 真奈美は引き返そうとしたが上手く前に進めない。潮が巻いたのか、トオルや拓夢達を襲った潮流はマリンシティホイールから離れる流れになっていた。

 命の危険に直面する我が子と亭主を前に、真奈美はジリジリと流されて行った。幸い事に流された先でダイバーにより救助されたものの、気が気でない。ダイバーに抱き抱えられながら海上に出た真奈美は言った。

 「せっかく助けて頂きましたが、申し訳ありません、亭主と息子がゴンドラに引っ掛かり出られずに居ます。助けに戻らせて下さい」

 ダイバーは面食らったが、無論、はいそうですかと行かせる訳にも行かない。暴れ叫ぶ真奈美をどうにか落ち着かせながら、海上の舟へと連れて行く。

 「奥さん、今貴女が行っても、足手まといになるだけです。僕らはあなた方みんなを助ける為にここに来ています。どうか、信じてお待ちください」

 ダイバーの言葉に真奈美は深く頭を下げた。


 もう駄目だ。

 拓夢の頭を諦めがよぎる。

 玲奈がした事は、きっと自分を助ける為の事だろうとは分かっている。あの時点で引き返せば、ボンベの数足りなくなる。投入されているというダイバーの姿もなく、あのままでは共倒れだ。

 だったら、いや、だとしても、自分は玲奈にボンベを分けてやった。生き残るのは玲奈であるべきだ。

 拓夢の抱く玲奈への愛情は、最初はただのファンとしての意識だった。トップアイドルグループの中で輝きを放つ玲奈に魅せられた。

 グループに属しながらもソロパートも多く与えられた玲奈は、歌唱力に秀でていた。

 モデル体型の長い手足で踊る姿は、一際大きく派手で見る者の目を引き、他のメンバーを先導する様にも見えた。

 トーク番組では、メンバー達や司会者に引き合いに出され、話題の中心に居ながら、自ら出しゃばる様な事は無かった。

 そんな八面六臂の活躍を見せていた玲奈が、ネット上の心無い誹謗に晒され、日に日に輝きを弱めていく様は、拓夢でなくともファンであれば誰が見ても痛々しい程で、会見を開いた時などには、その輝きは消え失せる一歩手前の様だった。

 ジャンルこそ違えど、音楽という舞台で人気商売をしている事もあり、拓夢には玲奈のそうした姿に自らを重ねて見る事もあった。

 僅かな綻びが引き金になって、抗えぬ力で、それまで築き上げてきた全てが指の間からこぼれ落ちるのを、ただただ見る事しか出来ない。自分であれば、気が狂ってしまうかも知れない。玲奈、もうあの輝きを見ることは出来ないのか。拓夢はそう思いながら、釈明会見のVTRを見ていた。

 そこには拓夢が思っても見ない光景があった。

 一頃の勢い輝きも全て無くした玲奈だったが、私ではありません。事実無根ですと言う、その瞳には、真っ直ぐで純粋で、強く誠実な光が確かにあった。自分なら、そこで諦めていたであろうその時にもまだ、玲奈は信じる事をやめていなかったのだ。

 そういう流れもあり、拓夢は、嘘をついてでも、この女性を助けようと決めたのだ。

 今は全ての梯子を降ろされ、自らの力ではどうにも出来なくなったにも関わらず、ただひた向きに信じる事をやめないなら、新たに梯子を掛けてやれば良い。

 それが拓夢が玲奈に抱いた恋心の原点だった。

 なのに、諦めてしまうのか?

 共に生きると約束したのに。玲奈、玲奈、玲奈。

 拓夢のそんな心の叫びが奇跡を呼んだのは、それからわずか数秒後だった。

 海流の向こう側に見えなくなった玲奈の方向から、小さな、黒い塊が近付いてくる。

 玲奈だった。ダイバー二人に抱き抱えられ、海流を抜け、拓夢の元に運ばれてくる。玲奈自身は気を失っている様だが、命に別状はない様だ。

 拓夢と玲奈はそのままダイバー達の誘導に従って海流を抜け、海上に顔を出した。

 「玲奈、玲奈ぁっ! しっかりしろ、助かったぞ、俺達、二人とも助かったんだ!」

 拓夢は自らと玲奈の酸素ボンベを取り払い、その頬をペチペチと叩く。

 「ん・・・うーん、たく、む?」

 「ああ、俺だ、助かったんだ。この二人が助けてくれたんだよ。二人で、また二人で生きて行こう」

 「拓、夢ぅ・・・」

 その後、玲奈は言葉にならず、ただただ愛する男にしがみつき泣きじゃくった。


 「えっ!? 雄大君とお父さんが!?」

 真奈美を救助し、船舶に連れ戻ったダイバーが、聞いたままの状況を香澄に報告した。

 乗客達に渡した酸素ボンベは一人辺り一時間強。真奈美によれば、既に三十分が経過している。ダイバーを一度引き揚げて、場所と海流の説明をするのに二十分、どう考えても残り十分では間に合わない。

 真奈美を送り届けたダイバーに行ってもらうにせよ、要救助者は二人だ。人数が足りない。

 「クソッ」

 香澄が机に拳を叩きつける。

 何事かとキャビンから出て来たトオルや拓夢達にも状況が知らされ、周囲にざわめきが起こる。

 「あの、桐ヶ谷さん、俺、行きます。以前、エツコと沖縄行った時にダイビングの講習受けてるんで、大丈夫です」

 トオルだった。

 「駄目だ! 貴方は体力を大きく落としてる。今行っても二次被害が拡大するだけだ!」

 「でも、助けたいんスよ! そりゃ貴女にも散々助けられましたが、あの雄大って子の言葉にも俺達は勇気づけられた。あの子が居なきゃ、今ここに居る事は無かった。だから!」

 「俺だって同じです。玲奈が居くれた分、トオルさんよりかは気は楽でしたが、あの作戦説明の時は、正直ビビってたんです。そんな事、本当に出来るのかって。だからあの子の言葉に助けられたってのは俺も同じなんです!」

 拓夢も後に続いた。

 「どちらも駄目だ! エツコさんや玲奈さんを放って、またあの海に戻るだと!? 正気か!? 貴方達の心遣い、大層痛み入る。でも、行くのはワタシだ。何せ、ワタシはあの子にとって、正義のスーパーヒロインなんだからな。ワタシ以上の適任なんて居るものか」

 香澄はそう言い放ち、アクアラングに手を掛けた。


 香澄はダイバーの駆る水上バイクで、浅田一家の乗っていたゴンドラ直上まで来た。とは言え、今も二人がゴンドラに居続けて居るとは限らず、既に賭けと言える状況だ。

 水上バイクを降りて、ダイバー共々潜水を開始する。視界は狭く、潮流も速い。不意に煽られ、マリンシティホイールの鉄骨に叩きつけられそうになるのを危うく躱しながらゴンドラへと急ぐ。

 直上から潜水したものの、ようやくに取り付けたのは別のゴンドラだった。潮流に流されているらしい。ふと見ると、正広の体が浮遊していた。酸素ボンベのホルスターが無い。香澄とダイバーは急ぎその体を海上に揚げる。

 「浅田さん、浅田正広さん、ご無事ですか!? 返事をしてください! 浅田さん!」

 香澄が頬を何度か張りながら呼び続けると、どうにか正広は息を取り戻した。一瞬安堵の空気が流れるが、香澄が続けて聞く。

 「雄大くんはご一緒じゃないんですか!?」

 意識を取り戻した正広が、雄大の名を聞いて、一気に覚醒する。

 「桐ヶ谷さん、雄大はまだゴンドラに居るはずです、酸素ボンベのホルスターが窓枠の突起に引っ掛かってしまい、何とか外そうとしたんですが、一向に取れず、終いには海流に負けて、私は鉄骨を掴む手を放してしまったんです。咄嗟に予備のボンベを雄大に渡しましたが、この様です。雄大を、雄大を助けて下さい! お願いします!!」

 まさか。

 あの暗黒の中に八才の少年が一人で居るというのか。一刻を争う。正広を同行したダイバーに預け、香澄は今一度ゴンドラを目指して一人潜水を開始した。

 海水に濁りが出て来た。完全に横倒しになったマリンシティホイールの重量で、海底の砂が巻き上げられているのだろう。このまま濁りが進めば、視界を完全に遮り、捜索不可能になる。それまでに、なんとか雄大の居るゴンドラに辿り着かなければならない。

 ようやくにしてゴンドラが見えてきた。しかしそれは雄大の待つゴンドラではない。ゴンドラの側面に数字の刻印が見えた。しめた。これで目標の方角が確定できる。香澄の脳裏にマリンシティホイールの全景が浮かび、目標の方向を進行方向右側と認識する。それは、海流を背にする方向だ。土壇場で運が向いてきた。このまま鉄骨を握り辿れば行きつける筈だ。

 早る気持ちを抑えながら、進んでいくと、香澄の視界に気丈にも未だ気を失わず、海流に身を押されながらも引っ掛かりを外そうと奮闘する雄大の姿が入った。

 居た。遂に見つけた。

 香澄は海流に乗ると一気に雄大の目の前まで流れ、鉄骨を掴んで急制動をかける。想像以上に大きな衝撃が肩を中心に香澄の体を駆け巡った。

 香澄の姿をみて、雄大は歓喜する。

 香澄は直上に遮蔽物が無い事を確認して、雄大の酸素ボンベのホルスターをナイフで切断する。

 そして、化学反応により、気体を発生させて瞬時に膨らむ救命具を雄大に着せると、その作動スイッチを押した。救命具は即座に膨らみ、雄大を、そして彼に掴まる香澄を諸共に海上へと引き上げ始めた。

 これで救助完了だ。

 そう香澄が安堵した瞬間だった。

 金属疲労の限界に達した、近場の鉄骨が一本、二人に向かって倒れ掛かってきた。

 香澄は咄嗟に雄大を突き飛ばし、その直撃から雄大を逸らさせる。

 倒れかかる鉄骨の向こうで必死に手を伸ばす香澄の姿が、雄大の見た最後の光景だった。

 その後は、砂が巻上げられ、海上に出るまで、一切の視界が無くなった。

お待たせしました。

最終回直前の第十四話となります。


今回は言い訳も注釈もありません。


次回最終回「それぞれの明日へ」、ご期待ください。

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