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疑惑

 次の日の朝、奥村さんがやってきて水着を持って有久保邸に来るように言った。

 アレクと有久保(ありくぼ)邸に行くと赤いビキニの水着の上にパーカーを羽織った(みこと)が玄関で待っていた。

「昨日の今日で勉強どころではないのではないかと思いまして予定を変更しました。午前中はビーチに案内します。まずは着替えてください」

 更衣室に案内されて一人で水着に着替えると、命の先導で長い廊下を歩く。

「こちらです」

 そこは屋敷の横手の勝手口のような所だった。外に出ると庭木の向こうにコンクリートの壁が見えた。潮風が吹きつけてくる。コンクリート製の壁の空いた所から海が見えた。そこに行ってみると木製の階段が砂浜へと延びている。階段を下りて砂の上に立った。前に来た時はそれどころではなかったが、こうして見ると気持ちのいい場所だ。

「いいところですね」

「我が家の自慢のビーチです」

 命はそういうと屈伸を始めた。

「準備運動ですよ」

「あ、はい」

 俺もそれにならう。考えてみれば宮田たちと海にいく時はろくに準備運動をしていなかった。さすがにお嬢様はちゃんとしている。

「あの、こんな見通しのいい場所に来て狙われないでしょうか?」

 ふと思いついたことを尋ねてみる。

「大丈夫ですよ。見通しがいいのはこちらも同じこと。うちの庭からこのあたり一帯の海は監視出来ますから」

 見上げてみると、コンクリートの壁の上に光るものが見える。双眼鏡のようだ。

「さて、泳ぎましょう」

「二人で、ですか?」

 アレクはビーチパラソルの下に座って完全に見学者モードだ。

「残念ながら姉もメラン先生も仕事で忙しいのです」

 命はパーカーを脱ぎ捨てた。バランスのいい体が躍り出る。

「まずはあのブイまで競争しましょう」

 五十メートルほど沖にあるブイを指して海へと向かう。俺もあわてて追いかけた。

 泳いでみると命は速かった。ひとかきひとかき、ぐいぐいと進む。何とか追いかけたが全く追いつけなかった。

「私の勝ちですね」

 ようやくたどり着くと、ブイにつかまって立ち泳ぎをしている命が自慢気に言った。

「速いですね。水泳習っていたんですか?」

「母の見よう見まねです。でも今では家族で一番速いはずです」

 こんなところに住んでいるのだから、いつも泳いでいたのかも知れない。速くもなるはずだ。俺はブイにはりつくようにして体を休めた。

「実は昨日の襲撃は初めてではありません」

 命が声の調子を落とした。

「え、それは」

「あなたが来てからすでに二度、不審な集団が校門を突破しようとしています」

「二回も。そのときはどうしたんですか?」

「門の所で小競り合いになって、撃退しました」

 さすが織幡(おりはた)城といわれるだけある。守りに堅い。

「昨日のと同じ集団ですか?」

「どうやら、そのようです」

「それなら、昨日つかまえてしまったからもう安心ですね」

 自分でも思いのほか明るい声が出た。命がはっとした顔で俺を見る。

「一時的な話ですよ。すぐに次の部隊が送られてくるかもしれません。またいつ命を狙われるか。分かりませんよ」

「怖いですけど、大丈夫です。もう慣れました」

「そうですか。慣れるの早いですね」

 正確にいえば慣れたというより自分の人生を満足のいくものにしたいと思った結果、開き直って考えられるようになったのだが、ここでそんなことを言っても仕方ないだろう。それより今日の命は少し変だ。昨日傲然と「覚悟が足りない」と言った人とも思えない気の回し方をする。

「心配してくれるんですね」

「姉に怒られました。私たちのように狙われ慣れている人間とは違うのだと」

 狙われ慣れるとはすごい言葉だ。お嬢様の人生というのも楽ではないのだろう。俺もそういう世界に足を踏みいれてしまったということかもしれない。

「しかし、どんなことを考えたらそんなに早く慣れることが出来るのですか?」

 尋ねられた俺はつまった。一言では言いにくい。

「そうですね。お姫様に好かれる人間になりたいと思ったからでしょうか」

 俺の答えに命は笑った。

「まあ。女性の前で他の女性の話をするのは厳禁ですよ」

 俺のおでこを指ではじく。

「でも、彼女はそれを聞いたら喜ぶでしょうね。おさびしい方ですから」

 どこか遠くを見るようにする命の表情から、ルウデナ姫に対する親愛の情が読み取れた。昨日「なぜルウデナ様が相手になったのか」と聞いた時、命が憤激した意味がわかった気がする。

「さびしいというのは?」

「ご両親がおられないのです。生まれる前にお父様を、生まれてすぐにお母様をなくされて、ご兄弟もなくてお一人で育ってこられたのですよ」

「そうなのですか」

 確かにそれはさびしい境遇だ。

「さて、次は素潜り勝負ですよ。海底にタッチして速く戻ったほうが勝ちです」

 とぷんという音を残して命が潜った。俺はあわてて後を追った。今回の勝負も命の圧勝だった。その後も、色々な勝負をしたが、全て命の勝ちだった。

 疲れ果てて岸に戻るとアレクがタオルをかけてくれた。

 更衣室でシャワーを浴びて着替えると、有久保邸の食堂でランチをごちそうになった。鶏の照り焼きにご飯とアサリのみそ汁だった。

 ランチを食べながら命が言った。

「今日から、勉強にはこの食堂の隣の喫茶室を使いましょう」

「はあ、なぜですか?」

「あの部屋は狭すぎます」

 命の顔はそれがいいわけであることを示していた。有久保邸の方が万全の態勢で見守れるからということだろう。

「わかりました。後で道具をとってきます」

「それには及びません。すでに奥村に運ばせておきました」

 そういうわけで、それから夏休みが終わるまで、俺は有久保邸に通うことになった。朝起きると有久保邸に行き、命の指示を受けて勉強をする。ソフィアさんや命が入れ替わり立ち替わりやってきては俺の監督をした。アレクも一緒についてきてソファーで本を読みながら、時々わからない所をサポートしてくれる。俺は喫茶室の丸いテーブルに向かい、勉強を進めた。時々、窓の外を眺めた。窓の外は中庭で枯山水のように設えられている。

 休みの日に海に行くのは反対されなかった。しかし、宮田たちは気付かなかっただろうが、厳重な監視を受けてのことになった。海岸から振り仰いでよく見ると樹々の間や校舎の窓に光るものがいくつも見えていた。

 そんな中で俺たちは泳いだり釣りをしたりした。ただ八月後半になるとクラゲが海岸付近まで押し寄せてくるようになったので、それからはもっぱら釣りだった。釣果はなかなかなかったが、一度だけイワシが立て続けに三匹釣れたことがあった。イワシは食堂で刺身にしてもらってみんなで食べた。自分で釣った魚の味は格別だった。

 こうして夏休みは終わった。

 課題をすべてこなし、宿題もすべて片付け、達成感といくばくかの自信を身につけて俺は二学期を迎えた。


 二学期開始当日、職員室のソフィアさんに課題を提出すると教室に向かった。あちらこちらで「久しぶり」「宿題やった?」などの声が聞こえる。俺に「久しぶり」と声をかける者はいなかった。親しい人とは夏休み中に毎日のように顔を合わせ、そうでない人は夏休み直前に転校してきた俺のことなど覚えていないからだ。

 席につくと宮田が声をかけてきた。

「宿題終わったか?」

「ああ、終わった」

「すごいな。あの課題の山もやったんだろう」

「そっちも終わらせたよ。今メラン先生に提出してきた」

「優等生だなあ」

「そんなことないよ。いろんな人に助けてもらったからさ」

「おっと、優等生発言だよ。まあ、その調子なら実力テストもどんとこいだな」

「さあ、それはどうかな」

「またまた。学年一位と学年五位に教えてもらってたんだろ」

「学年五位?」

 命が学年一位なのは知っていたが、五位とはだれだろう。

「アレクのことだよ。お前知らなかったのか」

「知らなかった」

 さすがに本ばかり読んでいるだけのことはあるというべきだろうか。確かに理数系の頭のさえはすごかったが、それほどまでとは思わなかった。

「ルームメイトだろうに」

 宮田が呆れた顔をした。隣の席を見るとアレクが笑顔でこっちを見ている。これは褒められて嬉しいという顔だろうか。

 ドアが開いた。工藤先生だ。

「おう、お前ら、おはよう。体育館に移動してくれ。始業式がある」

 体育館まで三々五々、だらだらと歩いた。廊下の途中で女子達が固まって何かを話しているのに出くわした。一瞬俺の方を見て、それからまた顔を見合わせて何ごとかうなずく。明らかに噂のネタにされているようだ。あまり気分のいいものじゃない。

 始業式は山本校長の訓示と伝達事項だけで終わった。

 教室へ帰る途中でも女子が俺の顔を見てひそひそ話すのが見えた。

「なんだか、俺、噂になっているみたいだな」

 宮田に話しかけてみた。宮田は小さく笑った。

「いいじゃないか。噂になるくらい。俺なんて一度冗談を言ったら、それ以来ずっと女子に避けられているぜ」

「あの冗談はよくなかったね」

 アレクが真顔で首を振る。どんな冗談か気になるが、今はそれはどうでもいい。

「なんで俺が噂されるんだ?」

 宮田がアレクを指さした。

「原因はこいつだよ。きっと」

 アレクはきょとんとしている。

「こいつ、女子から人気だからな。影で、リョーシャちゃんとかアレク様とか言われてるんだぜ」

 それは納得できる。すっかり見慣れてしまっていたが、アレクは金髪碧眼の美形だ。

「私のところには誰も来ないね」

「お前のそばに行くなんて畏れ多いと思ってるんじゃないか」

 宮田が意外そうな顔をするアレクをからかった。

「宮田、意地悪ね」

 アレクが怒ってみせて宮田が謝る。俺はそれを笑ってみていた。

 教室に戻ると工藤先生が来週のロングホームルームの議題の予告などをした後、全員に荷物を廊下に出すように言った。

 実力テストだ。

 全員、まず出席番号順の位置に席を移動する。俺は後から入ったので出席番号は三十番。座席の位置は廊下側の前からカウントしていくので俺の席は移動しなくていい。そして、初めて知ったのだが、アレクは出席番号二十九番、俺のひとつ前の席だった。つまりアレクも転校生と言うことになる。

「お前、転校生だったんだな」

「うん。五月に来たね」

 アレクが後ろ向きに座って俺に手を振る。女子たちの視線が痛い。

 机の上に筆記用具だけ残して廊下に荷物を持って出た。廊下ではめいめいが教科書などを開いて公式や解法のチェックに余念がない。

「時間だ」

 しばらくすると工藤先生が廊下の生徒に声をかけた。全員が手にしていたものを鞄にしまって教室に戻る。

 問題用紙と解答用紙が配られた。組と番号と名前を書いて時間を待つ。

 チャイムが鳴った。一限目、数学の試験のスタートである。

 問題用紙を開いて驚く。問題は全部で六問。一番の計算問題が十個並んでいるのはともかく、二番以降の文章問題は、見たことないような問題ばかりだ。とにかく分かる問題からということで、計算問題から取り掛かるが、これがまたややこしい問題ばかりだった。百分という試験時間がどんどんと過ぎていく。

 なんとか一番を終えて時計を見ると残り四十分だ。分かりそうな問題を探す。三番の最大値を求める問題が式を変形して行けば何とかなりそうだと見当をつけて挑む。その次は四番の三角関数のグラフの問題。その次は六番の不等式のグラフの問題だ。

 時計を見る暇もなく式の変形をしているとチャイムが鳴った。

「止め! 筆記用具を置いて、後ろから解答用紙を前に回して」

 半分しか解けなかった。俺はがっくりと頭を垂れて解答用紙を前のアレクに渡した。

「よし。終わる」

「起立、礼」

 工藤先生が行ってしまうと、俺たちはまた廊下に出て次の国語に備えた。漢字の問題集に目を通していると、宮田が声をかけてきた。

「数学、出来たか?」

「ダメだ、半分くらいしか解けなかった」

「半分出来たのか、わりといいじゃないか」

 意外な言葉に面食らう。

「どういう意味だよ。半分だぞ」

「どうもこうもないさ。この学校の実力テストは大学入試レベルの問題が出るんだ。全部できるやつなんていないんだよ」

「なんだいそれは」

「化け物みたいな生徒がいるだろう、誰とは言わないけど。そういう生徒たちに点数の差を出すために難しくしているって話だ」

「へええ」

 あきれるほかはない。それじゃ、俺が解けるはずがないじゃないか。

「まあ、そういうことだ。気張らずにいこうぜ」

 宮田はぽんぽんと肩を叩いた。

 次の国語の問題は、漢字の書き取りが分からなくて途中であきらめたのと、現代文の選択肢で選択肢の違いがわからなくて適当に答えたのをのぞいて、何とか時間内に解答出来た。古文漢文は夏休みに鍛えられた甲斐があってスムーズだった。

 初日最後は英語だ。これは長文読解に時間を取られ、英文組み立て問題、英文書き換え問題をなんとかクリアしたものの、最後の和文英訳までたどり着けなかった。

 俺は疲労困憊して寮に戻った。

 アレクは励ましてくれたが、アレクに問題番号を言うだけで解説が返ってくるので、アレクの出来のほどが伺われて、ますます落ち込んだ。

 翌日は朝から化学と物理の試験だった。百分の試験時間の半分をつかってまず化学の試験をして残りの半分で物理の試験をする。

 化学は見たことのない複雑な化学式の物質をとばして計算問題中心に攻めて何とか時間内に終えた。物理は気球からの斜め投げ上げの問題を途中であきらめたのと、急ブレーキをかける二台の車がぶつかるかどうかの問題を解くのを断念したほかは解答出来た。

 午後からは平常授業だった。驚いたことにはもう国語と化学の答案が採点されて返ってきた。どちらも間違いだらけだった。

 次の日には残りの科目の答案もすべて返ってきた。数学も物理も丸の数を数えたほうが早いくらいの出来だ。英語は長文読解で一問間違えた以外は解答した問題で間違いはなかったが、英作文の空欄のダメージが大きかった。

 こうして、見事に打ちのめされた状態で俺の二学期は始まったのだった。


 週が明けると廊下に各学年上位五十名の名前が貼り出された。

 もちろん俺の名前はない。ホームルームで各自に配られた紙によると俺はクラス順位が十九位、学年順位が七十五位だった。

「一番違いだな」

 宮田が自分の順位を見せてくれた。宮田はクラス順位十八位、全体で七十三位だ。

「お嬢様はさすがだよな」

 命は上位五十名の中に名前が載っていた。第三位である。当然クラス順位は一位だ。

「俺は、あのお嬢様の上がいるってことの方が恐ろしいよ」

 正直な感想だ。一度見た問題は二度と通用しないと言われている人の上がいるなんて信じられない。

「まあ、それだけユニークな問題が出たということだろうな」

「それを解いてしまうってやつはどんな頭してるんだ?」

「さあね。しかし問題はアレクの順位かな」

「私の順位がどうかした?」

 いきなり自分の名前が出てアレクが振り向く。

「お前、ちょっと順位落としすぎだろう」

 宮田が掲示を指さす。アレクは学年順位が二十三位だ。クラス順位は、上から数えてみると六位だった。

「問題難しかった。仕方ないね」

 肩をすくめる。

「まあ、それはそうなんだけどな」

 宮田が俺の方を意味ありげに見る。

「なんだ?」

「がんばれ」

「なんだよ、それ」

 宮田は首を振りながら行ってしまう。後を追いかけてきいたが宮田は答えなかった。

 しかし、答えはその日のうちにわかった。

 各階には空き教室がある。行事の時や、日本史と地理のように選択科目でクラスを分ける時に使うための教室である。

 昼休み、俺は一人でトイレに行って教室に帰ろうとしていた。空き教室の前を通りかかった時、一人の女子が俺の前に立ちふさがった。同じクラスの女子だ。名前はまだ覚えていない。

水垣(みずがき)君、ちょっといい?」

 冷たく低い声だ。

「あ、ああ」

「入って」

 空き教室に連れ込まれる。中には八人ほどの女子がいた。見知った者も多いがそうでないものもいる。命の姿はないから、命をのぞいた同じクラスの女子全員プラス他のクラスの女子数人というところだろうか。全員俺をにらんでいる。楽しい話ではなさそうだ。

「水垣君。アレク様に勉強教えてもらってるんだって?」

 一人が話しかけてきた。

「ああ、そうだけど」

「それって、アレク様に迷惑かけてるっておもわない?」

「え、それはどうかな……」

 別の女子達がすごむように言う。

「アレク様の順位落ちちゃったじゃない」

「転校してきてから、ずっと学年一ケタだったんだよ」

 どうやらアレクの順位が落ちたのは俺に勉強を教えたせいだと言いたいらしい。宮田が言っていたのはこのことか。しかし、「ずっと」というけれど、転校生のアレクが受けたテストはせいぜい一学期の中間考査と期末考査くらいだろうに、大げさな言いようだ。

「あなたが何者か知らないけど、アレク様を独占することはゆるされないわ」

 別の一人が詰め寄ってくる。

「いや、独占してるつもりは……」

 まあ、独占状態だったのは否定できないけど。

「あなたが張りついていてはアレク様が迷惑するって言ってるの!」

 張りついているつもりはない。どちらかと言えば「張りつかれている」という感じだ。しかし、そう言えば余計怒らせることになりそうなので口に出すのは止めておく。

「あなたはそばにいるだけで、アレク様の足を引っ張っているのよ」

「なんとかいったらどう?」

「もう、アレク様につきまとうのやめるよね」

「さあ、言いなさいよ。もうアレク様のそばに寄らないって」

 全員が責めたててくる。ぐるりと囲まれて逃げ場がない。

 そこに、ドアが開く音がした。

 金色の頭が入ってくる。

 アレク本人だ。

 アレクは全員の顔を見渡すと、女子たちの間を割って入って俺の手をつかんだ。女子一同は驚きのあまり声も出ない。

(けい)、行こう」

「あ、ああ」

 俺を連れて戸口を出ようとしたところでアレクは女子たちのほうを振りかえった。

「圭は大事な人。いじめないで」

 かすかにはにかみながら言う。ちょっと待て、その言い方はなんだ、と言いたかったがアレクが細い手で強く引っ張るので、タイミングを逃して空き教室を後にする。

 空き教室の方から悲鳴のような歓声がわき上がった。俺は頭を抱えた。

 噂はすぐに学校中に広まったらしい。

 俺はこれまでと違う意味で注目を集めることになった。女子たちの冷ややかな目は減ったが、代わりに男女とも好奇の目で俺とアレクを見るようになったのだ。別のクラスの女子までがわざわざやってきて、俺に対して「応援しています」と頬を染めて言ったくらいである。

「お前、そう言う趣味だったのか」

「ちがう」

 休み時間、後ろを向いた宮田が気持ち悪そうに言うので断固否定する。

「アレク、お前も何とか言ってくれ」

 隣のアレクに助けを求めた。

「私、圭が大事。間違ってないね」

「それは、友達って意味で、だろう」

「うーん。大事は大事ね」

 アレクにはちっとも響かない。

「やっぱりお前らそういう仲だったのか」

 宮田がますます気持ち悪そうにする。

「だから、ちがうって」

「わかったわかった」

 宮田は聞く耳を持ってくれない。俺は悔しくなった。こんなことでせっかく出来た仲間を失うのだろうか。こぶしを強く握った。

 と、その手を白い手がつつんだ。アレクだ。

「圭、大丈夫。宮田は冗談を言ってる。ね、宮田」

 宮田はアレクと俺の顔を見比べて、うなずいた。

「あ、ああ。すまん。冗談だ」

 それから宮田はにやりと笑った。

「お前と俺は一緒にお嬢様の水着姿を見に行った仲だものな」

 その表情についあの時のことを思い出して笑ってしまう。

「私の水着姿が、なんですか?」

 いきなり隣に命が現れた。

「いや、なんでもない。なんでもない」

 宮田が前を向き直って素知らぬふりをする。

「アレクを助けにやったのは間違いでしたかね」

 命はため息をついた。

「命さんがアレクを?」

「ええ、私が気づいてアレクに伝えたのです」

「ダー。私、命に言われて圭を助けたね」

「なんで、自分で来なかったんですか?」

「私、噂になると困りますから」

「はあ」

「人間関係とは難しいですね」

 そう言うと命は自分の席に戻って行った。

 話が難しくなった原因はだいたいアレクのあの一言のせいだと思うが、助けてもらった手前文句もいいづらい。

 俺はその日の午後いっぱい、ぐったりとして過ごした。


 毎月第二火曜日は『かみはなラジオ』の更新日である。『かみはなラジオ』とは、声優の上山隆(かみやま たかし)花崎菜々(はなさき なな)の二人がパーソナリティーを務めるWebラジオだ。とうぜん花崎ファンの俺は毎回聴いている。

 学校から帰った俺は一月ぶりの『かみはなラジオ』を心躍らせて再生した。

『みなさーん、かみはなよう』

 かみはなようは番組独自のあいさつだ。

『ついに花崎さんのCDが発売されましたね』

『ありがとうございます』

『もう発売されてだいぶ経ちますけど』

『ほんとですよ。もうほぼ一月たってますよ』

『でも、前回はCDの発売直前で散々宣伝出来たじゃないですか』

『タイミングが良いのか悪いのか』

『そういうわけで、CDの感想メールを』

『ありがとうございます』

『が、読みません』

『読まないんですか?』

『後で、読むそうです』

『わー、引っ張るう』

『そんなわけで、まずはこのコーナーから』

『かみはな商会』

 リスナーからの問題にパーソナリティーの二人が答えるというコーナーである。

『最初のお客様はシリンジさん、女性です。「この前、『商会でミルセラを注文した者です。いきなりあんなものを注文してすみませんでした」だそうです』

『ミルセラですか。あーはい、注文受けましたねえ』

『あー、そうですねえ。あのおいしそうなの』

『じゃあ、書きましたか。行きますよ』

『はい』

『せーの。ドン!』

『花崎さん、ケーキですか』

『いや、おいしそうな名前じゃないですか。そう言う上山さんはタイヤって何ですか?』

『タイヤのブランドですよ』

『それは違うだろうと作家さんが突っ込んでますよ』

 ここの放送作家は番組によく入りこんでくる。

『いいんだよ。俺はこれで』

『じゃあ、正解の発表です』

『えーと。腎性貧血という病気のお薬だそうです』

『よく扱ってましたね。そんなもの』

『さすが「かみはな商会」』

『では、次のお客様。接眼レンズさん、男性です。「至急、アセトンを一本お願いします」だそうです』

『あ、俺これ知ってる。見たことある』

『知ってるって言っちゃダメですよ』

『ああ、ごめんなさい』

『では、さっそく回答に行きましょう。せーの、ドン』

『花崎さん、栄養ドリンクですか。飲んだら大変ですよ』

『えー、ちがうんですか』

『正解は、有機溶剤でした』

『え、危険』

『というわけで、「かみはな商会」でした』

 ここで番組ジングルが流れる。

『つづきまして「ボッチ連盟」のコーナー』

 一人ぼっちと感じた体験を読みあげてパーソナリティーが励ますコーナーだが、いつの間にか変質して上山さんをいじるためのコーナーになっている。

『上山さんのためのコーナーです』

『どうも、ボッチ上山です。というかやめようよ、それ。最近ほんとしゃれにならなくなってきてるから』

『作家さんが「いいから、先に行け」って言ってます』

『わかりましたよ。えーと最初の方。コオロギさん、男性です。「床下で鳴くコオロギの音が一人だけの部屋に響くとボッチを感じます」だそうです』

『えー、いつの投稿ですかあ。まだ暑いですよ。コオロギには早すぎませんか』

『いいんだよ。「咳をしても一人」っていうじゃないか。コオロギ、いいよねえ。冬に一匹だけ鳴いているのがいい』

『あ、上山さんが遠い目をしている。というか、上山さん。コオロギの来るような所に住んでましたっけ?』

『昔住んでたの。地元にいた時。お金も友達もなくてさあ……』

『語りだしましたよ、みなさん』

『ああ、次行こう次。おじさん泣いちゃうから』

『次は、音信不通さん、女性です。「クラス会が一昨日あったと偶然会った昔の知り合いから聞いた時、ボッチを感じました」だそうです』

『あるんだよなあ、これが。「一昨日クラス会だったんだって?楽しかったらしいじゃん」とか言われちゃうんだ、これがよう』

『行ってないのに』

『行ってないどころか、クラス会があるって連絡さえ貰ってないんでしょ』

『酷いですねえ』

『うん、でも、メールアドレスが変わった時に知らせるのを忘れてたりするんだよね』

『自業自得じゃないですか』

『ほんと、そうなんだよなあ。もう、あの時ちゃんとメールしておけばなあ』

『以上、「ボッチ連盟」でした』

 再び番組ジングルが流れ、そのまま花崎菜々の『スタアスタア』が流れた。

『花崎さんの曲の発売を記念しまして、「嬉しい図鑑」のコーナー特別版です』

 このコーナーは、いつもは嬉しがっている人の報告をリスナーからつのるのだが、今回は少し違うらしい。

『まずは花柄電気ポットさん、女性の方からのおたより』

『ああ、この人、以前「ボッチ同盟」にお便りくれた方ですね。ほら、ポットの』

『あの方ですか』

 それは俺も覚えている。電気ポットをかかえて温かいと感じるという内容だった。

『進展があったみたいですよ。「隣に人が越してきました。花崎さんの『スタアスタア』を買って繰り返し聞いています。とても嬉しそうです」だそうです』

『ありがたいですけど、ボッチ卒業でしょうか。そちらも嬉しいお便りですね』

『ほんとそうですね。花柄電気ポットさん、頑張ってください』

『応援してます』

『次はカタクチイワシさん、男性です。「花崎さんの曲を聴きながら釣りをしています。釣りあげられた魚もなんだか嬉しそうです」だそうです』

『え、聴いて下さるのは嬉しいんですけど、そのお魚さんどうなっちゃうんですか?』

『食べるんじゃないですか』

『それじゃあ、お魚さんは嬉しくないんじゃあ』

『最後はヒマワリさん、男性です。「新曲繰り返し聴いています。曲を聴いていると庭の花が風に揺れるのが嬉しそうに踊っているように見えます」だそうです』

『聴いてくださってありがとうございます。最後は綺麗にまとめてきましたね』

『というわけで「嬉しい図鑑」特別編でした』

 ここでまたジングルが流れる。そして、エンディングだ。

『お聞きいただきました「かみはなラジオ」、そろそろお別れのお時間です』

『番組ではリスナーのみなさんの感想、ご意見、各コーナーあてのおたよりをお待ちしております』

『採用された方には番組特製グッズをさしあげております』

『では、また次回』

『さようなら』

 こうして今月の『かみはなラジオ』は終わった。


 その日の夜、消灯時間の少し前のことだ。甲高い叫び声が部屋の中に響いた。

「キャー!!!」

 俺はベッドに寝そべって本を読んでいたが、飛び起きてしまった。声がしたのはアレクのスペースの方だ。俺は恐る恐るアレクのスペースをのぞいた。

 アレクが口を押さえてベッドにうずくまっていた。ベッドの上には携帯電話がある。イヤホンが耳につながっている。

「今の声、お前か?」

「そ、そうね。ごめんなさい。ちょっと裏声で叫んでみた」

「何かあったのか?」

「何でもないね。気にしないで」

「いや、しかしなあ」

「気にしないで」

 アレクが強く言うので俺は引き下がった。

 どこかの部屋から苦情でも来るのじゃないかと思ったが、窓を閉めてエアコンをかけていたせいか。苦情はなかった。もしかするとこの部屋は元寮監室だけあって、防音が行き届いているのかもしれない。

 翌日、アレクの様子は変だった。妙に明るい。もともとそんなに暗い性格ではないけれど、なんだか浮ついているように見える。

 宮田も気づいたようだった。

「おい、アレク。なんだか楽しそうだな」

「何でもないよ、宮田」

 宮田が俺の方を向く。

「どうなってるんだ、一体?」

「さあ、わからん。俺にも何も言わないんだ」

 朝から、何回か尋ねてみたが教えてくれなかったのだ。

「ああ、アレク」

 命だ。またいきなり隣に現れた。瞬間移動でもマスターしているんじゃないだろうか。

「おめでとう」

「スパシーバ、命」

 二人の謎の会話に宮田が食いついた。

「何だ、何か知ってるのか?」

「秘密です」

 命はきっぱりと説明を拒んで、席に戻って行った。

「何なんだ? 俺が何をした?」

「さあな」

 俺にもお手上げだ。頭の後ろで手を組んで伸びをする。

 アレクは楽しそうにノートの清書をしていた。まめな奴だ。こういうところが、成績につながっているのだろうか。

 結局、楽しげなアレクの原因はわからないまま、授業が終わった。

 一旦部屋に鞄を置いてから、アレクについて有久保邸に向かう。今日はアレクの診察の日だ。アレクが奥に入って行ってしまうと、俺は玄関ホールのソファーでメイドの持ってきてくれたジュースを飲んだ。

 途中でトイレに行きたくなった。薄暗い廊下を歩いて更衣室の隣の男子トイレに行く。しかし、家の中に更衣室や男女別のトイレがあるというのもすごい話だ。

 トイレからの帰りにあるドアの前を通りかかった時だった。

「……すごいわよね。これで二回目じゃない。私、もう十通以上出してるけど一度も読まれたことないわよ……」

 命の声だ。俺は「十通以上」とか「読まれたことない」という言葉に反応して聞き耳を立ててしまった。どうやらラジオの話のようだ。あの命がラジオに投稿していたなんてかなり意外である。

「私本当にうれしくって、つい叫んじゃった」

 この声はアレクのようだ。しかし、アレクより日本語がうまい気がする。

「ダメよ。いくら上山隆に『頑張ってください』って言われたからって」

 俺は混乱した。これはいろいろと問題がある発言だ。

「水垣様、どうかなさいましたか?」

 いきなり後ろから声をかけられて、飛び上がりそうになった。執事の川田さんだ。

「い、いえ。なにも」

 頭を下げてそそくさと玄関ホールに戻る。ソファーに腰をおろして息を整えた。

 今聞いてしまった会話の問題点を整理する。

 まず、なぜ命が上山隆を知っているのかだ。上山隆は有名な声優だが、一般人が知っているような人ではない。しかも流れから考えると、命は上山隆のラジオに十回以上投稿していることになる。かなりのファンだ。

 次に上山隆に「読まれた」のがアレクであるということだ。アニメファンのアレクのことだから上山隆のファンでもおかしくはないが、話の様子では命に劣らないファンのようだ。

 そして最後にして最も重大な問題点は、タイミングからしてアレクのお便りが採用されたのが『かみはなラジオ』らしいということだ。何せアレクが叫んだのが昨日である。上山隆がいくつラジオに出演しているか知らないが、そう多くはないはずだ。もし、今の話が昨日の『かみはなラジオ』のことだったとすれば、それは大変なことを意味する。昨日のラジオで「頑張ってください」と上山隆から言われたのは「花柄電気ポット」ただ一人だからだ。そして、「花柄電気ポット」は女性である。

 アレクが女性、その考えに俺はうなった。

「やあ、お待たせ」

 アレクがやってきた。俺は変な声になりそうなのをおさえながら立ちあがった。

「ああ、部屋に戻るか」

 つい、体を見てしまう。胸はない。お尻も大きくはない。

「圭、どうした?」

「あ、いや、行こうか」

 玄関を出た。ちらりとアレクの喉を見てみる。喉仏はない。昨日の晩の叫び声の甲高さからして、女性というのは十分あり得る。

 そうだ。アレクが女性なら納得のいくことがいくつもある。低い背丈、細い手。シャワーや着替えを見られることを極端に嫌うところ。体育が全て見学というのもそのせいではないだろうか。襲撃にあった時に犯人と組み合った動きからして、運動が全くダメというようには思えない。

 しかし、なぜだろう。なぜ男性のふりをしているのだろうか。男子寮に入るために男装をしたのだろうか。いや、そもそも女が男のふりをして学校に入学できるものなのか。

「圭、どうしたね。さっきから私をちらちら見て」

「いや、なんでもないんだ」

「圭、何でもないように見えないね」

 アレクが外国語なまりの日本語を使う。さっきはもっとスムーズに日本語をしゃべっていたはずだ。顔や肌の白さは完全にヨーロッパ系であることを示しているから、外国語なまりで不思議はないのだが、さっきのはなんだったのだろう。さっきのはアレクではなかったのだろうか。

「気にするなよ」

「気になるね」

「気にするな」

 そう言いあいながら、部屋に入った。

 入り口わきの棚の上の電気ポットが目に入った。この部屋に置かれているものは新品同然のものが多いのだが、ポットだけは古ぼけている。そして、今まであまりはっきりと見たことがなかったのだが、ポットの側面は花柄だった。


 俺の疑念が確信に変わった。

 アレクは「花柄電気ポット」で、女性だ。

 俺はふらふらと自分のスペースに入ってベッドに腰を下ろした。

 もちろん男性が女性のふりをしてラジオに投稿することはあるだろう。しかし、あのラジオはリスナーの男女比は半々だ。女性のふりをしたからといって採用されるとは限らない。内容的にも女性のふりをする理由がない。

 そう、内容だ。隣に入った人が花崎さんのCDを買って嬉しそうに何度も聴いているという内容は、まさにソフィアさんにCDを買ってきてもらい繰り返し聴いていた俺のことを指している。

 俺は「花柄電気ポット」の過去の投稿を思い出した。寒い日に電気ポットを抱えて暖をとるときに孤独を感じるという投稿だった。その投稿は確か冬だったと思う。俺も真似をして電気ポットを抱え込んでみたから覚えている。二月くらいだったはずだ。

 俺は首をひねった。

 二月というのは、アレクの転校前である。アレクはロシアからメールで投稿していたのだろうか。Webラジオではありうることだが、それだったら「ロシアからのメールです」と言って紹介しそうなものだ。

 疑わしい点はまだある。アレクは命と妙に親しい。普段誰にでも丁寧語の命がアレクだけにはざっくばらんに話しかける。来日数カ月でそんな仲になるだろうか。それに、アレクは襲撃の時、俺をかばって逃げろと言った。まるで俺が狙われているのがわかっていたかのようにだ。加えていうなら、アレクはその後の現場検証で坂崎さん達のストーリーに異を唱えなかった。明らかに事実と違う説明を坂崎さんがしたのにもかかわらずだ。

 アレクは有久保家と近すぎる。それなのにそのことを周りに隠そうとしている。

 どう考えたらいいのだろう。俺はベッドに寝ころがった。椅子が目に入る。

 途端にアレクがその椅子にすわって言った言葉が思い出された。

 そう、こう言った。

『私、ずっと一人だった。両親、いないし、祖国にも帰れない』

 その言葉が、命が海で言った言葉と重なった。

『ご両親がおられないのです』

 俺ははっとして起き上った。まさか、そんなことがあるだろうか。しかし、両親を亡くして祖国に帰れないという事実は符合する。そう、祖国と言うのがロシアではなくて、パントネーラであれば。

 隣のスペースでシャープペンシルを走らせる音がする。宿題をやっているのだろうか。俺もやらなくてはと思って起き上がり、椅子に座るが文面に集中出来ない。何度も同じところを読み返して、時間ばかりが過ぎていく。

「圭、そろそろ夕食の時間ね」

 アレクがやってきた。

「お、おう」

 俺はぎこちなくアレクの方を見て答えた。

「どうした? 分からないところでもあるか?」

 アレクが俺の手元をのぞきこむ。顔が近い。思わずのけぞってしまう。

「全然やってないね」

「あ、ああ。難しいな、これ」

 俺は逃げるように立ちあがった。

「教えるか?」

「大丈夫だ。自分でやる」

 俺は自分の気持ちを落ち着けようとした。まだ何もかもが推論の段階だ。女性かもしれないというのさえ憶測にすぎない。いつもどおりに行動しよう。もし、推測が全てあたっていたとしても、アレクには事情があるに違いない。アレクはいい人間だ。それは今までの行動でわかる。そのアレクを困らせるようなことはしたくない。

 俺はアレクと一緒に食堂に行った。あまり近くに寄らないようにしながら何でもないふりを装う。

 試みは成功したようだった。アレクはいつもと変わりなく昨日公式サイトで配信されたアニメの話などをしていた。

 楽しそうに話す顔を見て、ふと女性だったらと考えてしまう。美形のアレクだ。もし女性だとしても、かなりの美人といえるだろう。

「圭、どうした?」

 はっとして、頭から余計な考えを追い払う。

「いや、ちょっと考え事をしていた」

「さっきから、うわのそらね」

「ごめん、ごめん」

 謝って、アニメの話に戻る。アレクはすぐに夢中になって話し始めた。

 何とか食事は乗りきった。

 部屋に帰ると、アレクは紅茶を淹れて自分のスペースに入って行った。本を読むようだ。俺は深呼吸をしてから宿題にとりかかった。頭の中に広がってこようとするもやもやとした考えを押しこめてどうにか宿題をやり遂げるとぐったりとしてしまった。

「圭、シャワー浴びるね」

 いつもの会話だが、つい心臓の鼓動が跳ねあがる。

「あ、ああ」

 俺はイヤホンをして花崎菜々の曲を音量を上げて再生した。シャワーの水音を聞くといろいろとよくない想像をしてしまいそうだったからだ。

 ひたすら歌詞を追いかけながら聞く。四曲目のサビに入ったところで、急にアレクが顔をのぞかせた。

 びくっとしてイヤホンを外す俺に、アレクが謝った。

「おどかして、もうしわけないね。呼んでも、返事なかったから」

「あ、いや。こちらこそ、返事をしないで悪かった」

「シャワー終わったよ」

「あ、ああ。うん、わかった」

「シャワーしないの?」

「後でな」

「急がないと、消灯時間になるよ」

「わかってる」

 俺は消灯時間ぎりぎりになってから手早くシャワーにかかった。それから、明日の準備をしてさっさと布団にもぐりこむ。

「おやすみ」

「スパコーイナイノーチ」

 パーテーション越しに挨拶を交わしたが、俺はちっとも眠くならなかった。



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