二頁 世界の縮図への考察と検証。
ひらり、はらり。
舞い散るは紙片。大小様々、あるいは粉状のものまである。
『世界の欠片』。本来、欠落してはならないもの。
離散する理由は様々だ。時代の変遷、政権交代。それに依る大きな『世界』の変革。
国の名前や区分が変わるのはもとより、戦争によって尋常でない数の命が散った時、世界は泣く。嘆く。
その悲鳴は自分の枠である『本』の形骸にも変革を及ぼした。
それが、今もなお雪のように『図書廻廊』の中を舞う紙片たち。
ぐるり、壁を取り囲むようにして無数に並べられた書物たちは全て『世界』の記録書だ。
それを、愛おしむような眼差しで見上げる少女が一人いる。
否。彼女は人ではない。
「守護獣殿」
かつり、靴音が廻廊内に響いた。
硬質なブーツは軍隊が履くもので、金属がぶつかり合う音は銃弾を詰め直すそれ。硝煙と煙草の臭いは、悲しいことに彼女の慣れ親しんだ物。本人は悲しいとは、特に思っていないけれど。
「一冊、世界を請け負いに来た」
「……無粋な奴」
堂々と述べるくせいまいち滑舌の悪い背後の侵入者へ振り向きもせず、守護獣は嘆息する。
「せっかく、奇麗な『崩壊』をしているのに」
金の前髪で顔が隠れるほど俯いて、真似るようにぼそぼそと非難した。
「何のことだ―――っが」
苛立って訝しんで、煙草を吐き捨てながら問うた背後の男に、回し蹴りを見舞いながら少女は哂った。
「お前の欲しい『世界』が、終わるってことさ」
勢いよく背後の本棚に突っ込んで、書物をまき散らしながら倒れた男を観察する。纏った防弾チョッキと迷彩柄の上着、それがまくられむき出しの腕には『Plunderer(略奪者)』の入れ墨。
「……自首?」
ぼそり、と呟けば、血を吐きながら男は立ち上がり、吠えた。
「俺の、組織の名だっ。イタリア一の巨大マフィアの幹部、それが、俺だ」
「だから」
「先日、此処に向かわせた偵察が帰還した。死んで帰ると思いきや、怪我の一つもない。けれど『図書廻廊』のことになると、ガタガタ震えて『もう二度と関わりたくない』、『お前も関わるな』って騒ぎやがる。腹が立って嬲り殺してやったが―――」
一気にまくしたてるようにして言い放った男が、口元を歪に曲げて目を見開いた。
「気付いた。あの男、傭兵時代に壊したとかいう足が治ってやがった」
「……だから?」
「お前に関わることで、いや、この場所か?ここに来ること自体に大きな意味があるんじゃないか?本来在ってはならぬ、無いとされた存在……『図書廻廊』に関わることで、関わった者自体も摂理から外れる。たとえば、傷を負った足をお前に撃たれ、此処で害され欠損した場合……それは記録されえぬことだ。お前が負わせたであろう傷は、もといた世界に帰り、記録される立場に戻ったときに治癒されるんだ。最高のコンディションに、リセットされる」
「……」
守護獣は、答えない。
男はそれを意に返さず、自分に酔っているような表情で語り続ける。
「お前はここで俺等のような侵入者を排除するのが仕事らしいが、それは完全な『死』をもたらすものではないのだろう?それは『記録されぬ存在』、アンノウンであるお前にはできないことだからだ。でなければ、お前に殺された際の記録に齟齬が生まれる。『Aは殺された。加害者は不明』それは世界の縮図としちゃあ、間抜けな字面だなあ?」
ケハハ、と高笑いをする男の目は、真理を解いた哲学者のように輝いている。それは貪欲な、捕食者の眼でもあった。
「此処までこの場所のからくりに気付いた侵入者はいたかねえ?功労者に景品はないんですけえ?御嬢さん」
「話は、仕舞か」
「は?」
「なら、殺して構わんな」
下卑た笑顔で紳士の礼を取りながら、上目遣いに己を見た男に守護獣は。相変わらずぼそぼそと、死刑宣告をした。
「へ……」
ごり、と額に押し付けられた銃口。
眼にもとまらぬ、止め得ぬ速さはまさに神速。
男の額に、汗がにじむ。
此処の核、真理とも言えるからくりに気付いた自分に、何等かの畏怖を相手が持つと踏んでいた。その隙を狙って『本』を奪おうとしたのだが……。
「まあ、いい」
へらり、と男は哂った。
「俺は、結局これが狙いだった」
「……何?」
「俺は、脳に腫瘍がある」
突然の告白にも、守護獣は柳眉を動かしもしない。人形のような奴だなと、少女を見上げながら男は苦笑する。
「だから長生きできないって、餓鬼の頃から言われてた。長生きできないなら無茶してやろうって、14のころからマフィアの世界に飛び込んで……死ぬと思った局面も意外と乗り切れて、気付いたら大組織の大幹部様よ」
ガキ大将のごっこ遊びから始まったグループがいつしか、怪しい薬物や禁酒、賭博を元手に強大な力となっていた。
「なあ、人間の欲が尽きねえってのは本当だな。ある程度の性も欲も満たした俺は、思っちまった。『生きたい』ってな」
煙草、吸っていいか。
戯れに問うてみれば、意外にあっさりと頷かれた。けれど銃口は逸れないので、律儀なのか何なのかと、苦笑が深まる。かわいいなとすら、思えた。相手は己の固執した『命』を狩ろうとする、死神であるはずなのに。
「さっきの俺の理論で言えばさ、お前に今撃たれて殺されて、んで、多分朝ふつーに自室で目覚める。その時俺の『死』を無効化するために、作り直された俺の脳みそに……きっと忌々しい腫瘍はない」
ケハ、とまた特徴的に笑う。脳腫瘍の障害で口が歪んでまともに動かせないからだと、相手は気付いているんだろうか。だから揶揄するように真似て、ぼそぼそと喋るのだろうか。
「だから、いいんだ。俺の勝ちだ」
「……そうか」
間を置かず、銃は弾を放つ。額に風穴を開けて後ろに倒れた男は、それでも愉快そうに歪に、口元を曲げていた。
その亡骸に、相変わらずの無表情で守護獣の少女は言う。
「ごめんな」
やはり、ぼそぼそとした口調で。
「お前の推論は間違ってる。あたしが殺したところでお前の病も、こないだの男の怪我も治らねえんだよ」
金の髪をかきあげながら、仰ぎ見た頭上からはやはり紙片が降ってくる。その数は増していて、苛立ちに舌を打った。紙片を辿った少女の視線は、それらが吸いこまれるように導かれる、透明な器を見やる。
金魚鉢のような形のそれに、うっすら山ができる程度に収められた紙片。粉状のそれも入っている、まさしく吸引力を持つ特別なものだ。
「ああやって、世界は崩れる。『崩壊』する。お前らの生きる時代の波は、防波堤の『世界』そのものにすらヒビをいれる……咎めや、しねえけど」
言いつつ、器に手を突っ込んで探り、拾い上げたのは一枚の紙片。書かれた文字は虫のように蠢いて、守護獣が求める記録を映し出す。
「『ディック=エルドー27歳が同僚と酒の席で喧嘩をしたのち、右足に歩行障害をきたすほどの怪我を負う。』こうやって剥がれ落ちた記録は世界からなかったことになる。だからあの男の足が一時的に治っただけ。治らなかったはずの病気が『奇跡で治った』とか、お前ら人間は時たま騒ぐだろ?それだ」
「でも、すぐに再発する。消えたと思ったガンがどこかに転移していたり、不随の身体が動いたと思っても一瞬だったり。それでも治るとしたら、それは本人たちの努力や運よ。廻廊のおかげじゃないわ」
守護獣の独白に続けたのは、紫髪の少女。塔の上へと続く螺旋階段を下ってきている。少女は抱えた本を見せ、守護獣に「あったよ」と微笑んだ。
「……ああ。『修復』、頼むよ」
「はーい」
金髪の相棒が立つ階層に降り立った少女は、器の置かれた文机に座って『本』を開く。ピンセットで剥がれ落ちた頁と紙片をくっつけると、文字たちが自律的に蠢き絡み合い、齟齬を治していく。
「お見事。的確に頁と破れた個所を見極めて無理なく定着させる、『修復者』の仕事はあんたにしかできないわ、やっぱ」
「あは、だってミーシャの役に立てるんだもん。頑張って上達もするわよ」
あけすけに笑って、得意げに目を細めながらも手を止めない、速度も落ちぬ手並みは鮮やかだ。
「それに、100年も同じことをしていれば慣れるって」
「……そうかい」
文机の横に凭れ、少女の髪を守護獣は一房もてあそぶ。そのままにさせながら、相棒に少女は問うた。
「さっきの男、一週間くらい前に『イタリア』取ろうとした奴の仲間だったんだって?」
「……らしいな」
呟き、目線を動かせば男の死体は無く。壊れた本棚は綺麗に直っていて、本だけが散らばったままだ。
「片づけなきゃ」
言って、向かおうとした守護獣の手を素早く少女が握る。そして素早くその手から紙片を抜き取った。
「ダメだよ、ミーシャ。お痛も過ぎれば、神様に怒られるわ」
「……」
俯く守護獣の顔を、変わらぬ慈母の笑みを浮かべたまま、しかし鋭い眼線で少女は見上げていた。紙を転と裏返し、先日の侵入者の、脚の怪我に関する記述の裏頁を読み上げる。
「『アルフ=テッド幼少期より脳に腫瘍を患う。口角筋肉に慢性的な痙攣を及ぼすそれは―――』だって。書かれた記録は、あたしたちが認識するものを浮かび上がらせる。普通の人間は『本』自体から自分の認知する知識をくみ上げることしかできないけれど、守護者であるあたしとミーシャは、紙片に望んだ情報を転移させることもできる」
守護獣は、答えない。
「でも。その欠片を処分したところで、あの男の病は治っても、それだけこの『本』の崩壊が進むだけだよ?どっかの誰かが流したせいで、最近いろんな世界で此処の情報が漏れている。その情報に釣られてくる侵入者から、貴女はこの塔を守らなきゃいけない。世界の縮図と呼ばれる、この廻廊を。なのに規律である貴女がそれを犯してどうするの」
守護獣は、答えない。金髪の向こうに隠した表情は見えねど、長き付き合いから少女には相棒が拗ねているのが分かる。
だから、つとめて明るく言った。
「なあんて、堅苦しいことは言ってみるけど。敵に同情しちゃうミーシャの優しさも、あたしは大好きだよ。でも、それで神様にミーシャが罰を受けるほうが、嫌だからさ」
抜き取った紙片を器に収め、その白い頬を両手で挟んで目線を合わせる。
無表情のくせ、彼女の赤い瞳は拗ねたのがありありと分かる捻くれた光を宿し、つい、少女は吹き出した。
「……優しくなんてねえ、よ。あたしは、ケモノだ」
「じゃあ、可愛い子猫ちゃんね」
「うっせえ」
ふん、と大きく鼻を鳴らし、ミーシャは相棒の手を払った。
「忠告は、受け取る。リィが嫌がるなら、もう、しない」
ぼそりと呟き、崩れた本棚の片づけに取り掛かる、その背中を見届けながら少女は、紫色の髪を揺らしてくすくすと笑う。その笑みは、陽向で咲く野花のようなあたたかさだった。