第五章 希望に繋ぐプロパガンダ(後篇)
薮下の話し方は、政治家というより、どちらかと言えば役人のそれに近かった。言葉尻はへりくだるというか、丁寧で親しみやすいのに、融通は効かず、あくまで決定している事項を履修させる説明でしかない、そんな感じだった。
マリンシティホイールの誘導方法の確立と、それを運用する為の基本的な試算手順をまとめ上げ、実際に数度に渡って窮地を救った香澄の罷免は、乗客達から続投の希望どれだけ出ても覆る事は無かった。
薮下曰く、皆様の救出は勿論すべてに優先されますが、抑えられるのであれば周辺への物的被害も可能な限り抑えたく、そういった思想が桐ヶ谷捜査官には欠如している様に思われるとの事だった。
また、最後の転身による無茶な行動により、自身も負傷しているので、彼女には大事を取って治療に専念して貰いたいという言い分だった。
とは言え、その端々には、香澄から取り上げた誘導手法を自らの手で運用し、あわよくば手柄の全てを横から掠め取ろうというニュアンスが聞いて取れた。
もっとも、本当にそうであれば、乗客達にとって、どれだけ良かっただろうか。薮下は金山の蟲である毒島のさらに手数と言った立場であり、その本質的な役目は、事態の長期化と被害の拡大にこそある。金山御大のとても趣味の良いとは言えない『観劇』の為の演出家、と言った役回りだった。
救援物資は救助完了まで、日に三回、定時で届けられるという。また、薬やその他個別に必要な物があれば、スカイプを通じて連絡すれば、極力、その次の定時救援物資と合わせて届けられる様にするとの事で、安心して欲しいとの言葉を薮下は繰り返した。
理研による誘導ルートの算出と、桐ヶ谷捜査官の手による誘導手段は完璧です、と。
見事なまでに理路整然。眉目秀麗な題目と、丁寧で柔らかな言葉群。清く美しすぎる泉の様な、嘘の臭いしかしない言の葉だった。真水の池に生物は住めないみたいに。
自ら調べた者、外部からの連絡によって知った者の差こそあれ、乗客の全てに桐ヶ谷香澄の行った行動は薮下からの通話に先立って知られていた。
確かに場当たり的な対処であった事は否めないし、転倒の危険も少なからずあった事は確かだ。しかし、結果として二度も絶体絶命の状況から救って貰った乗客達の中に、香澄に対する悪感情は無かった。むしろ、中には傍らのビルに激突したF12フェルブリッタを目にした者もあり、本人が負傷したという薮下の言葉に対して、逆に心配する者さえあった程だった。
薮下が通話していた場所は、赤坂に設営された救助本部であり、乗客の身内の者達も近くにあった。
そうした者達も当の乗客達同様の反応だったが、一人だけ異なる想いを抱く者があった。
長嶋拓夢のマネージャーである、藤井健吾である。
そもそも、何故、警察や自衛隊ではなく、一般的には殆ど認識の無い、内閣情報調査室の桐ヶ谷香澄が現場指揮に当たったのか。これに関してはある程度の推測が立つ。前代未聞の事案に対して、どちらの組織が、どういった指示系統に従って、どの法律を適用して動くかが分からなかったのだろう。
そこで命令系統が簡素で、総理大臣のゴーサインだけで超法規的措置を行使できる、内閣情報調査室こそが適任だったのだろう。
そして、桐ヶ谷香澄という人選は、公表されていないものの、抜きん出た頭脳と運動神経を見るに、内閣情報調査室の中でもエースにあたる人物だったのではないか。副室長という職責を名乗っていた。室長というのが、文字通り内閣情報調査室のトップであるなら、交渉や事務方を担当し、副室長が実働部隊のトップだったのではないか。だとすれば話の筋が通る。
しかし、問題はその後だ。
レインボーブリッジを渡らせて内陸に向かわせたのならば、東京タワーのある芝公園に誘導するだろう。結果論にはなるが、鳥居坂の北端にて、一時的にとは言え瓦礫に支えられて停止できた訳だから、開けた場所に誘導し、膨大な量の緩衝材を用意しての停止作戦という風に発想するのが普通だ。
それをわざわざ建築物が密集する六本木ヒルズへ誘導する意味がない。何か勝算があったのかも知れないが、ならば最初からレインボーブリッジを渡らせずに、お台場内にある建築物を使う筈だ。つまり、レインボーブリッジ通過と、六本木ヒルズ方面への誘導とでは、立案者の思考が真逆なのだ。別人による立案としか考えられない。
もしもこれが内閣情報調査室以外の組織から発案された物であるとしたら、桐ヶ谷香澄の罷免も、その組織による横槍である可能性がある。
しかし負傷と言うのは、完全な嘘という事は無いだろう。程度こそ分からないが、桐ヶ谷香澄捜査官は負傷し、場合によっては、横槍を入れた別組織により、病院に治療という名目で幽閉されている可能性すらある。もしもそうであるならば、誰かがこれを解除し、現場の指揮を彼女に戻す事こそが、正しい救助の道という事になる。
まずは調べなければならない。芸能界のパイプを使って、マスコミから情報を集めよう。
「ああ、藤井さん、お久しぶりです」
携帯電話に出たのは、元芸能記者でありながら、現在は永田町番という異色の経歴を持つ、新聞記者、下島だった。政治記者ではあるものの、現在はマリンシティホイールに掛かりきりになっている。夜討ち朝駆けが基本になるのは、芸能記者でも政治記者でも同じらしく、スマートフォンではなく、バッテリーの持ちが良い携帯電話を愛用している。
「シモさん、今話題のマリンシティホイールの件で、凄いネタあるんだけど、協力して貰えませんか?」
「凄い、というとどのレベルです?」
「ウチの長嶋拓夢が、あの中に乗ってます。それも、アイドルの井沢玲奈と一緒にです。逃げ場の無い密会現場であり、同時に中の状況をこちらで聞く事ができる」
爆弾クラス、それどころか、連鎖爆発の起こるメガトン級のネタだった。
「何を調べれば良いですか?」
下島は一も二も無く飛びついた。これを無視する記者なんてあり得ない。安く見ても社長賞モノ、日本新聞協会賞だって狙えるレベルの特ダネだ。
「桐ヶ谷捜査官が罷免された話は?」
「聞いています」
「表向きには作戦の失敗と本人の負傷という発表だが、そもそもあの作戦が桐ヶ谷氏の立案とは思い難い。見方によれば何者かの横槍、場合によって桐ヶ谷氏が幽閉されてる恐れも考えられる」
「なるほど」
それだけ言って下島が少し沈黙する。
藤井の言いたい事は分かる。ならば何処から切り崩すべきか。新任の現場指揮は文科省の政務次官だ。桐ヶ谷氏の負傷が本当に重症で動けないと言う事なら、普通に考えれば現場で動いていた自衛官の中から職責者が、繰り上がりで指揮につくはずだ。その方が誘導の運用実績もあり、今後の動きがスムーズになる。それを防衛省でさえない、文科省の政治家が取って変わるという事は、何かあると考えるべきだ。
「分かりました。文科省内部から何か掴めないか探ってみます」
「助かる」
「長嶋と井沢の件はどういったタイミングで出せますか?」
「こちらに考えがあります。シモさんには先ず裏にある陰謀というか、誰かの企ての筋を調べて頂きます。そして、それをこちらに頂いた時点で、長嶋と井沢の件はなるべく即効性のある、例えばweb記事などの形で第一報を書いて頂きたい。そうする事で世間の耳目を当の二人に向ける事ができる。そのタイミングで二人の連名の形でブログ等を使って、桐ヶ谷氏の復職を希望する声明を出すんです」
「なるほど、後はインターネット特有の拡散力に賭けて世論を動かすという筋書きですか」
「いかがでしょうか? 無論、第一報の後も熱愛報道とマリンシティホイール内部に居た当事者のインタビュー記事、どちらも展開して頂いて構いません」
「こちらとしては文句の付け様のない条件です。しかし分からないのは、そちらのメリットです。そこまでして桐ヶ谷氏の続投を推す理由は何です?」
「薮下政務次官の物言いが気に食わないという事と、既に少なく見ても二回は桐ヶ谷氏に助けられて居ますからね。信用に足るという事です」
下島は笑みを浮かべる。瞳も輝いている。特ダネがどうだ、賞取れるかもしれない、出世だってできる、そんな即物的な感覚ではない。こんなにワクワクしたのは記者になって以来初めてかも知れない。
「了解しました。ここまでお膳立てされて蹴る様な奴は記者じゃありません。力の及ぶ限り調べさせて貰いますよ」
調査で動ける人間は確保出来た。
次は長嶋達に話して納得して貰わないとならない。
藤井は下島との通話を終了し、少しだけ考え、長嶋の番号をスマホ上で選び出した。
ドローンが三回目の補給物資を届けて引き返していく。時刻は十八時を回るところだ。
真夏もピークを過ぎたとは言え、その暑さは未だ衰えない。ゴンドラの中はエアコンなど無く、ビニールハウスの様に夏の陽光を蓄えて灼熱の様相である。
既に支柱崩壊の事故が起きてから三十時間近くが経過している。補給物資により空腹や怪我の痛みに苛まれる事こそ無いが、トイレなどは携帯用の物を使わなければならず、男である自分はまだしも、同じ空間にある玲奈には相当な精神的負担になっている事だろうと拓夢は思う。
そうした負担を減らせればと思い、敷居に出来るようなカーテンと天井に貼り付けるテープを今回の救援物資で送って貰った。
その補給が来る直前まで、拓夢のスマートフォンを使い、玲奈ともども藤井と話をした。
藤井の説明は二人の交際を公表すると言われた時こそ驚いたし怒りも湧いたが、続く話を聞く内に、絶対に必要な事なのだと理解できた。
というよりも、救出が成った時には、間違い無く密会は公に曝される。ならば自ら明かしておけば、その後の対応次第では、最悪の事態だけは回避し得るのでは無いかと拓夢自身も思った。
藤井が言うには現在も調査は続いているが、桐ヶ谷捜査官の罷免にまつわる諸々は、横槍というか陰謀めいた行為があった事は、多分間違いなさそうだとの事だった。
下島記者は有能な男で、藤井から話を持ち掛けられた後、僅か数時間でけやき坂への誘導とその傾斜を利用した作戦が、理研によって作成され、文科省を通じて閣僚会議で承認された物であると突き止めていた。
また桐ヶ谷香澄の入院先は事故現場に近い日本赤十字社の病院だという事も掴んでいた。
更には理研内部にコネクションを持つ他の記者へ、マリンシティホイール内に居る乗客本人へ直接繋がるルートがある事をほのめかし、バーターで口聞きを頼み、けやき坂作戦の試算作成が、文科相である毒島からの直接指示であった事の証言をも取っていた。
ただ手柄を挙げようとしたが故の行動とは思えない。だとすれば、毒島のバックには、政治家以外の人物、もしくは組織の意思があるのでは無いか、という方向で現在は調査中であるとの事だった。
とは言え、ここから先に関してはジャーナリストとして下島が個人的に調査していくべき部分であり、藤井の策を実行する為には、現状までで言質の取れた情報だけで、事が足りるだろうという事で、報告を入れてきたのである。
今後は藤井の提案に従い、拓夢は玲奈はブログ記事を書くことになる。期限は明朝八時とした。現在、藤井監修の元、下島が拓夢と玲奈の密会を伝えながらも、耳目をマリンシティホイール内に取り残された乗客の生の声、という部分にこそ向けさせる物にすると言う。この記事がネット上に掲載されるのが夜半頃。深夜帯であるから、拡散浸透の速度は遅れるものの、芸能スキャンダルと、日本中が注目する大事故の特ダネのダブルパンチとなれば、朝までには話題になっている事だろう。そして、拓夢と玲奈それぞれの応対に注目が集まったタイミングを見て、ブログ記事を投稿という手順である。
藤井が前もって他の乗客の関係者等と連携してブログ記事を拡散させる手はずになっている。その後の広まり方によっては、かなりの速度で世論足り得る物を形成できるかもしれない。そこに賭けようという作戦だ。
「今は桐ヶ谷さんに頼むしかないって事だな。玲奈、それで良いか? 俺達の事、こんな形で知れ渡っちゃうけど、ごめんな」
「しょうがないでしょ。それに私もあの薮下って人、最初っから何か嫌いだったし。澄ました蛇みたい。それに」
一旦言葉を切った玲奈は一歩だけ拓夢に近付き、上目遣いに続けた。
「どんなに大変スキャンダルになっても、拓夢が守ってくれる。そうでしょ?」
日本のトップアイドルの上目遣い甘えに二の句を継げる筈など毛頭無かった。
桐ヶ谷香澄は孤児である。
父親は外資系企業に勤めるサラリーマンであったが、同期の中では出世頭とまでは行かずとも、三十代前半の若さで係長の職にある、将来を有望視される男だった。母親とは幼馴染同士であった。
父親は仕事こそ出来た人だが、外資系企業という事もあり、日本的ビジネスマンではなく、必要以上に仕事にかまける人間ではなく、妻を家庭を、そして何より香澄を大事にする良き父であり夫であった。
母親は大学を卒業した後、東洋薬学の研究の為に大学院へ進み、そのまま研究室に残った学者肌の人だった。とは言え、当時交際中だった香澄の父親は大学卒業後すぐに勤めた為、彼女が本格的に研究を始める頃には社内で頭角を現し始め、人より早くプロポーズをしてきた事もあって、志半ばで家庭に入る事を決めた。
香澄が生まれたのは二人が結婚して二年ほど経った晩秋の頃だった。冬に向かう凛とした空気の中で、若い父母は我が子に、香澄と名を付けた。
幼い頃から賢く活発だった少女は、蝶よ花よと愛され育った。子供心にも、幸せを感じるに十分な日々だった。
その日が来るまでは。
香澄が八才の頃、両親の結婚記念日に両家の親族が集まった。普通の家庭ならそんな事は無かっただろうが、彼女の家ではそれが普通だった。
その日、普段なかなか会う機会の無い祖父母達と会い、はしゃぎ疲れた香澄は早い時間に床についた。
ならば場所を変えてと、両親や祖父母達は二台のタクシーに分乗して飲みに出かけた。行き先は香澄の誕生日などによく行っていた洋食店だった。
その帰り、やはる二台のタクシーに乗っていた彼らは、居眠り運転の大型トラックに追突され、呆気なくこの世を去った。
朝を迎え、目を覚ました香澄は誰もいない家で、耳の痛くなるような沈黙の中、母親の携帯電話にかけたが、通話に出たのは、まるで知らない男の声だった。
男は警察官だった。事故で両親や祖父母が亡くなった事を知らされた。
警察官はすぐに迎えに行くと言った。言葉通り、三十分もしない内にパトカーが来て、婦人警官が、涙を溜めた瞳で香澄を抱きしめた。
その日、香澄の世界から色が消えた。
公安所属だった元町壬午が内閣情報調査室に引き抜かれたのは、彼がちょうど三十歳になった年だった。
その職務上、一般的な家庭を持つことは難しいという事もあり、以前学生だった頃に憧れていた女性が三つ上の学年に居た以来、彼にはそういった浮いた話はまるで無かった。風の噂によればその女性も結婚をして、今では母になっている聞いていた。
そんな少し遅い淡い初恋めいた物を忘れさせてくれる程度には仕事は苛烈で、且つ刺激に満ちていた。
公安から内閣情報調査室への移転は、その取り締まる対象こそ違えど、目的は国家の防衛と発展という同じ方向を向いていた。元町が元々、正義感の強い男であった事もあり、どれほどに多忙を極める職であろうとも、自分にとってはこれこそが天職だとさえ思っていた。
ある日、密輸に手を貸していたトラック運転手を確保した。男が言うには、居眠り運転で八人の命を奪ってしまった後、どこからも取引ができなくなり、裏稼業に手を出したとの事だった。
調べてみると、男の言う事に嘘は無く、確かに居眠り運転による重大事故で二台のタクシーに追突、運転手以下計八名の命を奪っていた。
調書を読む中で、元町は身体が強張り、体温の急激な上昇を感じた。被害者の中に、大学時代、憧れていた女性の名前を見つけたのである。
心の奥に固く封じた恋心がざわついた。
虚脱感に襲われる頭で元町は気付く。
子供、子供の名前は。
被害者名簿の中に、彼女の子供の名は無かった。という事は、今も何処かで、その子は生きているという事だ。しかし、彼女とその夫、さらに双方の両親が死者としてリストされているという事は、その子は天涯孤独の身になっている事を如実に示していた。
ついぞ想いを伝えることさえできぬまま、一方的になくした恋心である筈だった。
けれど今ならできる事がある。
憧れの人が多分、その命尽きる瞬間、最も気に掛けたであろう子供を、自らの手で守り、育て上げる事。それこそが、自らに課せられた、国家の為の職務と天秤に掛ける程に重要な仕事なのだと思った。
その日の内に元町は、仕事を同僚に引き継ぎ、香澄という名の憧れの君の忘れ形見が居るという孤児院を見つけ出し、三日間の休暇を取り付けた。
「今、迎えに行く」
誰にという訳でなく、そう独りごちて、元町は職場を後にした。
お盆休みにつき、速筆期間実施中です。
普段、週イチを謳いながら、遅れがちな当作ですが、今週いっぱい、長いお休みということで、日頃のご愛読への感謝と、遅筆の謝罪を合わせて、頑張って書いております。
休みが終わるまでに、もう一話書きたいと思っておりますので、ご期待下さい。