三頁 白き獣と紫の姫、そして若き店主
大きな寝台の上で、リィは目を醒ます。
キングサイズのそれは、己と相棒二人で寝そべってもまだ余りある大きさだ。
体を起こして右を見れば、懇々と眠る金髪の美少女。自分より幾分か幼いその顔は、肌が白すぎて生きているか心配になる。日に当たらないどころか外に出ない生活を送る自分達には、仕方ないことなのかもしれないけれど。
「ふ……ん。しょっと」
ひとつ大きく伸びをして、白いワンピース状のナイトドレスのまま寝台を抜け出した。相棒も纏ったそれは自分が作ったもので、着の身着のまま、戦闘向けの上着も脱がずにソファに丸まっていた出会った頃を思い出す。苦笑がこぼれた。
「あれから100年、だっけ」
図書廻廊内で月日を数えることなど無意味だ。
ありとあらゆる平行世界を納めた此処には、正確な時計もカレンダーも存在しない。ただ終焉だけは迎えないようで、壊れたものはほとんどが勝手に直るし、紛失をすることもない。
「絵本のアリスの世界って、こんな感じかしら」
一人ごちながらリィは、いつものように扉を思い描いた。想像するだけでまるで、蜃気楼のように現れた門をくぐればいつもの生活空間に辿り着く。橙色の灯りに照らされた木製の壁と本棚、並べられた『世界の縮図』たる書物。
「おはよう」
と、返らない挨拶を今日も少女は本達に送った。無意味と分かっていても、なんとなくしてしまうのだ。彼等『世界』があることで、リィとミーシャは『守護獣』として生かされている。もっと言えば、彼女と相棒の存在意義が、この書物たちなのだ。お礼も言いたくなるし、挨拶だってする。
「さてと。今日も一日がんばりましょー」
ひとつ、手を叩いてセンチメンタルな気分を切り替える。そしてリィは、慣れた様子で新たな扉をつくり、手早くシャワーを浴びてからいつもの制服姿となる。ついでにどこからかエプロンを取り出して、生活空間の壁際に用意されたキッチンスペースで朝食を用意しはじめた。
♢
「おはよう」
「おはよう、ミーシャ」
ミーシャが起きてきたのはリィが朝食を作り終える丁度そのときで、けれどそれはいつものことだ。
「今日もいい匂いで目覚めた。最高」
「よかった」
目覚まし代わりになったハムエッグとトーストをローテーブルに置きながら、リィは微笑む。
守護獣の少女は未だナイトドレスで、けれど髪が濡れていることからシャワーだけは浴びたようだ。以前は寝起きのまま、髪も乱れっぱなしで顔も洗わない彼女を共同生活二日目にして説教したのは、互いの記憶に新しい。その後の教育の賜物か、着替えをしないのは一週間に一度、シャワーを浴びない日はほとんどなくなるという好成績と相成った。
「身だしなみなんて、ケモノが気にする必要ないだろ」
と反論した守護獣に、静かな怒りを湛えたまま微笑んだリィは、
「猫だって毛づくろいするのに?ライオンだってトラだって毛並を舐めて直すわよ?」
と言い返した。そして動物図鑑やらビデオやらを見せて、そら見たことかと胸を張り言い含める彼女の熱意に負けて―――もっと言えばうんざりしてか―――守護獣は以来、きちんと身だしなみにも気を配っている。
ただ、濡れた髪は頑として放置するが。
「どんなビデオでもドライヤーを使わなかった」
と妙に「獣」であることから外れたがらない彼女に負け、リィもそこは黙認している。その代わり、
「それじゃ、食べて」
「んー」
「挨拶は?」
「……イタダキマス」
「よろしい」
淡々と、無表情で食事を始めた少女の髪を、そっと背後からリィはタオルで拭く。もちろん、相棒の食事の邪魔にならない程度、長い金髪の毛先をタオルで挟んで叩く、ようなものだが。
咀嚼中はきちんと頭頂をわしわしと拭き、概ねかわいたところで自分も食事をはじめる。
これが、毎日恒例の光景だ。
「ミーシャ」
「あ?」
大口を開けて、ハムエッグを一気に食べようとした赤い瞳の獣である少女を穏やかに見つめ、幸せそうにリィは目と口元を和ませた。
「楽しいね」
「……まーな」
そっけなく言い、フォークにつきさしたそれを口に放り咀嚼する相棒は、けれどめずらしく、にやついていた。たまに零れる、彼女の人間味のある機微に、どうしようもなくリィの胸は高鳴って、
「ミーシャ、かわいい」
「ぐふっ、う、っせ!!!」
照れが最高潮なのか、耳を真っ赤にして素早く食事を済ませたミーシャは己の皿をシンクに運び、軽く水洗いをする。これも、リィの教育の賜物だ。
「なあ、リィ」
「はい?」
からかいの余韻冷めやらず笑顔の相棒に、仕返しとばかりに不敵な笑みをわずかに湛えてミーシャは言った。
「今日は『修復』するものもなくて暇だろ。オサムのところ、言ってきてくれよ」
「……え」
その名が出た途端、ピシリ、という音が聞こえそうなほどあからさまにリィは空気を凍らせた。その硬直した肩をゆっくり近づき、軽くミーシャは叩く。
「食材とかいろいろ、調達してきてほしいんだよ。注文はもうしてあるから受け取るだけだし、な。頼むわ」
珍しいほどに饒舌に、嫌味な笑いをあからさまにミーシャが言う、オサムとはリィたちの食事、衣服等消耗品を調達するのに利用している『店』の主だ。
数ある『世界』のひとつにその店は存在していて、けれどある事情からオサムと、オサムの先代店主は『図書廻廊』の存在を知っていた。
どの世界にも一人か二人、そういう『廻廊』の存在を知る人間はいるらしい。もちろん、外部に情報を漏らさないと人柄を信用された者で、なおかつ破れば死よりもひどい目に合わせるという契約を結ぶそうだが。そこまでして外部に事情を知る者を置くのは、もちろん理由があるのだが……生憎と、リィは守護獣に成ってから日が浅いからか、詳しくは教えてもらえていない。ミーシャも「必要が生じれば教えるが、とりあえずはそういうやつらもいる、ということだけ知っておけ」と言われている。
無理して聞く必要性も興味もないので問いただしてはいないが、ある日偶然、その『協力者』の一人であるオサムに、期せずして自分は出会ってしまった。それ以来、なんのかのと理由をつけてはミーシャの御膳立てで彼と交流を持たざるを得ない日々なのだが……
「ミーシャ……私が行っても、また気まずくなるだけだと思うの」
「それはお前が逃げるからだろ」
「うっ」
「あと半端なく冷や汗かくし。涙目なるし、話しかけるだけで悲鳴あげるし」
「……そこまで、ひどく、な」
「無いか?そう断言できるか?」
「うううっ」
攻勢逆転。
それまでに類を見ないミーシャの言葉攻めにタジタジのリィが涙目で縮こまった、その時だった。
『相棒いびりも、たいがいにしなよ』
ため息交じりに休戦を促す、変声期間近な少年の声が背後の壁から聞こえた。
正確には、壁にかけられた鏡からだ。本棚と本棚の間にひっそり掛けられたそれは、其処にいないはずの第三者の胸像を映していた。ほっそりとした面立ちの、東洋人の少年だった。黒縁の眼鏡以外はこれと言って特徴のない、平凡そうな顔が今は苦渋に満ちている。
「よう、はやいなオサム」
『はやいな、じゃないよ。9時開店と同時に来てくれるって話だったのに、もうとっくに過ぎてるよ?』
「わるいな。こっちに時計なんて上等なもんはないんだ」
『……随分前に、透さんが、どの世界にもすぐに合わせられる時計を魔術で造ってあげたって聞いたけど?』
「知らんなあ」
わざとらしくそっぽを向いて口笛を吹くミーシャを眇め見て、諦め顔でまた嘆息する胸像の少年こそ、件の店主。オサムである。前述の時計然り、現在彼と彼女等の対話を可能にしている鏡然り、彼の先代店主がミーシャに寄贈した『魔道具』というらしい。魔道具ってなんだとか、先代って何者だとか、疑問が尽きないリィだが深くは立ち入れない。なぜならこの店主とリィは、まともに会話を望めない状況下にあるのだ。
『はあ……で、あの……リィさ―――』
「ひいいいっ!」
話しかけられた瞬間、ゴキブリも斯くやというすさまじい速さで後退したリィを、ミーシャとオサムはそれぞれ残念なモノを見る目で追っていて―――
「うぅ……っそんな目で、見ないでよおっ!」
「……はあ。どうにか成らんもんかね、この子の男性恐怖症は」
『だからって、ミーシャの無理矢理僕と会わせる荒治療は、逆効果だと思うよ……』
そう。
リィはたぐいまれなる美少女であり、100年間ミーシャの相棒として世界の秩序を守ってきた守護者であり、有能な『治癒者』であるが―――唯一の欠点として、異様な男性恐怖症を抱えているのだ。男嫌いと言っても過言ではない。
だからこそ安易に『協力者』を紹介できず、詳しい説明もできないというのがミーシャの言い分なのだが、それをリィは知らない。ただ、前述したように期せずしてオサムと彼女が接点を持ったことで、人間の機微に疎いながらもミーシャは思った。
(丁度いいからオサムにリィの男嫌いを治すための実験台になってもらおう)
『丁度いいとか実験台とか、何気にひどいこと言うよね、お前って』
知ってたけど、と何度目か分からない嘆息をしつつ眼鏡を拭く『協力者』を、ミーシャは一笑に付した。
「いいだろ、お前にとってもあいつは、いい薬だしな」
その言葉に少年は、つい反らしていた目線を少女に向けてしまう。
革のソファの陰に隠れて、こちらを涙目で伺い見ている白人の少女。髪で隠した右の顔は決して見せたことはなく、けれど片目だけでも十分に伝わる、自分への拒絶と恐怖の意志。
そしてそれは、自分にも在る感情だ。とてもよく似た、現象だ。
『……まあ、乗りかかった船というか。商売相手ですし?付き合いますけど』
外していた眼鏡をかけ、ようやく渋面に笑みを混ぜたことが奏したのか、少しずつ、にじり寄ってくる少女に精一杯やわらかく微笑む。だが、
「ひっ」
形無しとばかりに脱兎のごとく元の位置に戻る様に、けれど不思議と不快感はない。
だから、
『とりあえず、品物取りに来てよ、彼女と二人で。そのあとお茶でも飲んでいけばいい。今日は休業にするからさ』
なんて、店主としてあるまじき戯言を吐いてしまうのだ。
それを聞いて、まず楽しそうに「酒も頼むわ」と嘯く金髪の少女。そして、つられるように、魅せられたようにそっと、顔を出して、菫色の髪の少女が顔を真っ赤にしたまま、
「お茶…………てつだい、ます」
と懸命に言ったことで、ついに店主と獣は破願した。