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通信

 授業は四時間で終わった。掃除の後のホームルームがあって放課になる。

(けい)、帰ろう」

「ああ、帰るか」

「寮に帰るんだろ、一緒に帰ろうぜ」

 アレク、宮田と教室を出た。ずっしりとした重量が右手に食い込む。紙袋だ。

「それ、すごいな」

 宮田に言われて紙袋を持ち上げてみせた。

「持ってみるか?」

「やめておくよ」

 紙袋の中身は各教科のプリントと参考書と問題集だ。休み時間にソフィアさんに職員室に呼び出されて渡された。夏休みの間にやっておくようにということだった。

「悲惨だな。夏休みを休めないだろう」

「勉強漬けだよ。まあ、ずっと寮だからちょうどいいかもしれないけど」

 俺は憂鬱な声でうめいた

「なんだ。お前帰らないのか」

 宮田が嬉しそうな声を出す。

「どういう意味だ?」

「いや、俺も帰らないんだよ。というか俺、ここが地元なんだけど家がせまくてさ。それに親がいろいろうるさいから、勉強に集中したいって言って寮に入ったの」

「とんでもないやつだな」

 寮費だって馬鹿にならないだろうに。

「なんとでも言え。俺は自由が欲しかったんだよ。四人部屋だけどな。それで、お前はなんで帰らないんだ?」

「いや、親の都合で……」

「そうか。大変だな」

 勝手に嘘が口をついて出た。意外と嘘つきの才能があるのかもしれない。

「圭、私もずっと寮にいますね」

「まあ、アレクはそうだろうな」

 休みのたびにロシアに帰ってもいられないだろう。

「寮にいるなら、一緒に遊ぼうぜ」

 宮田は楽しそうだ。

「遊ぶって何をするんだ?」

「いろいろだよ」

「トランプとか?」

「地味な奴だな。ここならなんといっても、海だよ。目の前にあるからな」

「このへんで泳げるのか。教室から遠くに砂浜は見えたけど」

「ああ、神の松原な。そんな所まで行かなくて近くにあるんだよ」

 宮田が片目をつぶる。

「近くって?」

「校舎の裏だよ」

「校舎裏って崖じゃないのか?」

 校舎はかなり高いところに立っている。海面との差は二十メートルはあるだろう。教室の窓からのぞきこんでみた感じでは、木にさえぎられてよく見えなかったが、すぐ下まで海が来ているようだった。

「そうとも、崖だよ。でも、その崖を下りる細い道がついていて、そこを下りると小さいけど砂浜があるんだよ」

「へえ、それはいいな」

「だろう。岩場もあって魚も多いからから、泳いでよし釣りをしてよしの絶好の遊び場なんだよ」

 ちょうど、階段を下りてピロティに出たところだったので、見回してみた。それらしい道は見当たらない。

「どこだ?」

「下り口か? あの南階段の裏のあたりだな。まあ、あわてるな。あとで案内してやるから」

「楽しみにしておくよ」

「おう、任せとけ」

「アレクは行ったことはあるのか?」

 さっきからアレクは会話に参加せずににこにことしている。

「私は運動できないので行かないね」

「アレクは何度か誘ったんだがなあ、行きたくないって言うんだ」

 見てるだけでも楽しそうだと思うのだが、好みの問題だろうか。

「私、本を読んでる方がいいね」

 まあ、本人がそう言うなら仕方ない。

「他には何があるんだ?」

 何気なく尋ねた問いに、急に宮田のテンションが下がった。

「他にかあ、他にねえ。ここ田舎だからなあ。天体観測と後は虫取りぐらいかなあ」

「虫ねえ」

「あ、馬鹿にしたな。ここいらでも結構凄いのが採れるんだぞ」

 そう言うと寮へ曲がる角に立つ大きな楠の木を指した。

「この木なんかでもけとばしたら、大きなクワガタが落ちてくるんだからな」

 宮田が幹を蹴ろうと足を上げたときに後ろから声がした。

「虫を落とさないでくださいます?」

 (みこと)だ。宮田は足をひっこめた。

「それが、先生方の用意した特別メニューですか」

 命が紙袋を指した。

「あ、はい」

「それでは、さっそく今日からお勉強ですね」

「は、はい?」

 今日からって、まだ夏休みは始まってませんけど。そう言いそうになったが、命の笑顔に威圧されて言葉が出ない。

「お昼を食べたらお部屋に参ります。準備をして待っていてください」

 それだけ言うと命は有久保(ありくぼ)邸の方へ歩き去った。宮田が駆け寄ってくる。

「お、おい。どういうことなんだ? お嬢様自らお前の勉強を手伝うなんて」

「あ、えーと。それはだな、転校が決まった時にいろいろあってだな」

 言い訳をしてみたが、宮田は納得してはいない顔だ。

「まあ、目をつけられたというか……」

「お前、実はとんでもない筋の御子息なのか」

「いや、そんなことないよ。まったく」

「ほんとか?」

「ほんとだよ。ただ、流れでそうなってしまっただけだ」

 強弁してみたが、余計に怪しまれた気がする。

「命が来るなら、ロシアンティーの準備をしておこう」

 アレクは一人で楽しそうにしている。俺はちいさくため息をついた。


 部屋に戻り食事を済ませてから机の上に紙袋の中身を取り出してみた。机の上を埋め尽くす、その物量に圧倒される。

 ドアをノックする音がした。

「はいはい」

 アレクが対応する。

「圭。命来たよ」

 もう来たのか。俺は自分のスペースを出た。

「命さんすみません。わざわざ……」

 言いかけて目を見張る。命の後ろから赤い髪の女性が入ってきたのだ。

「ソ、あ、いや、メラン先生」

「はい、圭君。お勉強をしましょうね」

 ソフィアさんが笑顔で手を振る。

「あ、はい」

「ソフィア、命、お茶をどうぞ」

 アレクが二人に椅子とお茶を勧めた。どこから取り出したのかちゃんとティーカップと小皿が四つずつテーブルの上に並んでいる。

「ありがとう、アレク」

 二人が椅子にかけた。

「圭、椅子足りないから、自分の所からもってきて」

 アレクに言われて勉強机の椅子を持ってくる。アレクも自分の椅子を持ってきた。四人でテーブルに向かう。紅茶を飲んでは小皿に取り分けられたジャムをさじでなめる。これがロシアンティーというものらしい。

「狭いですね」

 空になったカップをテーブルに置いて命がつぶやいた。当然だろう。テーブルは二人が向かい合って座るだけの大きさしかない。共有スペース自体がそれほど広くないので、四人が座るともう他に人の入る余地がない状態になる。すぐ隣に座るソフィアさんの白い右腕が俺の左腕に触れそうで細心の注意を必要とするくらいだ。

「これは他の場所を使うことも考えたほうがよいかもしれませんね」

 命が狭い場所で器用に腕を組んだ。

「まあ、いいでしょう。それは後で考えることにします。水垣さん、まずは勉強のメニューが書かれたプリントを持って来てください」

 言われて椅子を後ろに滑らせ、机に移動する。そんなプリントあっただろうか。なかなか見つからない。

「ありませんか?」

「圭君、横長のプリントよ」

 ソフィアさんが助けを出すが、横長のプリントだらけだ。そうこうするうちにソフィアさんが席を立ってやってきた。腕を伸ばして指し示す。

「これこれ」

 言われてソフィアさんのほうを振り向くと半袖のブラウスの袖口から無防備な脇が見えた。その白さに思わずはっとする。

「これよ」

 俺の様子には気にもとめず、ソフィアさんがプリントをつまみ上げて見せてくれた。たしかに「水垣圭用自習課題一覧表」と書かれている。

「先生、英語の課題も持って来てください」

「はい、わかりました。圭君、これね」

 参考書を二冊選んで俺に渡す。

「おまたせしました」

 ソフィアさんと俺はテーブルに戻った。テーブルの上は片付けられていた。命とアレクがプリントをじっと見る。

「いえいえ。それでは早速検討しましょう。まずは英語ですが……」

「ちょっと待ってください」

 俺は異議を唱えた。

「なんですか?」

「あの、アレクもこの話に参加するんですか?」

「ルームメイトがチャレンジするのを助ける、当然のことね」

 アレクが親指を立てる。

「アレクもこう言ってくれていることですし。彼は頼りになりますよ」

 命が賛同する。

「そうよ、圭君。見方は多いほうがいいわ」

 ソフィアさんも同意した。一対三である。俺の異議は却下された。

「まずは英語です」

「この二冊です」

 憮然とする俺を無視して話は進んだ。

「片方は一年生の副教材ですね。長文読解の問題集です。一、三、六、八、九、十二章を読んで問題をやること、ですか」

「簡単だね」

 アレクが気楽に言う。こいつはロシア語と日本語に加えて英語も得意なのだろうか。

「付箋をしておきましょう」

 命が付箋を取り出して俺に渡す。俺は指示されたページに付箋を貼った。

「水垣さん。さっそく今日のうちに第一章をやっておいてください。明日、答え合わせをします」

 そんなことを言われても英語苦手なのに。

「辞書使ってもいいですか?」

 恐る恐る聞いてみる。

「許可します。ただし翻訳サイトによる翻訳は不許可です。間違えやすいですから。そんなことをするくらいならメラン先生に聞いてください」

「はい」

 先生に尋ねるのもありなのか。少し気が楽になる。

「それではもう一冊の方ですが……」

 ノックの音がした。ドアが開く。しかしドアは半分開いたところでソフィアさんに当たって止まった。

「あ、ごめん。じゃなくて、すみません」

 宮田だった。ソフィアさんに謝っている。

「何か用ですか?」

 命が座ったまま体をよじって宮田を見上げた。

「いや、水垣を海に誘おうかと思って」

「今は会議中です。また別の時にしてください」

 無情の宣告が下る。俺は宮田に両手を合わせて頭を下げた。

「そっか。お邪魔しました。水垣、また今度な」

 ドアが閉まった。

 命による課題の査定と割り振りは、英語、数学、現代文、古文、漢文、物理、化学、日本史、現代社会と続いた。課題の中身は一年生のやり直しと二年生の勉強に追いつくためのものの二つに分けられた。それを命は蛍光ペンで色分けしながら、作業量を考えて夏休みの日程に流し込んでいく。

「……ん、これは平日に二ページづつやれば終わりますね」

「土日は空けておくんですか?」

 手書きの日程表を見ながら、俺は尋ねた。

「土日は予備日です。まだ明日渡される夏休みの宿題があるんですよ。平日だけでは終わらなくなるのが目に見えています」

 命の言葉にげんなりする。まだ、別に宿題があったとは、俺だけこのメニューをこなしたら宿題を免除されたりしないものか。ソフィアさんを見るがソフィアさんは何を思ったか、にっこり笑って言った。

「英語の宿題は大したことないわ。大丈夫」

 しっかりとあるらしい。しかも結構な量のようだ。教師が大したことないというときは大抵かなりの量だということに昔から決まっている。

「とりあえず今日やるのはこれだけですね」

 命がペンを走らせた。漢文の問題集一ページ、古文の問題集二ページ、数学の問題五問、物理の問題四問、化学のプリント一枚と、英語の長文が一問だ。

 俺はめまいがした。

「では、さっそく英語からですね。水垣さん、メラン先生に見てもらってください」

「あ、はい」

「じゃあ、圭君の机で勉強しましょうか」

 ソフィアさんが立ち上がる。

「命はどうするの」

 アレクが尋ねた。

「今日はこれで帰るわ。やることがあるの」

 命がアレクだけに見せる顔で答える。

「ダスヴィダーニャ、命」

「ダスヴィダーニャ、アレク」

 二人は親しげに言葉を交わした。別れのあいさつらしい。

「あ、ありがとうございました」

 俺は課題を仕分けしてもらったことへの礼を言った。

「いえ、どういたしまして」

 素早くかつ音もなくドアが閉じて、命は行ってしまった。

「じゃあ、私は本を読んでるから、数学とかになったら呼んでください。私、数学と理科得意ね」

 アレクはそう言って自分のスペースに入って行く。俺はテーブルの上の問題集とプリントを片付けて机の方に移動した。


 長文読解はそれほど難しい単語はなかった上にいくつかの単語には注釈もついていたが、意味が途中で分からなくなることの連続だった。

「先生。ここなんですが、前の文との意味のつながりがわからなくて」

「この文はね。仮定法になっているの。だから、この部分は『もし文明が進化していなかったとして』と訳すのよ」

「えーと、つまり『人間に大切なのは倫理である。もし文明が進化していなかったとしても倫理は人類社会の最も大切な要素となるだろう』ということですか」

「そのとおり。その調子で読み進めて」

「はい」

 ソフィアさんの解説で気分をよくして先に進もうとしたところに携帯電話が鳴った。

「あ、電話?」

「いえ。これ、メールです」

「見てみたら?」

「いいんですか?」

「どうぞ」

 俺は携帯電話を取り出した。父からだ。開いてみたが本文は何も書かれておらず。短縮URLが貼り付けられている。どういうことだろう。URLをクリックしてみる。一瞬画面に何か表示が出たかと思うといきなり携帯電話が再起動した。

「えっ?」

「どうしたの?」

 ソフィアさんがのぞきこんでくる。

「それが変なメールが来て、URLをクリックしたら再起動したんです」

「ちょっと貸して」

 俺から携帯電話を取り上げると目にもとまらぬ速さで操作し始めた。

「メールはこれね。あ、まずいのが入ってる。ちょっと、アドレス帳は……。あなた、私の電話番号を登録してたのね」

「え、あ、あの」

 突然言われて、あわててしまう。いけないことだっただろうか。父がもらった名刺に書かれていた番号を何かの時に必要かと思って登録しておいたのだが。

「責めてるんじゃないのよ。でも、ちょっとまずかったかなあ」

 携帯電話を操作しながらソフィアさんが顔をしかめる。

「ほら、これとこれ。二つもスパイウェアが入りこんでいる」

 画面を見せられた。何かのアプリの検索結果の画面らしい。二つのアプリの名前が載っている。両方ともゲームアプリを紹介するサイトで、二か月前と三か月前に無料ゲームとして紹介されていたのをインストールしたものだ。

「それとさっきのURLのやつがこっちね」

 別のアプリのアイコンを指し示す。見たこともないアプリだ。

「こっちの二つはいつから入ってた?」

「二ヶ月くらい前からですけど」

「私があなたの家に行った時から後は起動してない?」

「はい」

「そうなんだ。それなら大丈夫かも。この携帯、しばらく借りていいかしら」

「あ、はい」

 ソフィアさんは立ちあがった。

「私、調べなきゃいけないことが出来たから行くわね」

「え、あの。英語は?」

「続きはアレクに見てもらって。アレクはこの問題集をやったことがあるから。じゃあね、圭君」

 あっけにとられる俺を置いてソフィアさんは俺のスペースを出た。

「アレク。後はお願い」

「わかりました」

「じゃあ、ダスヴィダーニャ」

「ダスヴィダーニャ。ソフィア」

 ソフィアさんは行ってしまった。

「圭、何か失敗した?」

 アレクが文庫本を片手に顔を出す。

「わからないよ。携帯にメールが来ておかしくなったんだけど、それをメラン先生に言ったら携帯を持って行ってしまった」

「ソフィアは情報技術に詳しいね。いろいろ調べてくれるよ」

「そうなんだ」

 英語教師に理事に情報技術とは、多才な人だ。

「私がソフィアの代わりに教えるね。分からなくなったら聞いて」

「ありがとう」

 アレクは椅子に座って本に目を落とした。俺は気を取り直して問題集に取り組む。

 しばらくするとまた引っかかるところが出てきた。

「アレク、ちょっといいか」

「はい」

「ここなんだけど、わからないんだ」

 アレクは英文に目を通すと解説抜きで言った。

「これは、『科学の進歩につれて医学も進歩したが、人間にとって大切な物は何も変わらない』という意味だよ」

「あ、そういうことか」

 さすが英語の課題を簡単だというだけのことはある。

 その後も詰まるたびにアレクに解説してもらって文章を読み進め、最後に問題に解答をした。アレクは問題についての質問は受け付けなかった。「答えになることは教えられないよ」ということらしい。

 次は数学だ。まずは因数分解の問題だ。これは自力で何とかなった。次の関数の問題で引っかかる。xとyともに二次の式であらわされており、グラフがどんな曲線になるか見当もつかない。うなっているとアレクが寄ってきて、計算用紙にさらさらと式変形をして見せた。綺麗な形になる。

「これは楕円の式ね」

「ありがとう」

「それから、その因数分解は間違ってるね」

 アレクは俺の答えを見て言った。

「そうか?」

「ほら、ここ。符号が逆になっている」

「ああ、ほんとだ」

 数学はその後の問題をどうにか乗り切って、物理に入った。

 一問目の速度・加速度の問題で問題文の意味がわからなくなってさっそくアレクの教えを乞う。

「どうするんだ、これ」

「まず公式を書くんだよ。初速度と距離が与えられていて最終的に速さは0になる。それで加速度を求めるんだから使う公式はこれだ。後はこれに数字を入れたらいい」

「はあ、なるほどな」

 言われたとおりにすると答えはすぐに出た。二問目も同じような問題だ。

「これは初速度と速度と加速度が与えられていて時間を求める問題だから、この式を使うんだな」

「そういうこと」

 三問目と四問目はベクトルの問題だった。これは一人で解けた。物理が終わったのを見てアレクは自分のスペースに帰ろうとした。

「おい、まだ化学があるぞ」

「そのプリントは計算ないから私の出番ないね」

 確かに今日の分として指示された化学のプリントは元素についての問題だった。計算要素は電子の数の足し算くらいだ。仕方ないので必死に空欄を埋めていく。

 書き終えたところにアレクが呼びに来た。

「そろそろ夕食を食べに行くよ」

 時計を見るともう夕方の五時だった。


 夕食の後に古文漢文の問題集を済ませ、一息つくともう消灯時間だった。俺の登校初日はこうして終了した。

 翌日は終業式である。式は体育館で行われた。二階の渡り廊下は体育館の三階に接続していて、ぞろぞろと階段を下りて体育館に入った。なかなか立派な体育館でバスケットコートがたっぷり二面とれるようになっている。そしてステージが広い。

 俺たちは整列して山本校長の夏休みを迎えるにあたっての心構えの話を聞き、生活指導の先生の諸注意を聞いた。こういう話はどこの学校にいっても、それほど変わらないもののようだ。話が右耳から左耳に抜けていくのを感じながら、号令にあわせて立ったり座ったりしているうちに式が終わった。

 教室に帰ると通知表と夏休みの宿題を受け取った。宿題は一人一人にプリントが束で渡された。なかなかの重量感だ。

「長い休みに入るが、決して浮かれることなく自己鍛錬を怠らないように。要するに勉強をしておけということだ。では、以上だ」

「起立、礼」

 工藤先生が行ってしまうと、宮田がやってきた。

「よう、水垣。今日は海行くか?」

「いや、無理かも。課題の量がすごいんだ。昨日も消灯時間直前までやってたんだよ」

「そうか、不幸だな」

 宮田が不憫そうな目で見る。

「昨日は海行ったのか?」

「ああ、アジを釣ったよ。小さい奴だけどな」

「へえ。それ、どうするんだ?」

「食堂のおばちゃんにフライにしてもらったよ。だから昨日は俺たちだけアジフライ定食だったんだ」

「それはいいな」

 新鮮な魚のフライとはおいしそうだ。

「いつなら、行けそうなんだ?」

「土日かな。お嬢様に作ってもらった予定表では予備日になってるから」

「そんなものを作られているのか。すっかり管理されてるな、お嬢様に」

「私がどうかしましたか?」

 振り向くと命が立っていた。

「今日はお昼前に終わりましたから、これからお部屋で話し合いを行いますよ」

「今からですか?」

「何か問題でも?」

 こちらは時間を割いてもらって、やってもらう立場だ。反論のしようもない。

「いえ、ありません」

「それから、今日の宿題の割り当て次第で土日も埋まる可能性があります。遊んでいる暇はないかもしれませんよ」

「うわあ」

 ため息が出た。宮田がますます同情するような目で見てくる。

「では、先にいっていてください。メラン先生を連れてすぐに行きます」

 命が姿を消すと、宮田は俺の肩を叩いた。

「さあ、帰るか。とりあえずの安息の地に」

「ああ」

 俺はアレクと一緒に宮田の磯釣りの話を聞きながら帰った。竿や糸の種類の話やサビキがどうとかいった話を細かくしてくれたが、専門的すぎてよくはわからなかった。ともかく、そういう設定さえうまくやれば生きた餌なしでもよく釣れる釣り場があるらしい。

 宮田と別れて部屋に戻り、荷物を置いてアレクの淹れてくれた紅茶を飲んでいると命がソフィアさんと現れた。

「まずは採点しますよ。昨日やった分を出してください」

 言われて昨日の苦労の成果を差し出すと、命はほとんど答えも見ないで次々に採点をしていく。英語は一問間違い。数学物理は間違いなし。化学は五問間違い。古文は二問間違い。漢文は一問間違いだ。あっという間の早技に俺は舌を巻いた。

「すごいですね。答えも見ないで」

「ああ、私ですか。この問題ほとんどがやったことのある問題ですから」

 命はアレクの渡した紅茶を飲んだ。

「命には一度出した問題は二度と通用しないと言われているね」

 アレクが補足する。

「どこかの少年マンガのような話だな」

「私の一族はみな記憶力に強いと言われていますから」

 命がふうっと息を吐く。

「まあ、記憶が多少優れていても今時はたいして役には立ちませんが」

 確かに記憶を補完するような電子辞書などの携帯端末が出回ってはいるが、それでも十分すごいことだ。

「命はすごいね。試験で敵なしだよ」

「命さんはこの前の期末でも学年一位でしたからね。素晴らしいですよ」

 メラン先生も褒めそやす。

「いえ、それほどでも」

 外国人二人に褒められて命が少し照れた。その仕草が褒められ慣れていない様子で、なかなか可愛い。

「水垣さん、何を笑っているんですか?」

 命が俺に文句をつけてきた。

「いや、笑っていませんよ」

「いいえ。にやにやと笑っていました。全くもう、こんな話をしている場合ではありませんよ。今日出た宿題を持って来てください。日程表に割り振って行きますよ」

 プリントの束を渡すと命は猛然と割り振りを始めた。

「ふむ。これは月曜日にはさみこめますね。……数学と物理のプリントは課題とは別の日にしたほうがいいでしょう。……小論文にはまとまった時間が欲しいですね」

 瞬く間に予定表は書き変えられ、空いていた土曜日まで予定で埋まってしまった。

「予備日は日曜だけですか」

「圭君。予備日に遊べると思ってる?」

 ソフィアさんが俺のつぶやきに反応する。

「遊べないんですか?」

「遊べるかどうかは水垣さんの頑張り次第ですね」

 命がじっと俺をにらむ。

「予備日はあくまでも予備日。その日までに出来なかったことをカバーするための日です。もし、出来なかった問題が山積みになれば、予備日を使って消化することになります」

 ため息が出る。何と言う夏休みだろう。

「というわけで、今日の課題ですが。まずは昨日の課題で間違ったところについてなぜ間違ったのかということを、このノートに書き込んでください」

 命が分厚いノートを取り出した。

「五十ページあります。多分夏中使っても足りると思います」

 五十ページのノートなどというものを見たのが初めてでまじまじと見てしまう。

「圭、ファイトね」

 アレクの声援を受けて俺はノートを開いた。

「まず英語ですが、『それら』が指すものを間違えていますね。『英語:指示語が指すものを取り違えた』と書いてください」

 一ページ目の一番上に言われたとおりのことを書く。

「次に化学ですが、アルカリ土類金属元素の最外殻電子の数を間違えています。ですから……」

 俺は命の言うとおりに反省を書きつづっていった。それが終わると命は今日の分のノルマを紙に書いてよこした。

「それはお昼御飯のあとにやってください。私は帰ります。メラン先生は?」

「一度職員室に戻ってまた後で来ます」

「ということです。何か質問は?」

「ありません」

「では、また」

 命がアレクと挨拶を交わして部屋を出る。俺はぐったりとしながら、それを見送った。

「圭、カフェテリアに食べに行こう」

 アレクに腕を引っ張られて俺は立ちあがった。


 こうして夏休みは滑り出した。

 一日の大半を机の前で過ごし、次の日の朝にその成果を検証されて反省を書き、そしてその日の課題の指示を受ける。毎日割り振られる課題や宿題の量は相当なものだったが、ソフィアさんやアレクのサポートが的確だったため、なんとかその日のうちにこなすことが出来た。量を見極めて出す命のマネジメント能力も評価するべきかもしれない。携帯電話はソフィアさんにいまだ没収されたままだったが、そんなことを気にする余裕もなかった。

 そして、やっと来た日曜日の朝、命は俺の土曜日分の反省に目を通すと、軽く微笑んで言った。

「いいでしょう。今日はこれで終わりにします。今日一日、ゆっくり休んでください」

「圭君、おつかれさま」

「ありがとうございます」

 命とソフィアさんが出ていくのをアレクが手を振って送る。

「ダスヴィダーニャ」

「ダスヴィダーニャ」

 二人が行ってしまうと、ベッドに倒れ込んで窓から空を見上げた。白っぽくかすむ紺色の空が見える。快晴だ。

 ノックの音がしてドアが遠慮がちに開いた。

「水垣?」

「おう」

 宮田だった。俺は跳ね起きた。

「今日は遊べるのか?」

「大丈夫だ」

「そうか、じゃあ海に行くか?」

「ああ、行く。釣りか、それとも泳ぐのか」

「両方だ」

 宮田は笑った。

「アレクも行かないか?」

「いや、私はいいね」

 俺の誘いをアレクは済まなそうに断った。

「そっか」

「さっそく準備だ」

 宮田がせかす。

「でも、俺、釣りの道具なんか持ってないぞ」

「俺のを一つ貸してやるよ」

 俺は海水パンツとTシャツに着替えると宮田の後に続いた。宮田の部屋で釣竿とよくわからない器具の入ったバケツを渡されて、校舎裏に急ぐ。

 校舎西館の南階段裏には樹々の間に人一人が通れる幅の入口があった。道はセメントで舗装され、てすり代わりにロープが張ってある。崖沿いにゆっくりと降りていくと教室ほどの広さの砂浜に出た。すでに泳いでいる生徒が二人いる。

「よう」

 宮田が挨拶をした。どうやら同級生らしい。二人は宮田に挨拶を返すと潜ってしまった。水深は結構あるようだ。

「まずは、泳ぐか」

「そんなに泳ぎが得意じゃないんだけど」

 深そうだと知って急に自信がなくなる。

「まあ、つかるだけでもつかって。慣れたら泳げるようになるよ」

 恐る恐る海に入った。水は思ったほど冷たくない。しかし、すぐに深くなる。俺は水深が腰の高さの所で波に浮いてみた。うつぶせになると水の中は遠くまで綺麗に見通せた。さっきの二人が海底に石を並べて遊んでいるのが見える。一旦立ちあがってみた。唇を舐めると潮の味がする。

「いけそうか?」

「ああ、なんとか」

 宮田にそう答えるともう少し深いところに移動した。胸の所までつかる。波が来ると体が浮き上がって足がつかない。思い切って潜ってみた。しばらく周りを見る。青い世界の中で海藻が波にあわせて揺れている。深いほうへ手と足を使って歩き、息が続かなくなったところで海底を蹴って足の立つ場所まで戻った。

「だいぶ慣れてきたな」

 宮田が寄ってきた。

「じゃあ、次は釣りだ」

 Tシャツを着て、釣竿を担いで岩場に移動する。

「いつもここで釣っているんだ」

 小さな入り江の入口に陣取った。宮田が釣竿にいろいろと取り付けてくれる。

「コツとかあるのか」

「うーん、ここの場合は運と気合いだな」

「なんだそりゃ」

「そういうものなんだよ」

 俺は宮田の言うままに釣り糸を垂らした。十分ほど待ってみる。

「来ないな」

「そう簡単にかかるかよ」

「そうなのか」

 さらに二十分ほど待ったが変化はない。海の中をそっとのぞくと魚はいるようだが針にはかかってくれない。

「腰を落ち着けて待つんだよ」

 宮田があきれ顔で笑った。

 それから三十分ほど待ったころだった。さっきの二人が俺たちの側にやってきた。

「おい、お嬢様たちがビーチに出てるぞ」

「ほんとか」

 宮田が立ち上がった。

「さっき沖まで泳いでたら、ビーチの方に人影が見えたんだよ」

「よーし、見に行ってみるか」

 宮田が竿をしまって岩陰に置く。

「なんだビーチって? どういうことだ?」

 俺の問いに宮田がにやりと笑った。

「実はな、有久保邸には専用のビーチがあるんだよ。お嬢様たち専用の遊び場ってわけさ。あそこの岩場を回った先だ」

 宮田は北側につきだしている岩場を指した。

「もちろんお前も行くだろう」

 まずいことのような気はしたが、健康な男子としての興味が勝る。俺は竿をしまってついていくことにした。

 腰まで水につかり岩場を伝いながら、深みにはまらないように注意を払って進む。

 もう少しで岩場の先端にたどり着くというところで俺は足を踏み外した。一気に全身が海の中に沈む。あわてて腕を振り回していたら力強い手が手首をつかんでくれた。ぐいっと波の上に引き上げられる。

「やあ、水垣君」

 目の前にいたのは黒い眼帯の男、坂崎さんだった。坂崎さんの登場に驚いた宮田たちは俺を置いて逃走した。

「さて、お嬢様方の所に行こうか」

 坂崎さんは俺の腕を万力のような力でつかむと有無を言わさず歩き出した。


 有久保邸のビーチは南北に百メートルほどの広さがあった。コンクリートの壁が崖の上にあり木製の階段が壁の間から下りてきている。屋敷の庭につながっているようだ。浜にはコンクリート製のベンチのようなものが等間隔に設置されている。俺はビーチの一番南の端に座らされた。

 波打ち際をパステルブルーのビキニの水着姿の命が歩いてきた。

「あら、水垣さん。何をしているんですか?」

 笑顔だが言葉にとげがある。

「いえ、その。ちょっと友達に誘われまして……」

 命は意外と出るべきところの出たボリュームのある体つきをしている。

「へえ、お友達がねえ」

「困りますねえ。そういうことをされましては」

 ビーチパラソルの下でビーチチェアに寝ていた女性が起き上った。サングラスをとる。(うるは)さんだ。

 麗さんは立ちあがってこちらにやってきた。黒のビキニを着ている。こちらも姉妹だけあって命によく似た豊かな体つきをしている。

「ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ」

「すみません」

 頭を下げる。そこに海の方から声がした。

「おや、圭君。どうかしましたか?」

 ソフィアさんだった。オレンジのビキニを着ている。その胸の大きさは有久保姉妹を圧倒する大きさだ。

「のぞきです」

 命が厳しい声で言い放つ。

「まあ、いいじゃないですか。水着を見られたくらいで」

「やり方に問題があります」

「どのように?」

「岩場を回ってこっそり見ようとしたんですよ」

「圭君、正々堂々と来るべきだったわね」

 ソフィアさんが横に首を振る。

「坂崎さん、どう思われます?」

 麗さんがカーキ色の半袖シャツに長ズボンの坂崎さんに問いかける。

「そうですな。この少年は少々泳ぎが不得意なようです」

「そうですか」

 麗さんはうなずいた。

「では、水垣さんに泳ぎを教えて差し上げて下さい」

「わかりました」

 坂崎さんが合図をするとどこからともなく坂崎さんと同じ姿をした男が二人現れた。三人がかりで抱えあげられて海に投げ込まれる。

 足の立たないところで立ち泳ぎをする屈強の男三人に囲まれて、俺は強制的に泳がされ続けた。鼻から海水が入ってむせるが、やめてくれない。

 どれくらい泳いだろうか。腕も脚も疲れ果てて溺れそうになったところを抱きかかえられ、岩場へと連れていかれて解放された。

 俺は脚を引きずるようにしながらふらふらと元の浜に戻り倒れ込んだ。

 宮田たちがやってきてのぞきこむ。

「どうした?」

 俺は息も絶え絶えで文句を言った。

「俺を置いて逃げるなんてひどいじゃないか」

「悪かったな。しかし、あれは逃げるよ」

 宮田が笑った。

「おかげで俺は罰をくらって、一時間くらい泳がされ続けたぞ」

「何を言ってる。お前が捕まってまだ三十分というところだぞ」

「そうなのか」

 俺はがっくりきた。しかし、大して疲れているはずがないと知って体には力が戻ってくる。

「それよりお嬢様たちはいたのか?」

 宮田が尋ねてくる。

「姉妹ともいたよ。メラン先生もいた」

「いいなあ。お前見たのか?」

「見たさ」

「どうだった?」

「姉妹ともなかなかだったけど、メラン先生がすごかった」

「そうかあ」

「やっぱりなあ。メラン先生は大きいと思ってたんだ」

「いいよなあ。綺麗だしなあ」

 三人は口を半開きにして何かを想像する顔をしている。

 しばらく妄想に浸ったところで宮田が立ち上がった。

「さて、そろそろ帰るか?」

「帰る?」

「もうそろそろ昼だしな。食堂で飯を食おう」

 休みの間はカフェテリアは休みだ。その代わり寮の食堂に十二時から十三時まで一人だけ職員がいて、カレーか丼物を出してくれることになっている。

「立てるか?」

 宮田が手を貸してくれた。

「ああ、大丈夫だ。釣りはどうだった?」

「坊主だ。今日はついてないらしい」

 俺たちはゆっくりと崖沿いの道を上がった。宮田がひっぱり後ろから二人が押してくれたので楽に上がることが出来た。

 着替えとシャワーのために部屋に戻るとアレクはいなかった。

 食堂でかつ丼をかきこんでから、宮田の部屋に行った。部屋にいた別の一人を合わせた五人でトランプをし、二時間ほどして部屋に戻るとアレクが戻っていた。

「圭、海長かったね」

「いや、昼御飯のあとは宮田の部屋にいってたんだ」

「楽しかった?」

「まあな。それよりアレクはどこいってたんだ? さっきいなかっただろう」

「ちょっと散歩ね」

「へえ、この暑い中をか?」

「木陰は気持ちいいよ。それより、途中で命にあったね。命、怒ってたよ」

 アレクが思い出したという様子で言った。

「ああ、まだ怒ってたのか」

「なんで怒った?」

「俺が命たちの水着姿を見たからだそうだ。それくらいのことで強制的に水泳させられたんだぞ。酷くないか?」

「自業自得ということね」

 アレクが笑う。

「お前は命の味方かよ」

 俺は自分のスペースに入ってベッドに寝ころがった。


 疲れが出てうとうとしかけたところにノックの音がした。

「ようこそ、ソフィア」

「また来たわよ」

 入ってきたのはソフィアさんだった。起き上がって出て行くとソフィアさんは俺の携帯電話を持っていた。

「さっきは大変だったわね、圭君」

 そう言われて海岸で見たソフィアさんの見事な体を思い出す。

「なに? どうかした?」

「いえ、何でもないです」

 俺は妄想を打ち消した。

「圭君の携帯、返すの忘れてたから持ってきたの」

「ありがとうございます」

 なかなか返してくれなかったのは忘れていたからかよ、と怒りたいのを我慢して礼を述べた。

「あなたののぞきの話で思い出したわ。例のメールね、誰かがあなたの携帯をのぞこうとしていたの」

 ソフィアさんが携帯電話を手渡してくれる。

「のぞこうとしていた、ですか?」

「そう。携帯の中のアドレス帳やインストールされているアプリの情報、それからGPSの位置データーまで全てまとめて特定のアドレスに送ろうとするアプリがダウンロードされていたのよ。起動に失敗して止まってしまっていたけど」

「なんでそんなものが俺に」

「メール、お父様からのだったでしょ。それで、お父様の携帯をうちの関係者に調べてもらったんだけど、同じアプリに感染していたの。あのメールを調べたら、お父様の携帯のアドレスを詐称して送られたものだったわ」

 父も携帯を没収されて調べられたのか仕事に支障が出ただろうに。

「調べた結果をまとめると。まず別のスパイウェアでお父様の携帯のアドレス帳が流出していたのね。私のアドレスとあなたのアドレスがセットになった形で。それを見て犯人はあなたのアドレスとお父様のアドレスに情報収集用アプリのURLを書いたメールを送りつけたというわけ。あなたについて詳しく調べるためにね」

「なぜ、俺と先生のアドレスがセットだったら問題なんですか」

 ソフィアさんは人差し指をたててあごにくっつけて首をひねった。

「私が織幡(おりはた)学園の理事だから、その関係者とみられる人物はターゲットにされやすいということだと思うわ」

 織幡学園が有名な学校であるとはいえ、一介の私立学校の情報にそんなに価値があるのだろうか。もしかしてお姫様関連の情報を狙ったのかもしれない。

「もしかして、……」

 言いかけてアレクが目に入った。アレクは関係者じゃない。お姫様の話はここでは出来ない。俺は口をつぐんだ。

 ソフィアさんがにっこりと笑う。俺の言いかけたことを察したようだ。ゆっくりとうなずく。どうやら、俺の考えは正しいらしい。

「それで、犯人は分かったんですか?」

「一応、追跡してみたんだけど、ボットを使って攻撃してきてたのね。ボットへの指示は匿名化されたネットワークで行なっていたので、犯人にまではたどり着けなったわ」

「ボット?」

「情報で習わなかった? ウィルスに感染して犯罪者のロボットと化したパソコンのことよ。犯罪者はボットを遠隔操作していろいろな攻撃に利用できるわ」

 そういわれてみれば習ったことがあるような気がする。

「そういうわけで、今後は素性のはっきりしないアプリやURLには気をつけてね」

「わかりました」

「お父様たちには私の方から気をつけるように説明しておいたから。じゃあ、またね」

「はい。ありがとうございました」

 ソフィアさんが手を振った。

「ダスヴィダーニャ。お二人さん」

「ダスヴィダーニャ。ソフィア」

「さようなら」

 ソフィアさんが行ってしまうと、携帯電話を操作してみた。問題のアプリたちは消去されていた。電池が残り少ない。ひとまず充電する。

 横になるとまたうとうととしてしまった。はっと起きると夕方だ。

 夕食にいって帰ると充電が終わっていた。

 やっと戻ってきた携帯電話で久しぶりにWebラジオを聴くことにした。まずは『ひとはな咲いた』だ。声優の花崎菜々(はなさき はな)がパーソナリティをしている番組だ。毎週配信されており、俺は欠かさず聴いている。

 花崎菜々は現在注目を浴びている若手の声優だ。俺は二年前から注目していたが、最近数多くの番組に出演するようになり全て視聴するのが困難なくらいでファンとしては嬉しい限りだ。

 番組は近況についてのトークから始まり、リスナーからの投稿の紹介になり、そして曲の紹介になった。

「それでは、ここで一曲。八月○日に発売予定です。花崎菜々で『スタアスタア』。聴いてください」

 その言葉を聞いてこの曲のCDの予約をしていないことを思い出した。彼女のCDは毎回発売日に初回限定版を買っている。今回も先週のうちに予約するつもりだったのだが、突如として持ちあがった転校以後の騒動の連続ですっかり忘れていた。

 ラジオを途中で停止して、通販サイトにアクセスする。CDをカートに入れて決済に進んで、そこでふと手が止まった。ここの住所がわからない。Webで学校の住所はわかったが、その末尾に「男子寮」と書いておけばよいのだろうか。引っ越し荷物のどこかに住所が書いてあるかと思ったが何も記載はなかった。注文したCDが学校の事務室の送られてしまうのはなんだか恥ずかしい。

 アレクにきいてみた。

「なあ、アレク。この寮の住所はなんて書いたらいいんだ?」

 アレクが顔をのぞかせた。

「わからないね。学校に送るのじゃダメか?」

「出来れば直に受け取りたいんだ」

「何かまずいものか?」

「いや、まずくはないんだが。花崎菜々って知ってるか?」

「知ってる。声優さんね」

「彼女の新作CDを購入したいんだ」

 アレクが黙り込んだ。なんだか複雑そうな顔をしている。

「どうかしたか?」

「何でもないね。明日、ソフィアにでもきいてみたらいいよ」

「そうだな」

 一瞬、宮田に相談しようかとも思ったが、宮田はこちら側の人間ではないような気がして思いとどまった。彼には花崎菜々を説明するところから始めないといけないような気がする。それで引かれてしまっては困る。俺はとりあえず通販のサイトを閉じ、『ひとはな咲いた』の続きを聴くことにした。


 翌朝、部屋に来た命はいつもより愛想がなかった。

「では、今日は英語の宿題プリント一枚に、古文の問題集が二ページ、漢文の問題集が一ページ、数学の問題が六問に、物理の問題が五問、化学の宿題プリント一枚、日本史課題プリントが一枚と。よろしいですね」

「……はい」

 なんだかいつもより多いような気がする。俺は目が回る思いがした。

「じゃあ、圭君。さっそく英語をしましょうか」

 ソフィアさんが立ちあがる。

「メラン先生。英語は宿題ですから、手伝うと他の生徒に不公平になりますよ」

「堅いこと言わないでもいいじゃないですか」

 命の注意をソフィアさんは取り合わない。

 俺は机の方に移動しながらソフィアさんにきいてみた。

「あの、この部屋に郵便を送ってもらうのは学校の住所の末尾に『男子寮』って書いたらいいんですか?」

「郵便で何を送ってもらうつもり?」

 ソフィアさんの目が光った。

「いや、CDを通販で買おうかと思ってですね」

「それは困るわね。あなたがここにいるのはなるべく伏せておきたいの」

「え、あの、そこまで気を使うものなんですか?」

「情報というものは外に出さないに越したことはないわ」

 そこに帰りかけていた命が食いついた。

「なにかありましたか?」

「いえ、べつに」

 ごまかそうとするがソフィアさんが報告してしまう。

「圭君は通販で買い物がしたいそうです」

「圭は、花崎菜々のCDを買うんだよね」

 アレクまでが話に入ってきた。

「花崎菜々とは誰ですか?」

 命の声が厳しくなる。

「あの、それはですね……」

「女性声優さんだよ。命」

 アレクの言葉に命が俺のそばによってきた。小声で問い詰める。声の調子がきつい。

「あなたは自分の置かれている立場を分かっているのですか」

「すみません。でもそんな大ごとだとは……」

「先日もあなたの現住所を突き止めようとするアプリが送り込まれたばかりではないですか。警戒してしかるべきです」

 命をなだめるようにソフィアさんが割って入った。

「まあまあ、わかりました。私がそのCDを代わりに買うことにします。それでいいですね、命さん」

「ソフィアさん名義ならいいでしょう」

「圭君はそれでいい?」

「はい」

 初回限定版さえ手に入るなら、異存はない。

「ということで、この件は終わり。さあ、勉強を始めましょう」

 命はふっと息を吐いて足早に部屋を出る。

「ダスヴィダーニャ、命」

「ダスヴィダーニャ、アレク」

 アレクとの挨拶はいつも通りだった。俺は命が厳しく問い詰めてきた真意を測りかねて首をひねる。

「圭君、プリントに集中!」

「あ、はい」

 ソフィアさんの言葉に俺は頭の中の疑念を片付けて英語に集中することにした。



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