襲撃
夏休みも四週間ほどが過ぎた。俺は勉強漬けの生活にすっかり慣れてしまっていた。こんなに勉強をしたのは高校受験直前以来だったが、慣れれば慣れるものである。今では夕方までにノルマをこなして、夜はWebラジオやアニメの公式配信動画を視聴して回ることに充てる余裕さえ出てきた。課題も宿題も順調に消化して、見るだけで満腹感を覚えるほどだった机の上の山も半分以上が片付いている。
花崎菜々の『スタアスタア』は発売日翌日にはなったが無事ソフィアさんが届けてくれた。もちろん初回限定版だ。繰り返し聴いて、『ひとはな咲いた』に感想メールを出した。投稿は採用されなかったけれど、それはどうでもいいことだ。
日曜は大半を海で過ごした。泳ぎはだいぶ上達し、宮田たちと海底に石を並べたり出来るようになった。釣りはまだ一度も魚がかかることはなかったが、宮田がアジを釣りあげるのを見ることが出来た。そして、そのアジを一匹分けてもらってアジフライ丼を食堂で作ってもらって食べた。夜は天体観測や花火もした。寮の周りは明りが少ないので天の川がはっきりと見える。はくちょう座が天の川の真ん中に輝くのを俺は初めてみた。
そういうわけで、去年までの何となく過ぎていく夏休みと違って、濃密な、ある意味で充実感のあふれる夏休みを俺は過ごしていた。
アレクの所には週に二度看護師が来ていた。四十歳くらいの無口なおばさんだ。アレクはまた週に一度くらいの間隔で有久保邸に診察を受けに行った。驚いたことには有久保邸には医師が常駐しているらしい。俺はアレクについて有久保邸に行った。ついていくといっても俺は玄関ホールのソファーで待っているだけだ。待っている間、メイドの持ってくるおいしいジュースをごちそうになった。
お昼御飯のあとだった。その日も俺はジュースを目当てでアレクについて寮を出た。
玄関前に食堂に材料を届けるバンが止まっていた。ただ、いつもと止まっている位置が違うなと感じた。それから、いつも警備の人が立っている場所に誰もいなかった。兆候はそれだけだった。
有久保邸に向かって坂を降りかけたところで藪がガサガサと音を立てた。
「危ない!」
アレクの叫び声がして、体当たりを受けて地面に転がった。振り仰ぐとアレクが短刀を持った覆面の男と組み合っている。体当たりをしたのはアレクのようだ。別の覆面三人がこっちに迫ってきた。彼らも短刀を手にしている。
「逃げて!」
アレクの声に弾かれて俺は坂を文字通り転がって下りた。男たちが追いかけてくる。
有久保邸の警備に当たっていた人たちが坂を駆けあがってくるのとすれ違う。
「押さえろ!」
警備の一人が叫んだ。俺は坂の下で起き直って振り向いた。警備の人が一人を投げ飛ばしたところだった。アレクの組んでいた相手をもう一人が地面に抑え込み、別の一人が覆面のもう一人と組み合っている。覆面の残った一人が、隙をついて男たちの間を抜けてこちらに走る。振りかざされた刃が光った。
やられる、と思った瞬間。俺の前に大きな二本の脚が立ちふさがった。
「遅くなってすまない、水垣君」
坂崎さんだった。覆面の男の腕をねじり上げている。短刀が手から落ちてコンクリートで舗装された地面で跳ねた。
「失態ですよ。坂崎さん」
いつの間にか坂崎さんの隣に命が立っている。水色のワンピース姿だ。
「申し訳ありません」
坂崎さんが低い声で非を認める。
エンジン音がした。坂の上にバンが見えた。男たちの間に突っ込んでくる。
「避けろ!」
俺たちは道から飛び退いた。バンは途中で止まった。運転席の覆面の男が何ごとかわからない言葉で叫んだ。警備の男たちの手を逃れた覆面たちが素早くバンに乗り込もうする。しかし一人が何かを叫び俺の方に短刀をかまえて走ってきた。俺の前に坂崎さんが回りこむ。だが、それよりも早く水色のワンピースが男の前に入りこんだ。一瞬の後、覆面の男が地面にたたきつけられる。
「がはっ」
覆面の下から悶絶する声が漏れた。命が男を押さえこんでいる。さすがは護身術を身につけているというだけはある。
ギアの切りかわる音がした。バンが坂の上へと逃げにかかる。そこに乾いた音が響いた。右の前輪の空気が抜けてバンが藪に後部から突っ込む。
見ると坂崎さんの手に拳銃があった。
「確保しろ!」
駆けつけた十人ほどが車を囲んだ。一人づつ降ろして手錠で拘束する。命が押さえつけていた男も二人がかりで拘束して、他の四人と一緒に連行していった。
「お嬢様。お手間を取らせまして」
「いえ。日ごろの練習の成果を発揮したまでです」
坂崎さんと命が談笑するのを俺は呆然と見上げていた。
「圭、大丈夫?」
アレクが歩いてきた。心配そうに俺を見る。立ちあがるために手を貸してくれたが、俺は脚が立たなかった。
「どうしたの?」
「脚が動かない」
「怪我したの?」
「いや、してない」
坂崎さんがかがみこんで俺の脚の様子を見た。
「いきなり命を狙われたショックで力が入らないんでしょう」
「もう、情けないですね。覚悟が足りませんよ」
命が腕組みをしてため息をつく。
「ひどいよ、命。いきなりこんな目にあったら誰だって驚くよ」
アレクが抗議してくれる。
「はいはい。坂崎さん、こんな場所にいつまでも座っていられても困ります。屋敷の方に連れて来てください」
「わかりました」
坂崎さんが俺を抱き上げた。軽々と俺を抱いたまま屋敷の玄関まで運ぶ。ソファーに降ろされた。
アレクがメイドに何かを言って、俺のそばに来る。
「すぐ濃いコーヒーを持って来てもらうから。気持ちがはっきりするよ」
「ありがとう」
気持ちははっきりしてるつもりだが、どうしてか足に力が入らない。
麗さんがやってきた。グレーのワンピースを着ている。この姉妹はワンピースが好きらしい。
「坂崎さん、状況は?」
「犯人は五人。全員確保しました。今、『客間』に収容しています。学園には出入り業者の車に乗り込んで来たようです」
「わかりました。県警との連絡を密に。強盗ということでよろしくお願いします」
「分かっております」
メイドが熱いコーヒーを持ってきた。
「圭、コーヒー来たよ」
アレクが手渡してくれる。
「どうも」
一口飲むと苦みが舌を刺激した。熱い液体がのどを流れる。それにつれて、体に血が通うのを感じた。手足の感覚が戻ってくる。右ひじがうずく。見ると擦り傷を負っていた。
「あ、血が出てるじゃないか!」
アレクが驚きの声を上げた。
「大したことないよ」
「いや、怪我は怪我だよ」
すぐにメイドに医者を呼ばせる。医者はすぐに来た。傷口を見て消毒液とガーゼと脱脂綿で簡単な治療をしてくれる。
「落ち着きましたか?」
麗さんが声をかけてきた。
「はい」
「立てますか?」
立ちあがってみた。少しふらつくが大丈夫だ。
「では、私と来てください」
「はい」
俺は歩き出した。アレクが俺を追いかけようとする。
「モロトフさんはここで、待っていてください」
麗さんがアレクを押しとどめる。
「お姉様、私も参ります」
命が麗さんの隣に立った。
「いいでしょう」
麗さんがうなずく。俺の方を見て促した。
「こちらへどうぞ」
通されたのは始めの日に話し合いをした、あの執務室と呼ばれる部屋だった。
俺と有久保姉妹はソファーに向かい合って座った。
「驚かれたでしょう」
麗さんが少しも驚いていない様子で話し始める。
「こんなことはいつもあるんですか?」
「そうですね。いつもというわけではありませんが、たまに起きます」
麗さんはあくまで冷静だ。
「あなたにも慣れていただく必要があります」
「僕がですか?」
どうもこの姉妹相手には「俺」と言いにくい。
「おわかりでしょうが、今日のはあなたの命を狙ってのものです」
俺は愕然とした。
「なぜ、僕が殺されなくちゃいけないんですか?」
「あなたがお姫様の結婚相手だからですよ」
命が少しいらだったように言葉をはさんだ。
「命を狙われるようなことなんですか?」
「残念ながら、命の危険のあることなのですよ」
麗さんが首を振った。
「ご存知のように、パントネーラは現在軍政下にあります。以前は王政だったのですが、ソビエト連邦成立後の共産化の波に飲まれて、王族が国を追われ社会主義政権が誕生しました。その後、ソビエト連邦が崩壊した後は民主化の波に乗って共和制に移行したのですが、混乱が続き軍部の台頭を許しました。そして今、再度民主化のうねりが起こって軍事政権を揺さぶっています」
かなり複雑な国のようだ。でも、それでなぜ俺の命が狙われるのだろう。
「それでなぜ自分に、とお考えのようですね」
麗さんは俺の心を見透かすように言った。
「あ、いえ」
「問題はここからです。パントネーラでは前回の民主化がうまくいかなかったのは軸となってまとめる存在がいなかったからとして、今回は国王を象徴として担ごうという動きがあるのです。もともと十九世紀に名君として名高い王が三代続いたという経緯もあり、王族への心情はそれほど悪くない土地柄です。しかし、この動きは軍部にとっては面白いはずがありません。それゆえ、世界各国に分かれて居住する王族に対して圧力をかけて来ているのです」
「暗殺も圧力のうちということですか?」
「もちろんです。他の王族の動きを抑える効果があるでしょう」
「お姫様と結婚したら、僕が国王になる可能性もあるわけですか?」
「いえ、それはありません」
麗さんは即座に否定した。
「パントネーラ王家は男系男子のみが継ぐことが出来ます。外から来た男性が王になることはできません」
ノックの音がした。
「どうぞ」
麗さんが返答をする。ドアを開けて坂崎さんが入ってきた。
「お話し中、すみません」
「いえ、どうしました?」
麗さんが立ち上がって坂崎さんのそばに寄る。
「配送業者と歩哨が見つかりました」
「怪我は?」
「ありません。藪の中に縛られて放置されていました」
「それはよかったですね。県警の方は?」
「到着しました。現在検証中です」
「五人の身柄は?」
「一度預けないとまずいでしょうな」
「預けても何か話すとも思えませんが、なるべくこちらで対処したいですね」
「わかっております」
麗さんと坂崎さんの話を聞きながら、俺は頭の中を整理していた。俺は王女の結婚相手に選ばれた。結婚しても俺は王になれない。その俺の命を狙ってこんなところまで刺客が来る。他の国にも王族は数多く居住しているらしい。どういうことだろう。何か変ではないだろうか。そもそも俺がどうして王女の結婚相手に選ばれたのかが謎のままだ。
坂崎さんが敬礼をして、部屋を出た。麗さんがソファーに戻る。
「さて、いずれ警察の方々があなたにも事情をききたいと言ってくるでしょう。その際にはこの事件がこの屋敷への強盗未遂事件であるとして話をしてください。あなたは強盗犯をたまたま見かけてしまい、巻き込まれただけということでお願いします」
「嘘をつくんですか?」
「これは高度に政治的な話です。真実を表に出しても無用に世間が混乱するだけです。それに県警上層部とはすでに話はついています」
麗さんはにっこりと笑った。底の知れない人だ。
「何かご質問は?」
俺はしばらく考え込んだ。尋ねるべきか黙っているべきか。目の前の俺とそう年の違わない女性がとてつもなく大きく見える。そんな相手に質問をぶつけるのが怖いような気がした。
しかしと、俺は思いなおした。これは俺の生命がかかっている話だ。はっきりさせる必要がある。
「知りたいことがあります」
俺は口を開いた。
麗さんがじっとこちらを見つめた。命は何を言い出すのかという顔をしている。
「知りたいのは、僕が、王になることもないのに狙われる理由です。見せしめと言うなら他にも王族はいるはずです。軍部はなぜわざわざこんなに遠い国まで来て、僕を狙うのですか? 僕はお姫様と結婚するかもしれませんが、しないかもしれないんですよ。それに僕のことはまだ公表されていないはずです。それなのに僕を狙って見せしめになるでしょうか? おかしくはないですか?」
俺のまとまらない言葉を麗さんはうなずきながら聞いている。
「だいたい、僕が結婚相手に選ばれた理由がわからない。僕が狙われるのもそこに原因があるんじゃないですか? 自分の身を危険にさらす以上、僕には本当のことを知る権利があると思います」
「全く、おっしゃる通りです」
麗さんがソファーに座りなおした。
「お姉様?」
命が麗さんの顔を伺う。
「命、あのことを話す必要があるようです。メラン先生を呼んでください」
「お姉様、でも……」
「呼んで来てください」
「わかりました」
命が立って部屋を出る。麗さんも立ちあがった。机の上のボタンを押す。
「話の前にジュースでもいかがですか?」
俺はちょっと迷ってからうなずいた。
メイドが来た。麗さんがジュースを四つ注文する。
「水垣さんはだいぶ海に行かれているみたいですね」
麗さんが俺に笑いかける。
「はあ、まあ週に一度ですが」
「すっかり日焼けして、こちらに来たばかりの時とイメージが変わって見えますよ」
「そうですか?」
「たまにはうちのビーチにもおいで下さい」
「あ、はい」
「もちろん今度は正面からですよ」
ジュースが来た。
「このジュース、おいしいですね」
「我が家のシェフの特製ですから」
シェフまでいるのか。さすがは有久保家だ。ジュースを半分飲んだところで命がソフィアさんを連れてきた。
「お姉様、メラン先生です」
「圭君が真相に近づいたとか。あのことをお話しになるのですか?」
「はい、先生。まずはおかけください」
二人がソファーに腰を下ろした。
「あのことというのは何のことですか?」
俺の問いに麗さんが少し考え込んだ。
「そうですね。まず、パントネーラ王家のことですが、現在男性がおりません」
俺は驚いた。
「男性がいないって、確か王になれるのは男性だけじゃ……」
「そう、男系の男子のみです。ですから、事実上パントネーラ王家は崩壊状態にあります。しかしそれでは困りますので、現在暫定で前の王の第一王女が女王になって一族の代表を務めています」
「それじゃあ、その女王様が亡くなったら……」
「別の王女が女王に立つでしょうね」
「王女がいなくなったら?」
「その時、王族は完全に消えることになります」
「女王に子供がいてもですか?」
「そうです。女王に子供がいても、その子供は男系ではありませんから、王権を継ぐ資格はありません」
ずいぶんと危機的な状況だ。もはやパントネーラ王家は消滅しかかっている。もし結婚したら、俺はそんな所に乗りこむことになるのか。
俺の様子を見ていた麗さんがきいた。
「ところで、水垣さん、男女の違いは何によるかわかりますか?」
「違いですか?」
俺はいきなりの質問に混乱する。
「その、体つきとかですか……」
「体の元となるものです」
命が割り込んできて俺の考えを修正する。
「遺伝子ですか?」
「そのとおりです。男性にはY染色体とX染色体が一つずつありますが、女性はX染色体が二つです」
麗さんがにっこり笑った。
「そこで、ここからはソフィアさんのアイディアになりますが。ソフィアさん、説明してくださいますか?」
俺の横に座っているソフィアさんがうなずいた。
「わかりました。説明します」
俺の方を向く。口調がいつもより丁寧だ。麗さん達の前だからだろうか。
「圭君。王子と一般市民の女性が結婚する場合と一般市民の男性と王女が結婚する場合の違いは何でしょうか?」
「身分とかですか?」
俺は戸惑いながら答えた。
「いえ、遺伝子レベルでの話で」
「ええと。わかりません」
ソフィアさんがふうと息をつく。
「子供の受け継ぐ遺伝子が違います。子供は両親の遺伝子をそれぞれに受け継ぎます。性染色体以外の二十二対の常染色体については、両親のどちらが王族であろうともそこに違いはありません。しかし、性染色体は違います。王族のY染色体が受け継がれるのは父親が王族の場合に限られます。わかりますか?」
「はあ、つまり王子の息子にしかY染色体が受け継がれないということですね」
「そうです」
ソフィアさんが身を乗り出してくる。
「つまり、男系男子に限るとする王権の継承条件は、二十二対の常染色体において半分王族の血を受け継いでいて、さらに王族のY染色体を受け継いでいることを条件としているということです。ということは王女の息子でも王族のY染色体が受け継がれていれば、王位継承権があるということになります」
ソフィアさんの考えがわかってきた。Y染色体さえ何とかすれば、女性ばかりの王族に新しい王子が生まれる可能性があるというわけだ。待てよ、それで俺がお姫様の結婚相手として選ばれたということは……。
「ちょっと、まってください。ということは俺を結婚相手に選んだ調査って……」
「その通りです」
ソフィアさんが指を振って円を宙に作り、大当たりという顔をした。
「ここに、あなたの遺伝子を解析した調査報告書があります」
麗さんが立ちあがって机の引き出しから紙を綴じたものを取り出してきた。
「いつ、そんなものを調べたんですか?」
「今年の春、血液検査を受けましたよね」
「あ、はい」
いわれてみれば、ゴールデンウィーク前に風邪をこじらせて病院に行ったときに血液を採られた。
「その検査を請け負ったのは有久保研究所、私が役員を務める会社です」
麗さんは笑みを浮かべたまま何でもないことのように言った。
「あの、本人の同意もなしにそんなことを……」
「あら、同意なら検査同意書にサインをしていただきました」
そういえば確かに何か紙に名前を書いた。しかし中身はほとんど見ていない。
「あの紙にそんなこと書いてあったんですか?」
「『研究に利用します』と書いてあったはずです。ちゃんと同意書まで取るのはうちくらいじゃないかしら。コンプライアンスには気をつけているのですよ」
いや、遺伝子を勝手に調べるのは研究といえるのだろうか。コンプライアンスってたしか法令順守って意味だっけか。それ以前の問題のような気がする。
「そんなことを日本中でやってるんですか?」
「うちは海外支社もありますから、世界二十九ヶ国で行なっています」
俺は三人を見回してみたが誰も問題を感じている様子がなかった。どうやら、この人たちには俺の常識は通用しないらしい。
「それだけの人を調べて、たまたま俺の遺伝子があたりだったということですか」
「そのとおりです」
ソフィアさんが俺の手を取った。
「Y染色体上には遺伝子は七十八個だけ。それであれば総当たりで探せば同じようなY染色体をもつ人が見つかるかもしれない。そう考えて麗さんに依頼して調べてもらったのです。始めは王族関係者、それからパントネーラ出身者、次は近隣諸国、と調べて行きました。途中であまりの一致率の悪さに断念しようと何度か思いましたが、そのたびにあと少しあと少しと粘って、そして圭君に出会ったのです。ルウデナ様のお父様の遺髪から取り出したY染色体上の遺伝子と、七十八個中七十七個までが一致でした。結果を聞いた時はまさに奇跡と思いました」
その時の熱狂を思い出したのか熱に浮かされたような顔をする。
「あの、そこまでするくらいなら、遺髪の遺伝子を使ってクローニング技術とかを応用して子供を作った方が早かったのではないですか?」
俺の疑問にソフィアさんは首を振った。
「遺伝技術はまだそこまでいってません。それにいきなりそういう技術を使うのは危険すぎます。まだまだ子供を得るのは自然に従うのが一番です」
「そ、そうですか」
綺麗な人に手をつかまれて「子供を得る」話をされるのはなんだか照れる。
「というわけで、水垣圭さん、あなたはパントネーラにとって特別な存在になったわけです」
麗さんが手にしていた書類をテーブルに置いて宣告した。
何か不安な物を感じる言い方だった。「特別な存在になった」というのは決して良い意味ばかりではないような気がする。確認が必要だ。
「あの、特別な存在になったということは、僕は生きている限りパントネーラ王室と関連付けられて考えられるということですか?」
「そのとおりです」
麗さんが重々しくうなずいた。
俺の頭の中をさまざまな考えが走り回る。まずは落ち着こう。俺は残っていたジュースを飲みほした。そして考えついた中で一番まずいことを尋ねてみる。
「と、いうことは、これがもし軍事政権に知られたとしたら、どうなるんですか?」
「そう。そこが問題であり、さっきのあなたの問いの答えとなります」
麗さんが落ち着きはらって答えた。
「軍事政権側からすると、民主化勢力に担がれて出てきそうなパントネーラ王室がこのまま自然消滅すれば一番都合が良いに決まっています。あなたはさっきなぜ自分が狙われるのかと尋ねられましたが、消えるはずの王室が復活するかもしれないという情報を軍部が入手したならば、その原因であるあなたを消そうと思うのは必然でしょうね」
ちょっと待ってくれ。「消」すのが「必然」って何なんだ。なんでそんなことに俺が巻き込まれないといけないんだ。
「軍事政権が消えるかどうかしない限り、俺は狙われるということですか?」
声が震える。思わず「俺」と口走ってしまう。
「そうですよ。お姉様が言ったではないですか。覚悟なさい」
命が力強く叱咤する。
「覚悟って。俺に死ねというんですか? そのためにここに呼んだとでも?」
力が入ってつい声が裏返る。もう、「俺」で通すことにした。
「もちろん違います。そのために坂崎さん達がここにいるのです」
麗さんは相変わらず落ち着いていた。
「そして、あなたをこの学園に招いたのもあなたを暗殺の危険から守るためです」
結婚のことを考えるために学園に来てくれという話にはそういう裏があったのか。しかし、結婚したら王族として守ってもらえるだろうけれど、もし結婚しなかったらその後はどうなるのだろう。
「もし、俺が結婚を選ばなかったら?」
「その場合でも危険がなくなるまで、有久保家の総力を持ってあなたを守ることをお約束します。それがあなたを巻き込んだ責任だと考えています」
「それって、もう普通の生活送れませんよね」
俺はがっくりとソファーに身を沈めた。
「そうですね。でも、水垣さんさえよろしければ、有久保産業あたりに席をご用意できます。また、働かなくともそれなりの生活が出来るようにもご用意できます」
何もせずに一流企業に就職出来るとか夢のニート生活を保障とか素晴らしいとしか言いようがないが、それも命の危険や常にボディーガードつきという束縛を受け入れての話だ。いやちがう。受け入れる受け入れないの問題じゃなかった。俺に選択できるのはお姫様と結婚するかしないかだけなのだ。常に危険にさらされる普通じゃない生活はもはや決定事項だ。取り消しようがない。
俺は急に何かに押しつぶされるような感覚に陥った。気持ちが窮屈でならない。
「何か質問はありませんか?」
麗さんがにこやかに尋ねる。俺はうめくように尋ねた。
「なぜ、そこまでパントネーラのためにするのですか?」
「それは義理もありますが、グループの地域戦略上の利点もあってのことです」
麗さんは淡々と答える。俺はふと思いついたことを言ってみた。
「あの、参考までに教えて欲しいんですけど、なぜ俺の相手がルウデナ様になったんですか。王女はたくさんいるんですよね」
命が姉に代わって答えた。
「ルウデナ様は日本で生まれて日本で育たれたので、日本語が得意で日本文化に理解があるからです。ルウデナ様に何かご不満でも?」
かなり攻撃的な物言いだ。
「あ、いえ。きいてみただけです」
なんで命がつんけんするのだろう。
「もう一ついいですか。あの、坂崎さんはこのことを知っているんですか?」
今度は麗さんが答える。
「あなたがルウデナ様の結婚相手に選ばれたとしか知りません。それ以上の知識は彼らには不要ですから」
「圭君が特別な遺伝子の持ち主であると知っているのは、ここにいる四人とルウデナ様だけです」
ソフィアさんの言葉に納得いかないものがある。
「それだけの人しか知らないなら、なぜ今日僕は狙われたんですか?」
「それは多分……」
麗さんが言いかけて言葉を切った。
「多分私が特別な遺伝子を探していることは王族関係者などの多くの人が知っていたから、その私が連れてきた男性がいたということで推測されたんだと思います」
ソフィアさんが引き取って説明する。
そうか、それで携帯電話にスパイアプリが仕掛けられたときに俺とソフィアさんの名前がセットになっていたことを気にしたのか。
「それじゃもう、俺がその遺伝子の持ち主だということを隠してる意味がないじゃないですか。一番の敵に知られているんだから」
不思議と笑いが出た。驚き過ぎて感覚がマヒしてしまったのかもしれない。
「それはそうなんですけれど。まだ、軍部も確定情報ではないので様子見程度の人員しか動かして来てないようです。それに余計な敵を作りたくもないですから、まだ当面は秘密のままでお願いしますね」
麗さんが笑顔で言葉を返してくれる。
「余計な敵って?」
「例えば報酬目的で動くような人々のことですよ」
確かにそう言う手合いが出てくると面倒だ。
「分かりました。黙っています」
俺は笑みをひっこめてうなずいた。
「他にお尋ねになりたいことはないですか?」
もう一つ尋ねたいことを思いついた。
「あの、ここの警備に当たっている人たちは何者ですか?」
「内密のことなので本当はお教えできないのですが、ここまでお話ししましたことですしお教えしましょう。彼らはルウデナ様を守るために国から派遣された警察などの合同チームです。ルウデナ様がこの屋敷におられることは秘密事項ですので、このことは他言無用でお願いいたします」
それで坂崎さんが拳銃を持っていたのか。
「警察がボディーガードもしているんですか?」
「ルウデナ様とあなたについてはそうです。でも、私たちのボディーガードのことをおっしゃっているのでしたら、それは違います。あれは有久保家で雇っているものたちです」
そうだったのか。どちらも屈強の男性たちだから見分けがつかなかった。
「実は水垣さんについては遺伝子検査の結果が出てからすぐに当方のボディーガードをつけまして、この学園に着くまでずっと守らせていたのですよ」
それは全く気がつかなかった。どこにいたのだろう。
「気がつきませんでした」
俺の正直な答えに麗さんは微笑んだ。
「でも、奥村には会いましたよね。あの男がボディーガードチームのトップです」
俺は奥村さんのひょろりとした背格好を思い出した。とてもそうは思えない。
「ああ見えて、元傭兵で戦闘のスペシャリストなんですよ」
「そうなんですか」
人はみかけによらないものだ。
「もうないですか?」
「ありません」
とりあえず疑問は解消できた。だが、胸の奥にもやもやとしたものが残る。
「では、玄関に戻りましょうか。県警の方が事情を聞きたくてうずうずしていることでしょうから」
麗さんが立ちあがった。俺たちもそれにあわせて立ち上がる。俺は少しよろけた。ソフィアさんが腕をつかんでくれる。なんだか上半身が石になったように重く感じた。
玄関に戻ると刑事が数人来ていた。事件現場である坂道の所に連れて行かれる。
大まかな話はすでに坂崎さん達がしていた。それによると、俺たちは藪に潜んだ強盗団に気がついてしまって襲われかけたところに坂崎さん達が到着、そこに犯人の一人が運転する車が突っ込んできたので坂崎さんが発砲した、ということになっていた。俺は覆面の男に襲われかけた状況と車が突っ込んできた場面についての話を聞かれて、あっけなく解放された。
寮の玄関に行くと、立ち入り禁止のロープの前に数人が固まっていた。その中から宮田が声をかけてくる。
「おい、外国人強盗団だって?」
「ああ、そうみたいだな」
「お前も見たのか?」
「ナイフで襲われかけたよ」
「すげーな」
宮田の目が輝いている。こっちは殺されかけたというのに喜ぶなよ。
「全然すごくないよ。酷い目にあった」
宮田が俺の腕に目をとめた。
「怪我してるな。切られたのか?」
「いや、襲われた時に転んだんだ」
「パーンって音がしたよな。何だったんだ、あれ」
「車が突っ込んできたからな。警備の警察関係者が発砲したんだ」
坂崎さん達のつくったストーリーをなぞって答える。
「そうか。警備の人たちはやはり警察だったのか。さすが有久保家だな」
そうじゃないのだけど、と思ったが本当のことは言えない。
「しかし、有久保邸に白昼堂々強盗に入ろうなんて大胆な奴らだな」
「そうだな」
俺は話を受け流して玄関を入った。
「どこに行くんだ?」
後ろから宮田が呼びかける。
「なんだか疲れたから、休みたいんだ」
俺は二階に上がって部屋に戻り、自分のベッドに横になった。
頭がぼうっとする。机の上に目をやると今日の分の課題が途中のままだ。しかし、今はそれどころではない気分だった。だいたい勉強することに何の意味があるのだろう。例え落第して大学に行けなかったとしても有久保家が何とかしてくれる。そういう話を聞いたばかりだ。寝てしまいたいと思ったが興奮状態にあるみたいで眠くならない。
しばらく横になっているとアレクが帰ってきた。
「圭、大変だったね」
「おまえもな」
俺は力なく答えた。
「圭、どうした? どこか悪いのか?」
俺の様子に普段と違うものを感じたのか、アレクが心配そうにベッドのそばまで来る。
「どうもしないよ」
「本当か?」
「本当だよ」
いらついて強い調子で答えると、アレクは共有スペースに行ってしまった。怒らせただろうか。少し心配になる。しかし、食器の音とポットの音がしてアレクはまた来た。
「圭。紅茶を淹れた。飲んで」
起き上がるとカップを手渡してくれる。
「ありがとう」
一口飲むと柑橘系の香りが鼻に抜けた。アールグレイだ。ほっと心が和らぐ。
「圭、突然のことに疲れてしまったか?」
「まあ、そうだな。お前は驚かなかったのか?」
アレクは少し考えてから答えた。
「驚いた。でも、圭を守りたいと思って頑張った」
「俺はお前の彼女かよ」
アレクは笑った。
「違うけど。ルームメイトね。大事な仲間」
「そうか。ありがとうな」
素直に感謝する。実際、アレクがいなかったら俺は刺されていたに違いない。いわば、命の恩人だ。
「圭。課題やりかけたまま」
アレクが椅子に座って机の上を見た。
「やりたくないんだ」
俺はため息をつく。
「そう。それもいいね。たまには休むことも大事」
たまにではなく、ずっともう勉強をする気持ちがなえてしまったのだけど、それはアレクには言えない。ルウデナ姫のことから説明しないといけなくなる。
「私も勉強するのが嫌になることある」
アレクが机の上のプリントをいじりながら言う。
「私、ずっと一人だった。両親いないし、祖国にも帰れない」
両親がいなくてロシアに帰れないとは何があったのだろう。
「時々思い出してつらくなる。生きている意味ないとおもう」
「アレク。そんなことないぞ。お前はいいやつだ。生きている意味あるぞ」
俺は思わず声を発した。
「ありがとう。そう言ってくれたの圭が初めて」
アレクは少しさびしそうに笑った。
「辛くなった時、思うね。努力なんてする意味ないって。私が消えてしまえば努力した痕跡なんて何も残らないって」
そうだ。努力して何の役に立つのだろう。勉強に何の意味があるのだろうか。俺が消えてしまえば努力の成果など何も残らないのだ。例え俺が一流企業で働くようになったとしても、あるいは俺がニートになって何もしなかったとしても、そこに何か残るだろうか。企業で業績を上げたとしてもそれは俺じゃない誰かがやっても同じことだったりしないだろうか。あるいは科学者になってノーベル賞級の発見をしたとして、もしくは作家になってベストセラーを発表したとして、でもそれは俺がいなくてもすぐあとから来た誰かによって同じことが起きるかもしれない。俺がやることに何の意味があるだろう。
「そんなとき、どうするんだ?」
俺は黙り込んだアレクにきいてみた。アレクは首を振った。
「わからない。気がつくとまた勉強をしている」
「意味ないのにか?」
「うーん、なぜかな。多分、私が自分を好きになりたいから。誰かに好きと言ってほしいから、かな」
言ってからアレクは少し恥ずかしそうにした。すっと立ち上がる。
「寝てるといいよ。夕御飯の時、呼びに来るね」
自分のスペースの方に行ってしまった。
俺はカップをベッド近くの本棚の二段目において、横になった。
アレクの言葉を考えてみる。
アレクは「自分を好きになりたい」と言った。自分で自分を好きになるとはどういうことだろう。自分が消えてしまえば何も残らないことには違いない。でも、自分は納得して消えることが出来るかもしれない。それは大きな違いだ。その人生は自分にとって生きる意味がある人生だろう。そうだ。考えるべきなのは「誰かにとって」ではなく、「自分にとって」意味のある人生だ。それがたとえ他人の目から見て誰かと交換可能な人生でしかなかったとしても、自分にとって意味のあることなら自分は満足できる。
俺は自分の人生を振り返ってみた。ここまで、あまりいいことのない人生だった。小学校ではよくいじめられたし、中学ではクラスで小さくなって過ごした。そのせいか、だんだんと勉強も嫌いになった。高校受験も本当はクラスのあこがれの女子と同じ学校を受験したかったけれど、三者面談で実力不足を指摘されて、担任の勧める二又瀬高校をえらんだ。高校入学後もやりたいこともなくただ漫然と家と学校を往復するだけだった。
でも、この学校に来てからは違うような気がする。俺は宮田たちの顔を思い浮かべた。彼らと過ごす海での時間は楽しい。指示を出したり採点をしたりする命や、丁寧に教えてくれるソフィアさん、本を読みながらそばで見ていてくれるアレクの顔を思い浮かべる。勉強も前ほど嫌ではない。その日のノルマをやり終えた時の達成感が心地いい。着実に技量が身についている実感もある。
もう一度、この先の人生を考えてみた。
たとえ失敗して有久保家の助けを求めることになったとしても、自分の力で自分にとって意味のある人生を歩んでみたい。最初から有久保家に頼るような人生では、多分俺は自分に満足して死ねない。そのための勉強なら意味がある。
ルウデナ姫の写真が頭の中に浮かんでくる。お姫様との結婚はまだ思い描けないけれど、どうせなら好きになってもらえる人間になりたい。そのためには自信をつけたい。
いろんなことに向けて頑張ってみようと俺は心を決めた。
大きく伸びをして息を吐いた。凝り固まったものがほぐれていく。考えがまとまったことで何かが開けた気分になった。
気持ちがほぐれると、緊張と興奮で忘れていた疲労感が体に広がってきた。
気がつくと俺は寝てしまっていたらしい。
「圭、ご飯行くよ」
アレクの声で目が覚めた。俺は勢いをつけて起き上がった。
「よし、行くか」
「よかった。元気になったね」
アレクが笑った。