約束
「おーい」
声がする。体がゆすぶられている。
「なんだ?」
目を開けると、すぐそばにアレクの顔があった。
一瞬見つめあう。大きな青い瞳、高い鼻梁、金色の髪、もしかすると女の子かもしれないルームメイト。俺は次の瞬間、アレクから距離を取ろうとして飛び起き、壁に頭をぶつけた。
「いたたた」
「おどかしてごめん。圭がなかなか起きないから」
「いや、いいんだ。ありがとう」
「急がないと、ご飯食べられないね」
時計を見ると七時半をとうに過ぎている。食堂は八時までだ。これは寝すぎた。
「すぐに着替える。出ていてくれ」
「わかった」
アレクが俺のスペースから出てカーテンを引いた。こういう時にアレクが最初に決めたルールが役に立つ。俺は手早く着替えた。
顔を洗うのもそこそこに、アレクと食堂に駆け込んだ。
「おばちゃん、二人分」
「はいよ」
係のおばさんが焼き魚とおひたしと海苔と卵の載ったトレイを二つ出してくれる。それから、みそ汁とご飯を手渡された。
「お前ら、遅いな」
座席に移動する途中で宮田が食器を返しに行くのとすれ違う。
「ああ、ちょっと寝坊してな」
「そんな感じだな。まだ眠たそうだぞ、お前」
宮田はそう言って歩き去った。俺はテーブルにトレイを置くと頬を平手で張ってみる。これで少しはましになっただろうか。
アレクと向かい合って椅子に座る。
卵をかき混ぜてご飯にかけ、海苔を乗せてかきこんで、その合間に焼き魚をかじる。
「そんなにあわてなくても、大丈夫ね」
「あわててるわけじゃ」
そうは言いつつも、いつもより遅いというのが気を焦らせる。そこに喉に何かが引っかかった感覚がした。
「ん、あ」
「圭、どうした?」
「魚の骨が、喉に引っかかったみたいだ」
「ご飯の塊を飲みこむといいね」
アレクがずいぶんと日本的な知識をアドバイスしてくる。ご飯の一口大の塊を鵜呑みにしたら解消した。
「うまくとれたみたいだ。ありがとう」
「よかった。取れないとお医者さんに診てもらわないといけないね」
「詳しいな」
「取ってもらったことあるね」
「そうなのか」
どこの国でだろう。俺はそんなことを考えながら、残りの魚を気をつけてかじった。
アレクが食べ終わるのを待ってから、食器を返す。八時を過ぎていた。遅刻になるのは八時四十五分のホームルーム開始に送れた時だからまだ間はあるが、その前の八時二十分には教室に入って自習をしていないといけないことになっている。登校に五分かからないとはいえ、気が急く。
仕度を整えて、部屋を出ようとするが、アレクがまだのんびりしている。
「もう行くぞ」
「どうしたの、そんなにあわてて。まだ、大丈夫よ」
そう言われて、椅子に座った。気が急く理由は時間ばかりではないことに自分で気がついていた。アレクがお姫様かもしれないと考えてしまうことから逃げようとしているのだ。うっかり、腰を落ち着けると、そればかり考えてしまう。
「おまたせ」
「よし、行くぞ」
部屋を出て、玄関で寮監と挨拶を交わす。徒歩数分で教室に着いた。
「ほら、ぴったり」
アレクの得意気な声に時計をみると八時二十分だった。
「ぎりぎりだな」
前の席の宮田が振り返って笑う。
「ほっとけ」
「お前、まだ眠たそうだな」
「そうか?」
確かにどこか頭の中がぼんやりしている。
一限目の数学の教科書を取り出して、予習を始めた。余計なことを考えないように、隣の席のことを気にしないように問題に集中する。
あらかた今日の分の問題を解いたところで工藤先生が来た。ホームルームが始まる。連絡事項は二点。不審者には気をつけるようにという話と、小論文コンクールの募集のお知らせ。ホームルームが終わると、そのまま授業になった。
工藤先生は物理である。俺はそこで初めて時間割を間違えていたことに気がついた。
「今日は木曜日か!」
「何曜日だと思った? さっきから数学をしているから変だと思った」
アレクがくすくすと笑った。
「何だ、どうした? 水垣」
工藤先生がよく通る声できいてくる。
「教科書忘れました」
「仕方ないな、隣に見せてもらえ」
俺はルーズリーフを二枚ほど取り出すと、アレクに声をかけた。
「教科書見せてくれ」
「いいよ」
机をくっつける。机がぶつかった拍子に俺の消しゴムが床に落ちた。椅子に座ったままかがんで消しゴムに手を伸ばす。
「大丈夫かい?」
「大丈夫だ」
しかし、アレクの脚が近い。つい、意識してしまう。アレクの脚を迂回して消しゴムをつかんだ瞬間、バランスが崩れた。
盛大な音を立てて、俺は椅子ごと床に倒れ込んだ。
「何をしとるんだ、お前は」
工藤先生がやってきてあきれ顔で言った。
「すみません」
俺は立ちあがって頭を下げ、椅子にすわりなおした。
一限目を何とかやり過ごすと、俺は鞄を持って寮に走って戻り、改めて木曜日の時間割を入れ直して、教室に取って返した。
教室の前で命が待っていた。
「なにがあったんですか?」
じっと俺の顔を見つめて言う。
「なにもありません」
俺は目をそらした。
「そうですか」
命はそう答えた後、つけ加えた。
「放課後、うちに来てください」
「わかりました」
俺は教室に入った。
授業は眠気との戦いだった。起きていようと頑張っていても、気がつくと机に頭をぶつけそうになっている。
特に昼食後はひどかった。机に完全に突っ伏してしまっても目が覚めず、数学の先生に耳を引っ張られて起きるという失態を演じた。
ようやくその日の授業が終わった時には俺はぐったりと疲れ切っていた。
まだ夏の暑さが残る午後の空気の中をゆっくりと寮に戻り、鞄を置いてベッドに倒れ込んで全身を伸ばした。それから、おもむろに起き上がって部屋を出ようとする。
「どこにいく?」
アレクが問いかける。
「有久保邸だ。命に呼ばれたんだ」
「なら、私も行くね」
「お前は呼ばれてないぞ」
「いいの、いいの」
アレクはやはり命に対しては気易い。女性かどうかはさておき、長い付き合いというのは間違いないのかもしれない。
寮を出て坂を下り、有久保邸の玄関に着いた。
玄関ホールのソファーに座っていた命が立ちあがった。アレクを見てちょっと困った顔をしたが何も文句はいわなかった。
「少し海岸でも歩きませんか?」
そう言って先に立って歩きはじめる。俺は後に続いた。アレクがついてくる。
廊下を二回曲がって、外に出る。風が吹きつけてきた。海の匂いがする。コンクリート製の壁の隙間から木製の階段を下りた。波が打ち寄せる音が響く。
波打ち際に立つ。海水が靴の先を洗った。
「何を知っているのですか?」
命がすぐ横に立って尋ねてきた。
「あなたが、昨日立ち聞きしていたという話は川田から聞きました」
「いや、その、別に……」
「正直に言ってください。今日のあなたの様子は変です」
そこまで言うのならと、俺は命を見て言った。
「あなたが上山隆のラジオに投稿しているという話を聞きました」
命が驚いた顔になった。
「ファンなのですか?」
「いえ、あの、……そうです」
命は少しうろたえた後で認めた。命のうろたえる姿は初めてだ。普段が年齢より落ち着いて見えるだけに、なんだか可愛い。
「ということは、アニメなども見るんですか?」
上山隆は主にアニメで活躍している。上山隆ファンで、アニメを見ていないとは言わせない。
「……そうです」
命は素直に認めた。
「なぜ、俺とアレクがアニメの話をしていると距離を取ったのですか?」
最初にアレクに会ったときにアレクがアニメの話をしだしたら、逃げるように去って行ったことを俺は忘れていない。
「その、私にもイメージというものがあるので、アニメを見ているなどと知られるわけにはいかなかったのです」
要は隠れファンということか。お嬢様をするにも何かと気苦労があるようだ。
「それだけですか?」
命が態勢を立て直して問いかけてきた。
「それだけのはずはありませんよね。今日のあなたの行動がおかしかったことは私ではなくてアレクに関してのことのように見えました」
「えーと、アレクも『かみはなラジオ』に投稿しているという話を聞きました」
俺はかまをかけてみた。
「そうですか」
あっさり命はアレクが投稿したラジオが『かみはなラジオ』であることを認めた。
「一昨日更新されたラジオで投稿が読まれたんですよね」
「はい」
命は一昨日のラジオでアレクの投稿が採用されたことも認めた。これでアレクが「花柄電気ポット」であることは確定だ。そしてそれはアレクが女性であることを意味する。
「それでどうして、今日のあなたはアレクに対して変だったのですか?」
命は重ねて尋ねてくる。自分の返答が証拠になってしまったことには気づいていないらしい。
俺は言い淀んだ。どう切り出したらいいだろう。もしアレクがあの方だったとして、そこに隠されている秘密とはなんだろう。俺が踏み込んでいいものなのだろうか。
尋ねてみることにした。
「その前に、一つ聞いてもいいですか?」
「なんでしょう」
「ルウデナ様は電気ポットはお好きですか?」
「え?」
「冬場に抱きかかえて暖をとるくらいに」
「え、ええ」
うなずきながら、命の表情が変わった。どうやら俺の推測は当たりらしい。
アレクはルウデナ姫だ。
高速回転するモーターの音がどこからか聞こえてきた。俺は左右を見た。
南北にのびる狭いビーチの両側はごつごつとした岩場になっている。その北側から音は聞こえてきた。
北側の、岬の先端を回ってくる影がある。小型のモーターボートだ。一気に海岸沿いに南下して、こっちに近づいてくる。
「ふせて!」
命が叫んだ。
俺は少し離れた場所で波と戯れていたアレクに飛びついて押し倒した。
「圭?」
アレクが驚いて俺の顔を見る。
空気を切り裂く音がしたかと思うと、乾いた音を立てて、俺たちの体のそばで砂が跳ね上がった。銃撃だ。
モーターボートはビーチの南端まで行ってターンをした。さらに北側からもう一隻モーターボートが現れる。
頭上で射撃音がしてボートの周りで水しぶきが上がった。上を見上げるとコンクリート壁の上で男たちがライフルを構えるのが見えた。応戦してくれているようだ。
これが、この前の襲撃の続きだとしたら、狙いは俺だ。
「アレク、いや、ルウデナ様。そこの陰に隠れててください」
俺はそばのベンチのような形のコンクリートを指した。ルウデナ姫は俺の言葉に驚いた顔をしたが、素直にうなずく。
俺は立って、砂浜を北に向かって走った。
断わっておくが、格好をつけたくなったからではない。恐怖ももちろん感じていた。ただ、この人を巻き込みたくないと思った。それだけのことである。
向ってくるモーターボートに三人乗っているのが見えた。一人が操縦して、二人が銃を構えている。
弾丸が足元に数発連続して着弾する。
波のせいで狙いが定まっていないらしい。全然違うところでも砂が跳ねる。
モーターボートが俺の横で交差した。一瞬銃撃がやむ。
俺は向きを変えて走って、ルウデナ姫に指したのとは別のコンクリートのベンチの陰に飛び込んだ。
弾丸がコンクリートにぶつかる音がする。
振り返ると、ルウデナ姫と命が一緒にさっき俺が示したコンクリートベンチの後ろに隠れているのが見える。無事のようだ。
二隻のボートはやみくもに動き回りながら銃撃してきた。俺はひたすら体を低くして弾丸をかわす。
そのうち一隻のボートのモーター音が止んで、何か大きなものが海岸に打ち上げられる音がした。バシャバシャと水音が聞こえてきた。ベンチの下でも空いていれば向こうが見えるが、このベンチは盾のようになっていて、向こうが見えない。
もう一隻のボートは動き回っていて盛んに撃って来ている。しかし、こちらの方には着弾してこない。頭上のコンクリート壁に当たる音がする。どうやら、上からの銃撃をけん制しているようだ。
コンクリートのベンチの向こうで複数の足音がした。一隻のボートから襲撃犯たちが降りてこのベンチの向こうに来たらしい。万事休すかと俺は覚悟を決めた。
その時だった。後方から腹の底に響くような銃声がした。俺の頭の上で「ぐあっ」という声がして砂の上に倒れ込む音がする。見ると木製の階段の下で坂崎さんが銃を構えていた。続けてもう一発発射。ベンチの向こうでまた人の倒れ込む音がした。
坂崎さんがボートからの銃撃をかわしながら俺のそばまで走ってきた。
「進んで囮なろうとは、なかなかやるじゃないか、水垣君」
俺の頭をぽんぽんと叩く。
さらに五人ほどが階段の下から次々に別々のコンクリートベンチのところに走りこんでくる。
全員の配置が終わったところで坂崎さんが手で指示を出した。モーターボートがターンした瞬間を狙って全員が小銃を乱射する。
ボートがこちらに向きを変えたようだ。モーター音がまっすぐ突っ込んでくる。砂に何かが乗り上げた。
坂崎さんの合図で部下達が立ちあがって、走り出す。坂崎さんも立ちあがって出て行った。
しばらくして、坂崎さんの声がした。
「もう大丈夫だ。水垣君」
立ちあがって見るとボートが二隻砂浜に乗り上げていて、そのそばには三人の男が取り押さえられていた。また、俺がいるコンクリートベンチのそばには男が二人倒れていた。どちらも右肩から血を流している。
十人ほどがビーチに集まってきた。襲撃犯の五人を拘束する。
「水垣さん、屋敷に入りましょう」
いつの間にか隣に命が立っていた。
「すみません、お嬢さん。また遅れをとりました」
坂崎さんが命に謝る。
「いえ、相手が銃器を使用したのにもかかわらず、迅速な対処をしていただきました。感謝します。しかし、彼らはどうして私たちがビーチにいると知ったのでしょう」
命の問いに坂崎さんは樹々の向こうに見える山を指した。
「あの辺にもう一人いるのでしょうな。県警に山狩りを要請するつもりです」
「お願いします」
そう言うと命は歩き出した。俺は坂崎さんに頭を下げると後に続いた。
アレクの格好のルウデナ姫が砂を跳ね上げながら駆け寄ってくる。俺のそばに立つと、俺の目を見て微笑む。
「分かっちゃったんだね」
「はい」
「さっきはありがとう。かばってくれたんでしょ」
「狙われているのは俺ですから」
「いつもどおりに話して。丁寧語いらないよ」
ルウデナ姫は流暢な日本語で言った。
俺たちは並んで木製の階段を上がった。上で麗さんが出迎えてくれる。
「よくぞ、ご無事で」
「申し訳ありません、お姉様。私がついておりながら二人を危険な目にあわせまして」
「いえ、敵の作戦が図に当たったということでしょう。あなたのせいではありません」
妹に優しい声をかけた麗さんは、俺の方を向いて少し厳しい声を出した。
「囮になったそうですね」
「あ、はい」
「無茶なことをなさって、銃撃が当たっていたらどうするつもりだったのですか」
「死ぬかもしれないとは思いました」
「それでいいのですか?」
「自分のことですから、それも仕方ないと思いました」
偽らざる気持ちだった。自分のことは自分で引き受ける。他人が死ぬことだけは耐えられない。そういうふうに、あの瞬間、思えたのだ。
ルウデナ姫が割り込んできた。
「圭は、私をかばってくれたんです。私、正体ばれちゃいました」
明るく笑うルウデナ姫に、麗さんはため息をついた。
「そうでしたか。とりあえず、中にお入りください」
俺たちは喫茶室に通された。四人で冷たいジュースを飲む。だいぶのどが渇いていたみたいで、俺は一気に飲み干してしまった。
アレクの格好のルウデナ姫はずっと、そんな俺を見てにこにことしていた。
十数分ほどして警察車両が有久保邸の前を埋めた。俺と命とアレクは再びビーチに出て、襲撃の状況を再現した。
今回も坂崎さんが、強盗団が海から侵入しようとして見つかったので銃を乱射してきたというストーリーを作り上げ、俺たちはそれに沿って証言をした。
夕方になって俺たちは解放され、県警は引き揚げていった。
麗さんは県警が帰ると、俺に喫茶室で待っているように言った。
紅茶を飲みながら一人で待っていると、メイドがやってきた。
「水垣様、お待たせいたしました。こちらにおいで下さい」
そう言われて、二階へと案内された。二階に上がるのは初めてだ。大きな石造りの階段を上がって左に曲がり二番目の扉をメイドがノックする。
「どうぞ」
中から聞こえてきたのはソフィアさんの声だ。
メイドがドアを開けてくれた。中に入る。
広い部屋だった。部屋のまん中には白い天蓋付きのベッド、向こうの壁沿いには白いドレッサー、それから大きな液晶テレビがあり、廊下側の壁際には白い机がある。
こちら側の壁際には大きな本棚があり、その前にピンクのブラウスにグレーのスカート姿のソフィアさんと白いドレスを着た金髪のルウデナ姫がいた。
「ようこそ、圭君」
ソフィアさんが歓迎してくれる。
メイドが俺の後ろでドアを閉じた。
ルウデナ姫が金髪に手をやった。何かの外れる小さな音がして、金髪が取れる。下から銀色の髪が見えた。ソフィアさんが金髪を受け取ると、ルウデナ姫は頭のてっぺんで何かにさわる。首を振ると銀色の髪が流れ落ちた。
大きな青い瞳が俺を見つめる。白い肌が窓から流れ込む夕方の光のせいか赤く染まっていた。銀の髪は胸を隠すほどの長さがあり、一本一本がキラキラと輝いている。まるで、何かの絵で見た女神のようだと俺は思った。
「これが、私の本当の姿だよ」
ルウデナ姫が少しふざけた感じで言った。俺は言葉が出なかった。
「あの、どうかな?」
ルウデナ姫が不安そうになる。
「綺麗です」
俺は絞り出すように言った。そして言いなおす。
「いや、お綺麗です。ルウデナ様」
「ありがとう」
ルウデナ姫は、嬉しそうにそう言ってから首を振った。
「さっきもいったけど、敬語や丁寧語はいらないからね。アレクの時と同じように話しかけて。それから『様』は止めて。ルウデナと呼んでほしいな」
「あの、じゃあ、ルウデナ……」
「はい」
じっと俺を見つめながら、ルウデナがそばに寄ってくる。
「あの、私がルウデナでがっかりしなかった?」
そう言いながら首をかしげる。その仕草も可憐だ。
「そんなことないよ。こんな綺麗なお姫様だとは思わなかった」
素直な感想だ。こういうときにすんなり素直になれる自分の性格に感謝する。
「どういう感じだと思ってたの?」
「もっと幼い感じかな。写真で見た感じでは」
「写真?」
「これかしら?」
ソフィアさんがポケットから一枚の写真を取り出した。この人はいつもこの写真を持ち歩いているのだろうか。
「あ、これ私が十二歳の時の写真だ」
道理で幼いわけである。
「ソフィア、これはどういうこと?」
ルウデナが口を尖らせて抗議する。
「申し訳ありません。殿方というのは相手が幼いくらいの方がその気になるものかと思いまして」
「そう言うものなの?」
ルウデナが俺の方を見る。
「いや、それはどうかな」
「この写真を見てここに来る気になった?」
「まあ、そうかも」
ルウデナの表情が険しくなる。俺はあわてて言った。
「でも、今のルウデナの方がいいよ。すごく素敵だ」
ルウデナはにっこりと笑った。
「ありがとう、圭」
「どうして男の格好をしていたんだ?」
一番の疑問を質問してみる。
「昔からなのよ」
ルウデナは肩をすくめて答えた。
「私は昔から、表に出る時はアレクセイ・モロトフになっていたの」
「それはなぜ?」
「私が狙われているから」
ルウデナの顔がきびしくなった。ソフィアさんが話を引き取る。
「元々ルウデナ様のご両親はアメリカで暮らしておりました。ところが十八年前、ルウデナ様のお父様は自動車事故で私の両親とともに亡くなりました。その後の調べで、事故は車に細工をされたことによるものと分かったのです」
ルウデナがうつむく。俺は遠慮がちにきいてみた。
「暗殺ですか?」
「そうです。行き場をなくしたルウデナ様のお母様を有久保家が引き取ってくださり、私たちは日本に来ました。そしてルウデナ様がお産まれになったのですが、追手は日本にも延びてきました。あるとき届けられた包みが爆発する事件が起き、その事件で傷を負われてルウデナ様のお母様も亡くなられたのです」
「そんなことが……」
俺はルウデナを見た。この小さな体でそんな過酷な人生を生きてきたのか。
「ルウデナも命を狙われていると?」
「そうです。それで、襲撃を受けたときに相手の目を欺くため、ルウデナ様には性別すら違う別人になっていただくことにしたのです」
「そうだったのですか」
この変装は成功していたといっていいだろう。俺が来てからの二度の襲撃で敵は俺を狙っても、アレクの格好をしたルウデナは襲わなかった。
「ところで、なぜロシア人に?」
「パントネーラは、以前はソ連の支配下にあり、軍事政権となった現在でもロシアの影響を受けています。ですから、ロシア語はパントネーラの第二公用語とも言える状況です。私たちは、ルウデナ様にパントネーラ語のほかにロシア語をお教えしてきました。それで、ロシア人のふりが一番自然に出来るだろうと考えたのです」
「アメリカ人のふりは? 英語も得意のようですけど?」
「英語を始めたのは十二歳になってからだから、最近なの」
ルウデナが自分で答える。
「この変装のことはみんな知っているのか?」
「知っているのはソフィアと独と麗と命、それからお医者さんと看護師さんだけかしら。あと、執事やメイドたちは、気がついているかもしれないわ」
「坂崎さん達は」
「知らないはずよ」
一番知っていなくてならないはずの警護役を騙しているとは大胆なことだ。
「それはまずくないのか?」
「しかたないの。もし彼らが知っていたら、私が高校に行くなんてこと認めなかっただろうし」
そうだ。そこもききたかった。
「高校に転校してきたのは、五月なんだよな。それって、俺の遺伝子検査の結果がわかってからのことなのか?」
「そうだよ」
ルウデナが嬉々として答える。
「圭がその人だってわかって、織幡学園に迎え入れる準備が始まった時に、私、自分の目で見てみたいと言ったの。どんな人かすごく興味があったから」
「それで寮に部屋をつくってもらって転入したのか」
「うーん、寮に入ったのは私のアイディアじゃないわ」
ソフィアさんの方に目をやる。
「私です。『相手を知りたかったら、一緒に暮らすのが一番です』と言いました」
この人だったか。相変わらず突拍子もないことを言い出す人だ。大事な自分の国のお姫様を男と同じ部屋に入れるなんて危険と思わないのだろうか。
「男と同じ部屋って、何かあったらどうするんですか?」
「ん、大丈夫です。その頃には圭君はそんなことできる人じゃないって報告は来てましたから」
喜んでいいのか怒るべきなのか迷う話だ。
「命は反対したんだけどね。麗さんが賛成してくれて、あの部屋が出来たの」
麗さんもだったか。あの人もやはりとんでもない人だ。
「部屋が出来てルウデナ様が入られてからも、命は反対してましたね」
「自分の目で見て納得できなければ、圭を他の部屋に入れるといってたものね」
俺は学校帰りにいきなり喫茶店に連れ込まれたことを思い出した。あのときの「合格」という言葉はそういうことだったのか。
「質問はもうよろしいですか?」
ソフィアさんが丁寧に俺に尋ねた。
「あ、はい」
俺の言葉にうなずいてからルウデナに頭を下げた。
「では、先に下に下りております」
「わかった」
ソフィアさんが一人でドアを開けて外に出る。閉じかけたドアから顔をのぞかせてにやりとしながら言った。
「キスしてもいいですけど、その先はダメですよ。皆待ってますから」
ドアが閉じた。
俺たちはしばらく黙って向かい合っていた。
ソフィアさんの去り際の一言が気まずい空気をつくっている。とにかく何か言って、この空気をなんとかしたい。
「あ、あのさ。ルウデナが体弱いって言うのは本当か?」
まあ、無難な質問だろう。これなら会話が期待できるはずだ。
「……、あれね。嘘なの」
「じゃあ、あの看護師さんは?」
「あれはね。女物の洗濯物とかを運んでもらっていたの」
ちょっと微妙な方向に曲がりかかっているが、会話になっている。
「診察にこの屋敷に来ていたのは?」
方向を修正してみる。
「あれは、定期健診。私の体に何かあったらいけないから、毎週健康状態をチェックしてもらってるの。麗さんや命も受けてるよ」
お嬢様たちやお姫様の診察を毎週出来るなんてなかなかうらやましい医者だ。けしからん、あやかりたいくらいだ。
「あ、圭。今、変な想像したでしょ」
鋭い指摘を受けてはっとする。
「男の子ってこれだから」
ルウデナの冷たい視線が痛い。せっかく弾みかけた会話を台無しにしてしまい、俺は身を縮めた。
「でも、ね。それでもいいの」
意外な言葉に顔を上げる。ルウデナは微笑んでいた。
「それでいいって、どういう意味だ?」
「私はあなたを選ぶことにしたの」
俺を選ぶ。それはどういうことだろう。この美しい瞳のお姫様は何を選んだというのだろうか。
「選ぶって、もしかして俺を……」
「そう、結婚相手に決めたの」
俺はぼう然とした。確かに結婚相手としてここに連れて来られた訳だが、資質を見極めるという条件付きのはずだ。何をどう見極められたというのか。
「俺が? どうして?」
ルウデナは俺の問いに笑顔で答えた。
「あなたは私のために弾丸の飛び交う中を走ってくれたわ」
「いや、あれはあなたを俺のことで巻き込みたくなくて……」
「それで十分よ。あなたが私のためにしてくれたことに変わりないわ」
俺は混乱していた。つい、体に染みついた負け犬根性とでも言うべきか、後ろ向きな気持ちが出てくる。
「でも、俺はあなたより弱いし、成績もよくないし、釣り合いが……」
「そんなこと問題じゃないわ」
ルウデナは俺の手を取った。
「あなたが私より強い必要も、成績がいい必要も全くないわ。そんなことは後からなんとでもなるし、他の人に任せてもいい。私はあなたの性格を見て気に入ったの」
「性格?」
「率直で自分の弱さを認めて努力のできる性格。初めて襲われた日、真実を知らされてショックを受けた後でも、ちゃんと立ち直って頑張ったじゃない」
ナイフを持った覆面たちに襲われた日のことか。あの日、麗さんやソフィアさんが俺に、俺のY染色体についての真実を告げたことをルウデナは知っていたのか。
「あれは、ルウデナが励ましてくれたから……」
「いいえ」
ルウデナは首を振る。
「私は自分のことを言っただけ、立ち直ったのはあなたの力だよ」
ぎゅっと手を握ってくる。
「俺の力……」
「だから、私はあなたを選ぶことにしたの」
それからちょっと、首をひねって不安そうな顔で見上げてくる。
「あなたは、どうかな?」
俺はルウデナの目を見つめ返した。
俺のことを認めてくれ、生涯の伴侶に選ぶと言ってくれた人。俺はこの人にどう答えるべきだろうか。答えは出ている気がする。でも、安易にその答えに飛びついていいのだろうか。
黙っている俺にルウデナが悲しそうに眼を伏せた。
「これだけたくさん騙されたら、やっぱり嫌だよね。無理に巻き込まれたんだものね」
「いや、そんなことはないよ」
俺は反射的に言葉を放っていた。不思議と騙されたことや巻き込まれたことへの怒りは俺にはない。ただ、ルウデナにいい加減なことを言いたくなかった。
「俺は、俺には、まだ自分がルウデナの相手で本当にいいのかがわからないんだ」
素直な気持ちが口をついて出る。
ルウデナが顔を上げて笑った。
「そんなこと。私がいいというのだからいいのよ」
「そうなのかな」
「そうなの」
お姫様は強引に言い切る。
「それで。どうかしら? 私のことは?」
少し強気で、しかし不安そうに、笑みを浮かべながら聞いてくる青い瞳の持ち主を、俺は意を決して見つめた。
「俺はあなたと結婚します」
ルウデナはいきなり抱きついてきた。俺の胸に顔をうずめる。
俺はおそるおそるルウデナの肩に手をまわしてみた。小さな肩を抱いていいものか、ためらう。
女神が顔を上げた。顔が近い。
大きな青い瞳が閉じられる。俺もそれにあわせて目を閉じた。
首を下げるとやわらかいものが唇に触れた。
しばらくそのままで止まる。世界の音が全て消えてしまったような時間が過ぎる。
首を上げて目を開けると、腕の中でお姫様が花のように笑っていた。部屋の中が明るい光で満ちているように感じる。
「約束したわよ」
ルウデナがささやくように言った。
「約束した」
俺はルウデナの肩から手を話しながら答えた。ルウデナがその手をつかむ。
「行きましょう。すっかり遅くなってしまったわ。暗くなってきた」
気がつくと部屋の中は夕闇につつまれていた。さっき感じた光は幻だったようだ。
俺たちは手をつないで部屋を出た。廊下の向こうで見張りをしていたらしい男たちが二人、駆け寄ってきて俺たちの護衛につく。
階段を下りて喫茶室に入ると麗さん、命、ソフィアさん、坂崎さんが迎えてくれた。執事の川田さんやメイドたちも祝福してくれる。
そのまま俺たちは食堂に通され、上座に引き据えられて麗さん達とディナーを食べた。
翌日、俺は一人で登校した。
席に着くと隣で金髪碧眼の少年が手を振ってくれる。
宮田が椅子に後ろ向きに座って話しかけてきた。
「お前らどうしたんだ? いきなり別居なんて」
「何だよ、別居って。夫婦じゃないんだからな」
「似たようなもんだろ」
「違うよ、なあ」
宮田の言葉に隣の席の美少年と顔を見合わせて笑う。
「アレクの病状が思わしくないから、私の家に来てもらうことにしましたと、さっきも説明したではないですか」
どこからともなく命が現れて解説を加えて素早く立ち去った。
もちろんこれは言い訳だ。
実は昨日のディナーの後、麗さん、命、ソフィアさん、ルウデナ、俺で話しあいをした。その席上、麗さんが、俺を見極める段階が無事に終了したから、もうルウデナがアレクとして学校に行く必要がなくなったと言い出したのだ。麗さんの中では必要がなくなったらアレクは転校ということで学校からいなくなるシナリオだったらしい。
しかし、ルウデナがこれに抵抗した。俺をそばで見ていたいと主張したのだ。ソフィアさんがそれに賛成した。俺とルウデナの接点が全くなくなるのはよくないと擁護したのである。
しばらくの議論の結果、ルウデナはこれまで通りロシア人留学生アレクとして登校することになった。ただし、引かれあっている男女を一緒の部屋にしておいては必ずよろしくないことになるということで、ルウデナは有久保邸の自室に戻ることになった。そのための理由として、アレクの病気がまた使われることになった。アレクの持病が悪化して毎日の経過観察が必要になった、というわけだ。
そういうわけで、俺は昨日の晩からあの部屋で一人暮らしになった。
「一人になってどうだった? さびしい?」
アレクが笑顔できいてくる。
「ああ、まあな」
俺が適当に答えると途端に物足りなそうな顔になった。
「さびしいよ」
あわてて言いなおす。
「お前ら、本当に夫婦だなあ」
宮田があきれた。まだ夫婦じゃないよ、約束はしたけどな、と心の中でつぶやく。
「しかし、昨日はすごかったらしいな」
言われて、はっとして宮田を見る。いきなり何の話だろうと内心あわてた。
「何が……?」
「何がって、強盗騒ぎだよ」
宮田が何を寝ぼけているんだと言わんばかりの顔をした。
「あ、ああ。強盗ね」
そうだった。昨日ビーチで襲撃を受けたんだった。そんなことさえ遥か遠い過去の出来事のような気がする。
「お前、見たのか?」
「いや、俺は有久保邸にアレクの付き添いで行っただけで、ビーチは行かなかったから」
すらすらと嘘が出る。
「そうなのか。それにしてもすごいよな。相手も銃を持っていたらしいじゃないか」
宮田は興奮している。銃声は寮のあたりまではほとんど届かなかったらしいのに、よく知っている。
朝食の時に食堂で見たテレビのニュースでは、武装強盗団による襲撃が失敗したとだけ伝えるだけで、銃撃戦があったという話は全く報じられなかった。これも有久保家の力だろうか。
「普通は怖がるんじゃないのか?」
俺は宮田の反応が奇妙に思えて尋ねてみた。
「そうだな。でも、俺は面白い」
「変わってるな」
「うーん」
宮田は少しうなってから答えた。
「織幡城の防備の固さがまた一つ確かめられたって感じだな。だから怖くない」
「それはお前だけだろう」
「どうかな」
宮田は首をひねった。
「ここに来るやつはみんな怖がらないんじゃないかな。昔から、織幡学園を狙った犯罪はそれなりにあったからな。そういうことがわかった上で来ているやつが多いと思う」
「それは初耳だ」
麗さんたちが襲われ慣れているというくらいだから、襲撃自体は昔から多かったのかもしれないと最近知ったが、まさか一般生徒が知っているような事実だったとは初耳だ。
「だいたい未遂でつかまってしまうからな。あまり大きく報道されないんだ」
報道されないというより報道をおさえこんでいるのだろう。道理で他県まで聞こえてこないわけだ。俺はあきれてしまった。
ルウデナはすっかりアレクの顔でにこにこと俺たちの会話を聞いている。俺にはそんなルウデナの顔がまぶしかった。
昼休みになるころにはアレクが有久保邸に移ったことは知れ渡ったらしい。購買部でパンを買った帰りに教室の前で別のクラスの女子に「離れ離れでつらいでしょうけど、頑張ってください」と応援されてしまった。
席に戻ってアレクの方を見ないようにしながら言う。
「お前のファンにまた話しかけられたぞ」
「そうなんだ。じゃあ、見せつけてあげよう」
アレクが机をくっつけて弁当を二つ取り出した。一つを俺の机に置く。
「ちょっと待て。何だ、この弁当は?」
「有久保のシェフ特製のお弁当ね。私もちょっと手伝った。一緒に食べよう」
「いや、俺はパンがあるんだよ」
「それだけじゃ足りないね」
「足りるんだよ」
「いやいや、食べて食べて」
アレクが回りこんできて俺の目を見る。目を見てしまうと逆らえない。
「分かったよ。食べる」
宮田が半身をこちらに向けてぼやいた。
「いいなあ。特製弁当かよ。お前ら、本当に夫婦だな」
「いや、違うから」
「ふう。熱い熱い」
「宮田!」
俺が困惑した声を上げると、後ろから声がした。
「困ったことです」
振り向くと命が頭を抱えていた。
「人の心とは難しいものです」
「どうしたの」
アレクが尋ねる。
「私があなた方の関係に嫉妬して、二人の仲を引き裂くためにアレクを力ずくで屋敷に呼んだという噂が流れているのです」
「なんだそりゃ」
俺は訳がわからなかった。何がどうしてそうなるのだ。
「それはあれだな」
宮田が解説を始める。
「水垣が来るまで、アレクとお嬢様はずいぶんと仲がいいように見えた。そこに水垣が登場してアレクと怪しい仲になった。お嬢様は蚊帳の外だ。そこで、お嬢様が水垣に嫉妬してアレクを自分だけのものにしようと自分の屋敷に囲い込んだ。というストーリーだ」
「事実無根です」
命が苦々しい顔をする。
「わお。命、悪者ね」
「あなたのせいでね」
アレクと命がにらみあう。
「おい、やめろよ」
俺が立ち上がって間に入ろうとすると、細い手が俺の腕をつかんで席に引き戻した。アレクだ。
命がふらふらと自分の席に戻って行く。
アレクが俺の耳に口を寄せてささやいた。
「今、命のことをかわいそうと思った?」
驚く俺に、ルウデナの声に変って耳打ちした。
「だめだよ。圭は私のものだからね」
お姫様はそれからにっこり笑って無邪気そうにお弁当を食べ始める。俺はその横顔をあっけにとられて見つめていた。
〈終わり〉