第八章 直接対決! 香澄vs金山
「そんな無茶苦茶な! いくら何でも荒唐無稽に過ぎる!」
薮下が吐き捨てる様に頭を振りつつ言った。
「無茶でも何でも、既に取り得る手段は他にありません。薮下さんもそう思われたからこそ、ワタシに話を持って来られたのでしょう?」
確かにその通りだった。鳥居坂への滑落後の暴走で、他の誰もが手を付けられなくなった時、決死の緊急行動に出たのは香澄だ。その行動もさる事ながら、瞬時に手段を思い付き、実行の為の覚悟を決める速さにこそ成功の隠された秘密があったと言えよう。事実あの時、香澄が少しでも戸惑って居たら、足踏みをしてしまっていたとしたら。その時は今は亡き香澄の愛馬F12フェルブリッタ言えど、追い付く事も能わず、立ち並ぶビルか、あの時レール代わりに使った首都高速の高架への激突、転倒からの最悪の結末は避けられなかっただろう。
「それにそもそも、こんな作戦しか他に無い状況を作り出したのは、他の誰でもない、薮下さん、貴方です。そこを棚に上げられては困ります」
薮下にとっては耳が痛い話だ。それは勿論分かっている。重々承知の上で、藁にもすがる思いで香澄に助力を願い出たし、彼女が取る行動が突拍子も無い物である事は百も理解していた。しかしそれでも、と薮下は思う。
「失礼な物言いになる事をご容赦頂ければと思うのですが、薮下さんは、その様にご自分の理解を越える事態に直面しても、常識の枠の中での対処に固執されます。大変優秀な方だとは存じておりますが、そうした殻を破る事が、今後の政治活動の中でも必要になって来るとワタシは思います。何卒、ご承認頂きたい」
香澄の視線はまっすぐに薮下を捉えている。曇りもなく、真摯で誠実な眼差しだ。
しばらく、と言っても時間にすれば数十秒であるが視線を落として考え込んでいた薮下であったが、不意に香澄を見て言った。
「分かりました。そこまで言われて尚覚悟を決められないでは、政治家がどうこうではなく、それ以前に私の男が廃ります。良いでしょう、全面的に貴女の案に乗らせて頂きます。まずは何が必要ですか? 早急に手配を開始します」
「ありがとうございます。ならば、集められるだけダイバーを集めて下さい。それと並行して自衛隊の空挺部隊への支援要請を。場合によって米軍に協力を申し出ても良いでしょう」
「了解です。その際は本作戦を相手方にお伝えしても?」
「勿論です。大変な危険が伴う事ですので、十分な説明を行なった上で、協力を取り付けて下さい」
そして最後の四日が幕を開けた。
桐ヶ谷香澄現場復帰の報は、翌日の官房長官による会見にて国民に知らされた。拓夢の書いたブログ記事はわずか数日の間に、三十万を越えるアクセスに達し、広く拡散されていた。その事もあり、桐ヶ谷香澄の復帰は好意的に受け止められ、同時に時同じくして晒された毒島の醜聞もあり、薮下に対する嫌疑めいた汚名はかなり薄まってもいた。
しかしながら、香澄の抱く具体的な作戦に関しては、報じられる事はなかった。とは言え、復帰早々では未だそうした事はまだ考えていないだけで、二度も乗客達を窮地から救って見せた香澄であるならばという、希望的な見方が大半を占めていたのも事実だった。
しかし、当の乗客達や、その周辺に居る者達にとっては、逼迫した状況に変わりはなく、一般への公表はともかく、自分達だけにでも、ある程度の策を知らせて欲しいという感情はあった。
「・・・って程度しか情報はないみたい」
エツコは事故の日から勤め先に有給休暇の申請を出し、一日の大半を救出作戦本部に詰めて居た。そして何か有る無いに関わらず、トオルに連絡を取って話をしていた。
この時も、先の香澄の復帰に関する追加情報を欲しがったトオルと通話していたが、いくら調べても、報道以上の事は分からず、声のトーンは下がり気味だった。
「お前が気落ちしたってしょうがないだろ。困ってんのは俺の方だぜ?」
トオルが元気付ける様に、少し笑いを含んだ声色で返す。
「別にしょげてるって訳じゃないわよ。でも、うん、そうだね。信じて待つしかないもんね」
「そうだよ。そもそも桐ヶ谷さんが居てくれなかったら、あの全国中継プロポーズの時に俺死んでたんだからよ」
「バカ、思い出しちゃったじゃん。あれ本当に恥ずかしかったんだからね? 友達とかからジャンジャン電話来ちゃうし、スマホの電池すぐ無くなっちゃって大変だったのよ?」
「そりゃもう何度も聞いたよ。それ言ったら俺なんて、ツイッターもフェイスブックも、全く知らない人達からフォローされまくって、芸能人並の有名人だっつーの」
「え、そんな事になってたの?」
「ああ、救出されたら見せてやるよ。ビビるぜ?」
「・・・うん、待ってるね。なるべく早く、ね」
エツコの声に涙が交じる。
「ああ、桐ヶ谷さんを信じて待っててくれ」
トオルは優しい声だった。
場所は変わって、呼出音がひっきりなしに方々から鳴り響くオフィス。拓夢のブログに先んじて第一報を書いた下島の所属する新聞社である。
下島は今回の件で、それまでの政治部から一時的に外れ、独立遊撃手の様なポジションになっていた。自らも内偵を進めていた毒島の醜聞が突如齎され、きな臭さを感じていた。
ピリリリリという味気ない電子音に設定された携帯が鳴る。発信者は藤井だ。
「はいモシモシ、藤井さん、どうも。ちょっとこっちでも動きがあって、電話しようと思ってたんですよ」
言いながら席を立つ。少々ならず込み入った話だ。社内の人間しか居ないとは言えオフィスでする話ではない。足早に歩きながら、ええとか、はい、そうなんですよと相槌を打つ。
社外に出てすぐの喫茶店に入り、店主と思しき初老の男に目配せしながら奥の扉を指差す。男はうんうんと頷き、カップを持ち上げる。コーヒーは持って行くかという意味らしい。下島は携帯を持ってない方の手で不要と示し、懐から五千円札を取り出してカウンターに置いた。この店は下島が秘密の話をする時用の個室のある喫茶店なのだ。
「お待たせしました。場所を変えました。ここなら盗聴だとかも無いですからね」
深部記者という職業柄、知り得た情報は一言たりとも外部に漏らす事はできない。下島に至っては、普段は政治部記者という事もあり、政党の内部情報であるとかの情報も持ち得、そういった物が漏洩すれば、場合によってはインサイダー取引等に転用され兼ねず、こうした場所を持つのは必然であった。
「で、ですね。何処から話しましょうか。毒島の件はもうお知りですよね? ええ、例のクソみたいな話です。で、今回のマリンシティホイールの件でも奴の暗躍が見え隠れしてたって話はしたじゃないですか? そもそも奴はおかしいんですよ。コネがあったって訳でも、政治家になる前になにがしかの成功を収めた人物って訳でも、勿論実家が大金持ちだなんて事はまるで無かったんですが、国会議員に当選した直後から、ほうぼうに金をばら撒いて、どんどん頭角を表していったらしいんですよ。これは誰が考えたって裏金の存在を疑いますよ。そもそも当選したっていう選挙だって当時は実弾の疑いがあったらしいですから。でまぁ話を戻しますと、そうは言っても今や内閣に席を列する文部科学大臣な訳ですから、こんな少し調べれば分かるような危ない橋を渡る必要なんて、普通に考えりゃあり得ない訳です。でもそうせざるを得なかった、って事はですよ? その金の出処は相当な力を持ってるって事です。それが個人なのか、どっかの団体や企業なのか、はたまた反社会的勢力って可能性だって無いわけじゃない。で、こっからは仮定の話なんですが、現状というか、少し前のマリンシティホイールの件が、その黒幕にとっては、面白い状況では無かったとしたらどうですかね? 毒島に命じて居たものの、奴が意図せぬ方向に動いた為、トカゲの尻尾よろしく、毒島を切った。そして、その結果、桐ヶ谷捜査官は現場に復帰したとしたら? いえいえ、私だって馬鹿じゃないですよ、内調が政治家を操ってるなんて事は思ってません。むしろ個人的には桐ヶ谷捜査官ファンって言えるくらいには、あの勇気ある行動には感服してるくらいですよ。そうではなく、もっと子供の様な、と言うか、ガキ地味た発想で、スーパーヒロインが毒島によって降板させられたから、逆に毒島を切って捨てたってのはどうですか? いや、勿論今現在でそんな発想をする人物なり団体に心当たりがある訳じゃ無いんですが、もしもそうならって考えが浮かびまして、そう考えれば現状に説明が付くな、と。まぁ、そういう訳なんで、こちらではもう少し調べてみますよ。何か分かったらまたお電話します。ええ、はい、それでは、また」
電話を切った下島は、タバコを一本取り出して火をつけた。深く吸い込んで吐き出された紫煙が、照明を着けていない部屋に差し込む夕焼けの明かりに、尾を引いて立ち昇った。
「薮下さん、お願いしてあった件、どうなりましたでしょうか?」
議員宿舎にて仮眠を取った香澄が、薮下の部屋を訪れていた。薮下は香澄との第一回会議の後、そのまま各方面への依頼の取り付けに奔走していたのだ。
「ヘリに関しては、桐ヶ谷捜査官の言われたとおり、安全性を確保の上でという部分を前面に押したところ、マリンシティホイールの誘導でも力添え頂いている流れで、陸自にご協力頂ける事になりました。各基地より空挺部隊の大型の物を現存する全機を向けてくれるそうです」
うんと声は出さずに頷いた香澄は続けて問う。
「で、ダイバーは・・・」
「それが、残念ながら・・・」
「一件もですか?」
「やはりどう説明したところで、マリンシティホイールの巨大な全容は全国的に知れ渡って居ますから。あれだけの大質量が沈み行く海に船を出し、ダイバーに潜れと言うのは、どこの企業も団体も首を縦には振ってくれません」
「海自や海保でも駄目ですか・・・?」
「はい、残念ながら。ただ、これは、お伝えすべきか悩んだのですが・・・」
言い淀む薮下に香澄が詰め寄る。
「何です!? 可能性があるなら、教えてください。今は多少の難があろうが、賭けるしか無いんです!」
「それは、重々承知しています。ですが、これは私も後から知った事でして、その・・・」
重々承知していると言う割には歯切れが悪い。
しかしそれでと詰め寄り続ける香澄の剣幕と真剣な眼差しに根負けし、渋々といった体で薮下が言った。
「他からはほぼ門前払いという感じで断られたんですが、一件だけ、条件次第で考慮しても良いという民間企業がありまして・・・」
「なんだ、あ」
るんじゃないですか、と続けようとした香澄を遮って続ける。
「金山が、金山盛太郎が所有する企業です」
昨晩、公安の坂上から忠告を受けたばかりの名前だった。けやき坂における、飛び込み自殺まがいの妨害行為を行なった迫田という男を差し向けたという、蠱毒使いの異名を持つ戦後最大の仕手師。
「金山本人と、桐ヶ谷捜査官が一対一で交渉をせよと言うのです。それが考慮の為の唯一絶対の条件だそうです」
なるほど、薮下が言い淀むのも分からないではない。それでも。
「分かりました。桐ヶ谷香澄がお愛したがっていると、先方にお伝え下さい」
「桐ヶ谷さん! いけません、聞いたでしょう、奴こそが今回の事故、いや事件の黒幕かも知れないんですよ! そんな奴の所に貴女を行かせるなんて出来ません」
それが普通の反応だろう。薮下の言葉では無いが、香澄も重々承知している。だが、今現在の状況を打破する可能性があるのならば。
「薮下代議士。ご心配頂ける事は大変有難く思います。行ったが最期、捕縛されてマリンシティホイールの乗客は助からなくなるのでは無いかという危惧もりかいできます。それでも、それでも、そこに可能性があるのなら賭けてみよと言うのが、ワタシが公私の両方で心から尊敬する方の論です。これは曲げられません」
幼い少女のような容姿そぐわず、気丈な女性だと薮下は思った。その瞳に宿る希望の光は何があろうと失われる事は無いのだろうとさえ思う。だがそれは薮下が知らぬだけだ。香澄の瞳は一度完全に光を失った。そこに今の様な希望を与えたのが、香澄の言う、公私の両方で心から尊敬する男なのだ。
「仕方ないですね。そこまで言われるのを無理に止める事は出来ません。でも一つだけ約束してください、必ずご無事で帰ってくると。宜しいですね」
そう言った薮下と、愛する男の面影が、少し重なって見えた。
金山に連絡を取るとすぐに返答が来た。葉山のヨットハーバーにあるゲストハウスで本人が待っているとの事で、可能であれば今から来いと言う。深夜を過ぎても良いかと送ると構わないと言う。了解したとの旨を返信した香澄は、すぐ様、乗客達に作戦概要を説明する事にした。その時の事を自らの手で運転する車中で香澄は思い返していた。
「はじめまして、こういった形で皆さんとお話しするのは初めてですね、桐ヶ谷香澄です」
薮下により調えられたスカイプの音声通話で乗客達と、そしてエツコや藤井ら乗客の関係者達が同席する形で、その時点で思い描いている作戦を事細かに香澄は話していった。説明自体は淡々としたものであったが、不安の声や質問があれば、その受け答えは真摯な響きに変わった。
しかしそもそも、薮下でさえ躊躇する様な突拍子の無い案だ。当の乗客達本人からすれば、それは薮下が感じる以上の狂気と聞こえただろう。
「桐ヶ谷さん、本当にそんな方法しか無いのでしょうか?」
幾度と無く説明を繰り返しても、そうした不安が収まる気配は無かった。
「桐ヶ谷捜査官が何度も申し上げておりますが、現在地点からは既に西側へ誘導する術はありません。そうなってしまったのは、一時指揮を任されていた私の不手際のせいです。皆様に今回この様な手段を突き付ける形になってしまった事、謝罪しきれる事ではありませんが、それでも言わせて頂けるのであれば、この方法に賭ける以外、皆様をお助けする手段が無いのです。もしも今回が失敗に終わった暁には、不肖、この薮下も議員を辞め、生涯を償いに充てる所存です。何卒、飲み下して頂きたく思います」
突如、薮下が通話に割って入って、土下座までした時には、誰しもが言葉を失った。
筋としては当たり前かも知れないが、まさか世間では最も役人に近い政治家とまで揶揄される薮下がそう言い切るとは、誰も思ってもみなかった。
乗客や関係者達、そして香澄でさえもが二の句を継げず、ピリリとした沈黙が周囲を支配した。それでもと否定するにせよ、ならばと肯定するにせよ、薮下の見せた覚悟を真っ向から受け止められる者がいなかったのだ。そう、たった一人を除いて。
「良いよ。僕、怖くないよ。香澄さんが助けてくれるんだもんね。そのために僕達も頑張らないといけない、そういう事だよね? だから、おじさん、大丈夫だよ」
雄大だった。今回巻き込まれた乗客の中で最も幼く、守られるべき存在、そう誰しもが思っていた雄大が事も無くそう言ってのけた。
「雄大、子供は今は良いの。ちょっとおとなしくしてて、ね」
慌てて母である真奈美が制したが、雄大は言葉を止めない。
「この観覧車を海に沈めちゃうなんて、怖いよ。本当にちゃんと逃げられるか分かんない。プールと違って海は前に行ったときも、いきなり鼻に塩水入って、僕泳げるのに、分かんなくなっちゃって、気付いたらパパに助けてもらってた。だから今回もパパや、パパよりもっと強い人達が側にいて助けてくれるって事なら、僕、怖いけどやってみるよ。だって僕達が頑張るって言わないと、ご飯とか飲み物をくれたおじさんや、格好良くて強くてキレイな香澄さんが困っちゃうんでしょ? だったら僕も、ううん、僕が力になりたい!」
この子は勇敢だ。香澄は思っていた。自らが絶望の闇に落ちてしまった頃と歳は大して変わりは無いのに、この子は既に立ち向かう勇気を持っている。
「しゃあねぇか。子供がここまで格好つけて、やってみるっつってんのに、俺ら大人が尻込みしてても情けねぇだけだしな。それに、俺も早いトコ無事に助かって、エツコを安心させてやんねぇとなんないからな。いつまでもメソメソ泣かれてたらたまんねっつーの」
そう言って雄大に同調したのはトオルだった。
「泣いてないわよ! バカなんじゃないの? ・・・でも、無事に戻ってこなかったら、その時は、本当に泣くからね?」
既にエツコの声は震えていた。
拓夢と玲奈は互いを見つめ頷き合った。
「もう一度桐ヶ谷さんにって言い出したのは、ハッキリ言って僕ですからね。その桐ヶ谷さんの考えられた作戦に文句なんて無かったんですけど、でも、まさかここまで突拍子の無い作戦が来るとは思ってもなくて、ちょっとビビってました。けど、雄大くんでしたっけ? その子の言うとおりだ。僕達が助かろうと思わなければ、全幅の信頼を持って挑まなければ、桐ヶ谷さんの力だけじゃ、どうにもならない。僕も賛成です」
「私には、拓夢が居てくれるから。どんな時でも私を助けてくれて、守ってくれて、あははって笑い飛ばしてくれる拓夢が居てくれるから。その拓夢が絶対に大丈夫って言うなら、私も信じられます。桐ヶ谷さん、もっと詳しい事、教えてください!」
「そうね・・・そうですね。こんな小さな我が子に押し得られるなんて、母親失格ですね。私も、異存ありません。宜しくお願いします」
真奈美の声には決意の力が篭っていた。
対して正弘は少し自重気味だった。
「確か、千野さんと仰られましたっけ? 支柱が崩壊したあの時、自力で脱出された、父子がいらっしゃいましたね。ネットの記事で読みました。そういう選択肢だってあったんですよ。なのに私と来たら。妻と息子を目の前にしながら慌てふためくばかりで、本当に駄目な男でした。でも、こうして雄大が言ってくれて、ようやく覚悟を決められました。何としてでも助かります。最悪、この二人を助けられるなら、私の身はどうでも」
構わないと続けるつもりだった所を香澄がさえぎる。
「貴方も助けます。大丈夫。助けますから。そんな思い詰めないで下さい。雄大くんが悲しみます」
よくも言ったものだ。車を止め、ハンドブレーキを引きながら香澄は思う。全ては、これからの交渉の成否に掛かってるというのに、そんな大言壮語をよくも吐けたものだ。
指定されたヨットハーバーのゲストハウスには、灯り一つ無い。人の気配さえ。
ドアノブは抵抗なく押し下げられ、音も無く扉が内に開いた。まるで誘うかのようだった。
「はじめまして。君が桐ヶ谷さんか」
闇の中から声が聞こえた。窓から射し込む月明かりが、重厚なソファに埋もれた男性の姿を浮かび上がらせている。
「暗闇で失礼。今電気を点けよう。考え事をするときは灯りが邪魔でね。貴女が来るまで様々な事を思索していたよ」
そう聞こえたかと思うと部屋に灯りが点った。ソファの中の老齢の男性の手には照明のリモコンが握られている。
「お招き頂きました、桐ヶ谷香澄です。金山盛太郎氏ですね?」
香澄が少し緊張した風に聞くと老人は楽しそうに笑い、一点睨む様な表情に変わり
「その通り。君達に蠱毒師と仇名される、現在日本における最大の悪だよ」
と言った。
手強い。咄嗟に香澄は身構えた。
「構えずとも良い。それより、早速、話してくれないか。君の言う案とやらを」
香澄は瞳を閉じ、一つ大きく息を吐き出し、肩の力を抜くと、目を開き口を開いた。
「その前に幾つか宜しいでしょうか」
「構わないよ」
「まず、けやき坂における作戦時、迫田という男性に自殺教唆をし、妨害行為を行ったのは貴方ですね?」
香澄の力強い視線は金山を捉えたままだ。しかし当の金山は、小娘が睨み付けた所で痛くもないといった風で意にも介さず「そうだ」とだけ応えた。
「それと、そもそも、あのけやき坂に誘導せよという指示は、辞職された毒島元大臣による物とされていますが、あれも貴方の差し金ですか?」
ふむという感じで金山が視線を上げ、香澄を見た。
「流石だ。内調の副室長という肩書にそぐわぬ、見事な洞察力だ。しかしそれは違う。あれは毒島の独断だ。もっとも、奴が私の傀儡であった事は事実だがね。少し説明しておいた方が良いだろう。でないと本題に進むにしても、こちらの意図を汲み取れず、貴女もやきもきするだろうからね」
そう言って立ち上がり、部屋の一角に設えたミニバーへ行き、既にデキャンタージュされたワインと、グラスを二脚持って戻って来る。
「マルタ島の年代物だ。一杯いかがかね?」
「いえ、車ですので」
短い拒否に無言で頷きワインを注ぐ。一口含み、クチュクチュと音を立てて味わい、うん、と言った。
「まず本件に関して、私のスタンスは、迫田の件があったにせよ、基本的には傍観だ。ただレインボーブリッジでの最初の誘導を見た時、これは面白いと直感したよ」
面白い、そう言い切った。香澄の胸に怒りに似た炎がメラッと上がりかけたが、理性で収める。
「私はね知っての通り巨額の富を持っている。それ故、今までの人生でありとあらゆる娯楽を味わい尽くしてきた。女に始まり、美食、美酒、観劇や音楽、絵画、果ては一国の大臣を傀儡にして国政を操る所までね。私ももう歳だ、いつお迎えが来てももう未練は無い。そう思っていたよ。しかしそんな時だ、観覧車の崩落事故が起き、あまつさえ乗客を乗せたまま転がっているというじゃないか。こんなショーは見たことが無い。まるで映画のようじゃないか。しかし事故が起きたのはお台場だ、早晩海に落ちて乗客は死亡、大局的に見れば然程の被害も出ずに終わるだろうと思った。しかしそれを貴女は誘導し、レインボーブリッジを渡して見せた。これは面白くなった。私は毒島を呼び付け、面白いと言った。しかし具体的にどうしろと言った事実は無い。理研を使ってけやき坂への誘導を毒島が指示したのは、アレを面白がる私に媚びる為に長期化させようとしたのだろう。結果的には首都高の高架を使った貴女の活躍が見れたのだから、その点に関しては奴を責める気は無かった。しかし奴は分かって居なかった。私はただ面白い物を見たかったのだ、それが大破壊である必要は無い。むしろ、桐ヶ谷捜査官、貴女の奇抜でアクティブな行動にこそ魅せられたんだよ。確かにけやき坂の時点ではあれ程の事が起きるとは思って居なかったから、迫田を使って陰惨な事故を起こそうともしたが、そんな必要は無かったのだ。何せそんなありふれた悲劇より、貴女の起こす奇跡の救出劇の方が面白いのだからね。毒島を立件させたのは私だ。桐ヶ谷香澄というショーの主人公を罷免などという馬鹿げた事をしでかしたからな。無能は要らんからな。と、言うことだ。分かって頂けたかね?」
香澄の中にあった感情は怒り、ただそれだけだった。いや正確には軽蔑や嫌悪という感情もあったのかもしれない。ただ、手がワナワナと震え、眉間と奥歯に力が篭もる感覚があった。
「貴方は、悪だ」
それだけ絞り出す様にして香澄は言った。
しかし、今はすがるしか無いのも事実だ。金山の、その配下にあるダイバー達の力が無ければ、作戦の成功はあり得ない。
「かつて多くの悪と対峙してきましたが、貴方程の悪は初めてです。しかし同時にその言葉は真摯だ。今は、今だけは貴方の力に頼るしかありません。助力を願えますでしょうか?」
幼くさえ見える容貌だが、仮にも香澄は内閣情報調査室の副室長の責にある人物だ。自分の感情を悪だと断言した時に全て吐き出しきって見せた。
「若いのに大した胆力だ。本心では私が憎くて憎くて仕方がないだろう。今すぐに拘束、場合によっては射殺したいとさえ思っているだろうに。良かろう、本題に入りましょう。作戦の詳細を」
未だ怒りに震える心を抑えて、香澄は金山の対面に座って説明を開始した。
当初断ったワインを飲み、どうにか怒りを鎮めた香澄のグラスに金山は無言で二杯目を注いだ。目の端でそれを見ながら言う。
「マリンシティホイールは、羽田の海に沈めます」
「ほほう、それは過激だ。で、乗客はどうするおつもりで?」
香澄の言葉に一瞬デキャンタを傾ける手が止まった金山だったが、何事も無かったかのように、また注ぎ始めた。
「物資運搬用のドローンで、工具を乗客に渡して、中から窓枠を外して貰います」
「ふむ、解せませんね。そんな事が可能なら何故もっと早期に行わなかったのですか?」
「現在に至るまで、マリンシティホイールは絶妙なバランスを持って転がっています。それぞれのゴンドラには、最下部に来た際、その膨大な全重量がかかっており、窓枠を外すという事は、その力の分散バランスを崩すという事に他なりません。地上にある状態で行えば、良くても当該ゴンドラの崩壊、悪ければそのまま即転倒という事態は避けられないでしょう。どちらにせよ乗客の命は絶望的です」
「なるほど、海上であれば浮力も相まって水中にとは言え、無事に外に出られる可能性が出てくる、という事ですね? しかし海ですからね、波があります。煽られて転倒する恐れもある。その場合、下の方のゴンドラに乗っている客は良いが、上部に居る客は百メートルから水面に叩きつけられる。助かる訳がありません」
金山の言う通りだ。高飛び込みの競技でもせいぜい十数メートル程の高さであり、それもきちんとした入水姿勢を練習した選手だから無傷な訳で、何の訓練もしていない一般人が五倍以上の高さから落ちればひとたまりもない。
「陸自の空挺部隊の輸送用の巨大なヘリを使います。編隊を組んだヘリ部隊から転倒時にフックを射出しホバリングで転倒速度を殺します。引き込まれて墜落する前にフックを切り離し離脱、第二編隊、第三編隊と繰り返す事で、安全な速度でマリンシティホイールを海上に横倒しにします」
恐ろしいまでに突飛な発想だ。
先程自身を悪だと断言した香澄を見て、金山は狂気さえ感じ取っていた。いったいどれだけの信念があれば、ここまでの発想に至るのか。悪とか正義とかという道徳的な概念を置き、プラスとマイナスも無い絶対数的な事を言うのであれば、香澄は金山のそれを凌駕して居るのではないかとさえ思えた。
「そこで金山氏、そちらの出番です。大質量が着水し、大荒れに荒れた海で、巨大な鉄の塊を掻い潜って乗客を助け出すダイバーが要ります。同時に救助した人々を収容する船舶と、海中より危険な海上を、高速で移動して要救助者を捜索する、水上バイクも可能な限りお貸し頂きたい。海自や海保、民間企業を含め、二次災害を恐れて全て断られました。貴方の力が必要です」
なるほど、そういうことだったか。この女が迫田の事や、毒島との繋がりまでをも想定していた自分の所へ話を向けてきたのは、そういう理由があったのか。話を聞いてみれば当たり前だ。マトモな頭を持つ者なら、一も二もなく断るだろう。しかし、それしか手段が無い以上、このイカれた女であれば、自分の所へ来ても何の不思議もない。
そこまで考え、金山は突然愉快な気持ちになって高らかに笑った。
金山の意図が分からず香澄が、いかがされましたかなどと聞いてきたが、意にも介さず、金山は笑い続けた。
ひとしきり笑った後、金山は言った。
「分かりました。手持ちのダイバーと船舶、水上バイクまで全量を投入しましょう。先程も申しましたがね、そして貴女には悪だと断言されましたがね、これ程愉快な事は無い。今でもそこに変わりはありません。ですから、笑ったのです。愉快な気持ちになれば人は笑う。貴女だってそうでしょう?」
そう言って片手を差し出してきた金山を見て香澄は、クソだなと、声には出さずに呟いた。
そしてニヤリと笑うと、その手を取った。
「よろしくお願いします」
呉越同舟とは、こういう場にこそ使うのだなと思いながら香澄はグラス煽りワインを飲み干した。
「追って詳細をお知らせ致します。ワタシは飲んでしまいましたから、車の中で休んでから帰ります。では」
そう言って立ち上がる香澄に対して金山は、ベッドルームもあると言っていたが、クソヒヒ爺の部屋に泊まる程、香澄の肝は座っていない。
「それはそうと」
金山が言う。
「この作戦、何と呼ぶかね? けやき坂作戦というのも、後付でそう呼称されているだけだ。しかも今回は正真正銘、最後の作戦ですからね、羽田沖作戦では」
「面白くない?」
最後を遮って香澄が言うと、金山はますます面白いと言った風で、そうだ、と満足げに頷いた。
「そうですね、面白いかどうかは別にして、作戦に名前を付ける事にはワタシも賛成です。何か良い案はありますか?」
「いや、私には何も。それにそもそもこれは貴女の作戦だ。私は力を貸すだけに過ぎない。命名は貴女がすべきだだ」
なるほど、少し考えて香澄は言った。
「ならば、先程も話に上がりました、けやき坂作戦の後の、鳥居坂での件で共に救助を行い、殉職したワタシの相棒にあやかってこうしましょう」
殉職? と金山は思う。
確か今回の件で、犠牲者は出ていない筈だ。それに相棒? そんな者は何処にも居なかった。いったい何の話をしているのかと金山が首を傾げていると、香澄は強い意思を帯びた声で言った。
「オペレーション・フェルブリッタ」
またもやお待たせしてしまいました。
今回は個人的に気掛かりな事があり遅くなってしまいました。申し訳ございません。
さて、今回で遂に引っ張りに引っ張った作戦の内容も出し、残す所あと二話となりました。
前回までで殆どの過去話で登場したキャラも出ましたが、今回、正弘の話の中で、序に登場した千野父子も出て、こちらも完了です。
ちなみにミミズは? と思われる方もいらっしゃるかも知れないので、一応言っておくと、実は雄大のくだり、アレ、ミミズの話との対比なんです。
ミミズの子供たちが村のミミズ達を説得して旅立つ、あの状況を、雄大と他の乗客達という形で再現した訳です。
ミミズ達は結局バッドエンドですが、雄大達は助かる事ができるでしょうか?
といった風で今回の引きとさせて頂きます。
尚、このAttack of the Killer 観覧車の完結後、次作の予告編が、こちらにございます。
http://ncode.syosetu.com/n1084dn/
次作はガラリと作風を変え、敢えてのVRMMOという、ありふれ過ぎのジャンルで、一風変わった事をやってみようと思っているので、是非、こちらもお読み頂けると幸いです。




