1-2 報復
「なんだこいつ。正気じゃねえ」
穂村に自らの行為を棚に上げる発言をさせてしまったのも無理からぬことである。一直線に茜へと駆け寄った當間は、燃え盛る火の中に手を突っ込んだのだ。
炎の中から妹を救い出そうという魂胆だが、茜の全身を侵す炎は容赦なく當間の両手をも襲う。すぐに力が入らなくなり、両手を引っ込めざるを得なくなる。
「茜!」
「お兄、ちゃん」
當間は必至に呼びかけるが、それに応える妹の声は消え入りそうであった。
「てめぇ、ふざけんじゃねえぞ」
穂村がサバイバルナイフを振るう。間一髪それをかわした當間は、あるものに目を付けた。それは茜のすぐ近くに転がっていた布製の学生かばんであった。
當間はカバンを掴むと、火柱を経由させて穂村へと投げつけた。単純な投擲であれば動じることもなかったであろう。しかし、引火して炎を纏ったカバンは、穂村に火の玉を連想させた。それを躱す際に手元が狂い凶器を手放してしまう。
武器を封じたことで、當間に反撃の機会が訪れる。そうでなかったとしても、無我夢中であった當間は構わず突撃していただろう。
雄たけびをあげつつ、穂村に全身をぶつける。もつれ込むようにして両者は川の中へと転がり落ちていく。
入水してすぐに腰までつかるほどの深さであった。川の中で馬乗りの姿勢を確保した當間は、穂村の顔を両手でがっちりと捉える。
「おいおい、自分がやってることが分かってるのか」
「てめえに言われる筋合いはない。お前こそどうして妹を殺した。恨みでもあったのか」
そうだと肯定してくれれば少しは救われたかもしれない。しかし、怒声を浴びせる當間を嘲笑うがごとく、穂村は言い放ったのだ。
「恨みなんざねえよ。殺るのが楽しいからに決まってるだろ」
それを耳にした途端、當間の理性がはじけ飛んだ。人間とは思えないほど喚き散らし、穂村の顔を水流へと沈めたのだ。穂村は抵抗しようと蠢くが、當間が全身を使ってのしかかっているせいで思うように身動きできない。
サバイバルナイフを手放したうえ、水中ではライターも使用不可。そして、馬の利になっている青年は過重な重石と化していた。今更焦燥したところで、もはや逆転する術など残されていなかったのである。
そして、當間は全神経をかけ、妹を手にかけた仇敵を始末しようとしていた。ふざけるな。快楽殺人だって。てめえの憂さを晴らすためだけに、俺の妹は死ななくちゃならなかったのか。
とめどなく溢れる怨嗟を力へと変換し、執拗に頭を押さえつける。絶え間なく水面には水泡が浮かび上がってきていた。両手に伝わる振動。そのどちらもが次第に途切れていく。だが、復讐に支配された當間はそれを気にすることはなかった。
當間が異変に感づいたのは、自らの手に伝わる熱が急速に引いていった時であった。抵抗する相手を鎮圧しようとするのに躍起だったが、嘘のように反応が途絶えたので、當間もまた静止したのだ。
もはや、人形を川に沈めようとしているのと同じだった。それが逆に當間に軒並みならぬ不安を抱かせた。あまりにも反応がなさすぎる。がくりと腕の力が抜け、穂村の瞳が水面へと浮上する。
當間はそのあまりにもおぞましい眼光を嫌が上で目の当たりにしてしまった。
狂ったように吼え、穂村の頭部を川底へと押し付ける。もはや「それ」としか形容できない醜悪な「もの」。それを自ら生み出してしまった。當間の意識は、穂村を沈めることそのすべてに集中していた。その存在をこうすれば打ち消せる。愚直なまでにそう信じ、狂気に己を任せていたのだった。
「君たち、そこで何をしている」
ようやく當間が自我を取り戻したのは第三者のその声であった。堤防沿いには数人のやじ馬が動向を眺めていた。いつの間にか集まった彼らが通報したのだろうか。二人の男が河原へと降りてくる。
一人は未だくすぶっている炎を消さんと、上着を何度もはためかせていた。そしてもう一人は浸水しながらも當間へと近づいてくる。
その男の服装を確認し、當間は観念した。急に手の力が抜けると同時に、水面に人間の後頭部が浮かび上がる。おだやかな流れに身を任せているそれは、やがて半面を覗かせる。醜く歪んだその顔を目にし、男は手で口を覆った。
だが、男は自らの責務を果たそうと、當間に声をかけようとする。それを遮るように、當間は打ちひしがれながら白状したのだった。
「おまわりさん。俺、人を殺しました」
それとともに、當間の頬を伝う一筋の雫。警察官であるその男はしばし呆然としてしまっていた。
職務上、世間を騒がせている通り魔事件のことは把握している。その容疑者もほぼ特定されたのだが、そいつが足元で浮かんでいるのだ。生死の判別はつかないが、生存可能性は絶望的だろう。
そして、状況的にこの男を殺ったのはこの青年に違いない。その辺の一般人が凶悪犯罪に手を染めることなど珍しくないが、當間の場合、その現場の真っただ中にいる警察官にさえも「信じられない」という想いを抱かせるほど、ありふれすぎていたのだ。抽象的観念からすれば、あまりに邪気がないというべきだろうか。
警察官がしばし己の責務を忘れてしまったのはそのせいであった。その間、反撃されて殉職という最悪の失態も起きえたのだが、當間はただ直立して涙を流すばかりであった。正気を取り戻した警察官は、ようやく當間の手首を掴むのであった。
「詳しいことは署で話を聞く。午後八時三十七分。君を暴行容疑の現行犯で逮捕する」
自らの両手にはめられた手錠を、當間は虚ろな瞳で見下ろしていた。パトカーに乗せられるまでの間、何も考えることできなかった。
この日、當間雄介はすべてを失った。