転校
梅雨が明けたばかりの午後の空気はすっきりとして、気持ちがいい。強い日差しが、季節が夏に代わったことを宣言している。
しかし、セミの声などはしない。ここは規模の大きな地方都市の中心近いところだ。
古ぼけた石造りの校門を抜けると、外は片側二車線の国道である。見上げれば都市高速が二段になって左右に延びるのが見える。歩道には車の駆け抜ける音と埃っぽい排気ガスの匂いがあたり一面に漂っている。目につく緑といえば等間隔に植えられた街路樹くらいだが、その葉は黒っぽく変色していた。
俺はその校門を足早に後にした。
今日の授業が、いや、今日は金曜だから今週の授業がようやく終わった。掃除と終礼が終わってすぐ出てきたので、まだ帰る生徒は少ない。
俺は大きく伸びをした。もうすぐ夏休みである。
歩くうちに噴き出す汗に制服の下のTシャツがぬれる。俺は額の汗を手の甲で拭った。
「水垣圭さん?」
女性の声に呼び止められた。声のした方を見るとピンクのワンピースを着た髪の長い少女が立っていた。整った顔立ちに印象的な涼しい瞳、少し幼い感じだが同い年くらいにも見える。少女の両脇にはがっしりとした体格の黒のスーツを着た男性が二人、サングラスをかけて立っていた。
「ちょっと、一緒においでいただいてよろしいでしょうか?」
少女の言葉に反応して男たちが俺の両腕をつかむ。
「あの、一体これは?」
「お時間はとらせませんから」
「いや、あの」
「どうぞ、こちらに」
俺は近くの喫茶店に連れ込まれた。明るいとはいえない店内に、客の姿はない。
「いらっしゃい、……ませ」
異様な集団に店員の顔が一瞬固まる。
「アイスティー四つね」
店員の様子にかまうことなく勝手に四人分の注文をして、少女は四人がけボックスシートの窓際に座った。俺はその向かいに押し込まれる。通路側に黒服の男二人が陣取った。
「さて」
少女が俺の顔を見た。
「申し遅れました。私は有久保命と申します。少し水垣さんとお話ししたいことがありまして御同道いただきました」
言葉は丁寧だが、命という少女からは威圧感のようなものを感じる。
「お名前は水垣圭、県立二又瀬高校の二年三組、出席番号は一八番、ですね」
「そうですが」
なぜ出席番号まで知っているのだろう。俺は警戒しながら答えた。
「では、失礼ながら御友人はおありですか?」
言葉に詰まる。自慢じゃないが高校に入ってからこっち友人と呼べる存在はいたことがない。文化祭も体育祭も一人で校舎の片隅でぼうっとして過ごしたくらいだ。
「……。今はいません」
「そうですか」
少女はどこか嬉しそうだ。俺は顔をしかめた。俺に友達がいないことがそんなに嬉しいのか。
「それが何かに関係あるんですか?」
「大いにあります」
命は大きくうなずいた。鞄から何かの書類を引っ張り出した。
「どうやら報告にあった通りの方のようです」
「報告?」
「これは、あなたに関する調査報告書です」
俺は絶句した。なぜ、いつのまに、という言葉が頭の中を駆け抜ける。命はパラパラと紙をめくった。
「成績は中の上。運動は苦手。所属クラブなし。クラスでは目立たない存在。特定の親しい友人なし。親しい女性なし」
それから、俺の顔を見つめる。
「間違いありませんか?」
「……、ありません」
見事なまでに自分のぱっとしない現状を要約されて俺はがっくりと肩を落とした。
「アイスティー、四つ。お持ちしました」
店員がお盆にグラスを載せてやってきた。
「はい」
黒いスーツの男の片方が意外にも軽い調子で返事をした。テーブルに置かれるアイスティーとストローを一つ一つ、俺や命の前に回してくれる。
「まずは、頂きましょう」
命はストローをグラスにさして口に運んだ。男たちもそれに倣う。
俺もアイスティーを飲むことにした。ストローを口にして一気に半分ほど飲む。冷たい水分が体にしみわたってきた。それとともに停止していた頭が動き出す。
「あなたたちは一体何者なんですか? なんで僕を調べたりするんですか?」
命の威厳のようなものに押されて、つい一人称を「僕」にしてしまった。何となく「俺」とはいいにくい。
俺の問いを聞いて、命はじっと俺の顔を見ると小さくため息を吐いた。
「先ほども名乗りましたが、私は有久保命です。この二人は私のボディーガードです」
それからつけくわえた。
「それで足りなければ、私は有久保グループの総帥の娘です」
俺はぼう然とした。有久保グループと言えば日本でも指折りの企業グループだ。創業家は元華族で、日清日露戦争で新興財閥としてのし上がり、第二次世界大戦後も企業グループをつくって勢力を維持しつづけてきたという。なんでそんなところのお嬢様がここで俺とお茶を飲んでいるんだ。ついでに言えば、お嬢様にしては質素な服装に見えるが、それは俺のお嬢様像が貧困だからだろうか。
「ご理解いただけたようですね。さて、なぜあなたを調べたかですが。それについては長くなりますので私からの説明は差し控えます。とりあえず」
命はそこで言葉を切ってストローを口にした。半分ほどまで飲むと顔を上げた
「あなたと少しお話をしてみたかったのです。報告書だけでは人物像をこまかく把握することはできませんから」
「一体何のためにそんなことを」
俺の言葉に命は少し笑みを浮かべて答えた。
「あなたは同じことを繰り返してきく癖があるようですね。もう少し論理的になってはどうですか? 理由は後日にと申し上げています」
そう言われればそうだ。返す言葉もない。
「すみません」
頭を下げる。
「素直な人。これは美点ですね」
少女は指を一本立てて驚いたような顔をした。なんだか馬鹿にされているようで腹を立てるべきだとは思ったのだが、命の顔が心底意外そうだったので、つい気がそがれてしまった。
「それで話をして何かわかりましたか?」
俺は探りをいれてみた。自分の置かれている少しでも状況を把握したい。
「はい、いろいろと」
命はうんうんとうなずく。
「あなたはだいたい報告書から想像した通りの人のようです。しかも素直。多少論理的ではないところがおありのようですが、まあ合格と言えるでしょう」
なんだろう、これは面接試験か何かなのか。俺は思わず周りを見回した。その間に命はアイスティーを飲み干してしまった。それから満面の笑顔で頭を軽く下げて言う。
「今日はお時間を頂きありがとうございました」
「あ、はい。いえ」
何と答えていいかわからず、意味不明な言葉が口をついて出る。
「明日の土曜日、使いの者をお宅に伺わせます。その者が詳しい話をすると思いますので疑問な点はそちらからお聞きください」
命が片手をテーブルに置いた。それが合図だったかのようにスーツの男たちが立ち上がる。命が席を立った。
「では、またお会いしましょう」
男の一人が会計をして命が店を出ていくのを俺は椅子に座ったままただ眺めていた。
家に帰っても俺は自分の身に何が起きているのかがわからずぼう然としていたが、夜になり父が帰ってきて俺を呼んで母と一緒に家族会議を開くに至って、どうやら大変なことになってきたと実感した。
「おい、圭。お前何かしたのか?」
「いや、何もしてないけど」
父は苛立ったように頭を振った。
「今日部長に呼ばれたよ。お前の件で明日うちを人が訪ねてくるから家にいるように、というんだ。なんでも本社筋から来た話で詳しいことは部長も知らされていないらしい」
「圭。隠してないでいいなさい」
母に厳しい口調で迫られて、俺は今日あったことを話した。
「有久保のお嬢様だと?」
父の顔が青くなった。
「うちに関係あるの?」
母の問いに父が力なく答える。
「うちの会社のメインバンクは有久保銀行だし、主な取引先は有久保産業だ。どちらも有久保グループの中核企業だよ。にらまれたりしたらすぐ首だよ」
どうやら我が家は、有久保がまばたきすればその風圧で吹き飛んでしまうくらいの立場のようだ。
「お嬢さんに失礼はなかっただろうな」
父が震え声で俺を見る。
「多分。大丈夫だと思う。合格って言ってたし」
「合格? どういうこと?」
母がヒステリックな声を上げた。
「分からないよ。詳しいことは明日使いの者から聞いてくれという話だったし」
両親の情けないところを見せられて、半ば投げやりな気持ちになりながら答える。
「明日を待つしかないか」
「明日ね」
父と母は顔を見合わせた。二人はそれ以上何も言わなかった。
翌日、朝起きると両親は疲れ切った顔をしていた。眠れなかったようだ。俺は不思議とよく眠れた。気力が充実している。もう何でも来いという気分だ。
朝九時に電話が鳴った。電話を取った母が上ずった声を出した。
「はい、はい。……、はい、わかりました。お待ちしております」
電話が終わり受話器を置くとこちらを見て、小声で言う。
「来るってよ。午後二時に。織幡学園の理事さんだって」
なんで小声なんだと思うが、理屈じゃないなにかが母をそうさせるのだろう。
「織幡学園って、あの織幡?」
他県だが俺でも知っている有名な私立学校だ。
「なんでまた?」
俺の疑問に父が答えた。
「織幡学園は有久保家が設立したんだよ。今でも有久保の持ち物のようなものらしい」
「でも、なんで織幡学園の人がくるの」
「わからんな」
母の疑問には父も首をひねる。たしかに学校と何の関係があるのだろう。
「まあ、いいわ。さあ、お掃除しなきゃ」
母が顔を引き締めた。
「圭、あんたも部屋を片付けなさい。もし部屋を見られたらどうするの」
「そんなこと……」
「ないとは言えないでしょ。さ、早く」
「はーい」
俺はおとなしく部屋を片付けることにした。母が普段見たことのない顔をしていたので逆らわないほうがいいと思ったのだ。
数時間がかりで部屋を片付け、昼ご飯を食べて一息をついたころ、午後二時ちょうど、玄関のチャイムが鳴った。
玄関に出て驚いた。
やってきたのは長い赤い髪に青い目、抜けるように白い肌に凹凸のはっきりした顔立ちの若い女性だったのだ。
「お邪魔します。こんにちは。今日はよろしくお願いします」
明らかにヨーロッパ系の顔なのに、日本人のように頭を下げて、日本人のように日本語を使う。グレーのスーツを着ており、理事と言うよりは教師のようだ。
「あ、こちらこそ、よろしくおねがいします。さあ、お上がり下さい」
「失礼します」
父の言葉にうなずいて靴を脱ぎスリッパに履き替えてから、靴をそろえる。
「こちらにどうぞ」
母が入念に掃除をしたリビングに通す。ソファーの前で父と向かい合う形で立った女性は、名刺を取り出して父に渡した。あわてて父が自分の名刺を取り出す。
「ソフィア・メランと申します。織幡学園の理事をしております」
「水垣一郎。圭の父です。日本語がお上手ですね」
「四歳から日本で育ちましたから」
二人は頭を下げあってからソファーに座った。俺も脇の方の椅子に座る。母が二人にコーヒーを出した。
「あ、お母様もこちらに。お話しがありますので」
ソフィアさんが母を父の隣に座らせる。両親と俺の三人分の視線がソフィアさんに集まっている。ソフィアさんは居住まいを正して切りだした。
「お話というのは、実は圭君を当学園で預からせていただきたいのです」
「はあ」
父が気の抜けたような声を出す。
「それはどういうことでしょうか」
母が食いついた。
「パントネーラをご存知でしょうか?」
「はい?」
唐突な話に今度は母が面食らった。俺も初めて聞く名前だ。父が答える。
「東欧の小さな国ですね」
「はい。実は私の祖国でもあります」
「あ、いや、小さいなんて言ってすみません」
「いえ、事実ですから」
あわてる父にソフィアさんは笑いかけた。
「実は、有久保の家はパントネーラと浅からぬ縁がありまして、今もそのパントネーラ王室の女性を預かっております。それで、先ごろその方の結婚相手について調査いたしましたところ、圭君が最適であるとの結果が出たのです」
父も母も俺もきっと馬鹿のような顔をしていたに違いない。それくらい途方もない話だった。王室の女性と言えばお姫様だ。そのお姫様と結婚というのだ。
「信じられないのも無理はありませんが、当方のある調査によってそういう結果が出たのです」
父が唸った。
「いったい、どのような基準でうちの圭が候補になったのですか?」
「調査内容については秘密になっておりまして明かせません」
ソフィアさんは硬い表情で答える
「それで、選ばれたと」
「ええ。ただ、基準を満たしたからといってすぐに結婚という訳には参りません。圭君はまだ未成年であることもありますし王家への適性というものもあります。そこで、私どもの学園でお預かりして様子をみたいと考えました」
父が考え込んだ。しばらくの間沈黙が場を包む。
ややあって、父が口を開いた。
「しかし、確か今、パントネーラは軍事政権が支配しているのでは?」
「はい。パントネーラ王室は国を追われて各国に散り散りになっています。そういう点では仮に王女と結婚しても圭君によいことはあまりないかもしれません。しかし、ご安心ください。結婚については卒業後に圭君自身の判断で決めていただいてかまいません。私どもは圭君の判断を尊重いたします」
「でも、遠いですし、学費がその、かかりますよねえ」
母がためらいがちに言葉を並べる。
「それでしたら、大丈夫です。圭君には男子寮に入っていただきます。学費寮費などの一切の費用は有久保家が負担します。これはもし圭君が将来結婚しないとなっても返還を求めたりすることは決してありません」
「ということは」
「圭君には卒業まで在学していただくだけでいいのです。どうするかはその後決めていただいてかまいません」
母が俺の方を見た。俺に決断をあずけたという顔だ。
「お、俺?」
父も俺の方を見る。こちらは判断がつかないという顔に見える。ソフィアさんがこちらを見てにっこり笑った。
考えてみる。まず今通っている高校は進学校とはいえ中学の担任の勧めで何となく受験しただけの学校だ。特にこのままずっと通い続けたいという気持ちはない。それにくらべて織幡学園は有名学校だ。それだけで魅力がある。その上にひょっとしたらお姫様と結婚できるかもしれないというおまけつきだ。しかも嫌だったら結婚しなくてもいいという。いいことばかりのようだ。これは行かないほうがおかしいだろう。
「行って、みます」
俺は答えた。
「ありがとう」
ソフィアさんがうなずいた。
「分かりました。息子を預けましょう」
父がひざを叩いて息を吐いた。母は笑顔でなにやら感慨深げにため息をついている。
「ありがとうございます」
「それでお姫様はどのような方なのでしょうか」
礼を述べるソフィアさんに母が問いかけた。
「それでしたら」
といいながらソフィアさんが胸ポケットから写真を取り出す。
「こちらが王女の写真です」
銀色の髪の少女がこちらを見て微笑んでいる写真だった。高い鼻と大きな青い瞳が印象的だ。
「まあ、かわいらしい方ですね」
母が感想を述べる。たしかにかわいい。
「お名前は?」
「ルウデナ様です。ルウデナ・キスネ・ア・パントネーラ様」
「そうですか。ルウデナ様」
母は楽しそうに名前を繰り返した。
「それでなのですが」
ソフィアさんが声を低くして身を乗り出した。
「結婚のことは内密にお願いしたいのです」
「というのは?」
父が首をひねる。
「結婚というのはデリケートな話ですので、本決まりになるまでは秘密にしておきたいのです」
「なるほど、話が先行してそれが原因で破談になっては困りますな」
「そういう訳で、ルウデナ様のこともお口にされないようにお願いします」
ソフィアさんはお姫様の写真をポケットにしまった。
「わかりました」
父がうなずく。
「それと、長期の休みの間も圭君には学園内に居ていただきたいと思っています」
「どうしてですか?」
母がソフィアさんの言葉に疑問をはさんだ。
「出来るだけ長く圭君の様子を見守らせていただきたいと思っているからです」
母は明らかに迷った顔をした。
「よろしいでしょうか?」
ソフィアさんが重ねて尋ねる。
「まあ、長くても一年半のことだし、いいんじゃないか」
父が母の肩を叩いた。
「そうね。もう圭も十七だし、そういう時期かもしれないわね」
母は独り言のようにつぶやくとソフィアさんを見た。
「よろしくお願いします」
「承りました」
こうして俺は、織幡学園に行くことになった。
小さな駅舎を出るとうらさびしい光景が広がっていた。ひび割れたアスファルト、かすれた道路表示、荒れ放題の花壇、さびたシャッターを閉じた商店。タクシーが暇そうに客待ちをしている。
そんななか、午後の陽光をいっぱいに反射させて黒塗りの大きな車が目立つ場所に停まっていた。周囲からはかなり浮いて見えるにもかかわらず誰も気にする様子もない。後部座席のドアが開いて見知った顔が立ちあがって手を振った。
「水垣さん」
命だ。高校の制服らしき白い半袖のブラウスにチェックのスカートをはいている。助手席から降りてきたボディーガードが脇に立つ。
「あの、こんにちは。」
「こんにちは。水垣さん」
お嬢様直々のお出迎えとは畏れ入る。やはり王女の結婚相手ということがあってのことだろうか。
「さあ、乗ってください」
シートは広くふかふかとしていた。こんな大きな車に乗るのが初めてで居心地が悪くて奥の方に鞄を抱えて小さくなって座る。
「長旅ご苦労様でした。疲れたでしょう?」
命がとなりに座ってにこやかに話しかけてきた。助手席にボディガードの男が戻り、車が発進する。
「いえ、まあ。ほとんど寝てましたけど」
俺は頭をかいた。
一昨日、織幡学園への転校を決めると、すぐに次の日に奥村というひょろりとした男が引っ越し業者をつれて来た。奥村さんは業者を指揮して俺の荷物をまとめて持って行かせると、俺に切符を渡して帰って行った。俺は今日、その切符を使ってこの駅までやってきたのだった。
電車を乗り継いで四時間かかった。途中の駅で買った駅弁が胃にもたれたのか車内では寝てばかりいた。乗り過ごさなかったのは奇跡といえるだろう。
「今日は、学校だったんですか?」
俺は命に尋ねた。今日は月曜日だ。
「ええ。でも、今日の授業は午前中で終わりました。明後日から夏休みですから」
「そうなんですか。なんだか変な時期転校して、奇妙に思われないかな」
夏休みの二日前に転校生なんて、奇妙にもほどがある。
「大丈夫ですよ。あまり他人の事情を詮索する人たちはいませんから」
命はこともなげだ。
「はあ」
お嬢様になにかいう人はいないだろうけれど、俺にもそうだとは限らない。不安げな俺の顔を見て命が言った。
「何かあったら、私に言ってください。私はあなたと同じクラスですから」
この人は俺と同じ学年だったのか。俺はそこに驚いた。落ち着きようからてっきり年上かと思っていた。
「ありがとうございます」
「いえ」
命の笑顔がまぶしい。俺はつい視線をそらした。それが逆に決まり悪くなって質問をしてみた。
「ずいぶんと奥まったところなんですね」
車はさっきからずっと畑と林の中を走っている。
「田舎でしょう?」
命がばっさりと事実を言う。
「でも、そこがいいんですよ。地図はご覧になりましたか?」
「あ、はい」
一昨日ソフィアさんが帰ってから、初めて学園の場所をネットの地図で確認した。海に突きだした織幡半島という岬に学園はある。
「海に囲まれ、緑多い土地。そういうところでのびのびと学べるのが当学園の良いところです。ああ、見えてきましたよ」
指さす方を見ると、少し高い山の脇に小高い丘があった。丘の上に建物がいくつか建ち並んでいる。
「あまり大きな建物はないんですね」
「率直ですね。確かに大きいのは体育館くらいです」
俺の正直な感想に命は笑って答えた。
「すみません」
「いえいえ。生徒数が少ないですからね」
命は解説を始めた。
「一クラス三十人ほどで、一学年に四クラスしかありません。いまの全校生徒数は三百五十一人です」
なかなかの少数精鋭ぶりだ。生徒のほとんどが良家の子女ばかりだろう。そんな所に入ってやっていけるのだろうか。また不安になってきた。
「どうかしましたか?」
命が俺の顔をのぞき込んでくる。
「い、いえ」
いざとなれば空気に徹すればいいことだ、そう思うことにした。今までそうやって高校生活を過ごしてきたのだ。それでなんとかなるはずだ。
「つきました。ここが校門です」
車が丘の下のコンクリートの門の間を通り抜ける。門番らしき男性が車に敬礼をした。
「ここが、グラウンドです。左が体育館。体育館は講堂の役目も果たせるように音響機器などが整備されています。体育館の隣は部室棟です」
グラウンドでは野球部とハンドボール部が練習をしていた。部室棟の前では何人かが立ち話をしている。車は緩く左右にカーブする道を上って行く。
「左が校舎です。右はテニスコート」
校舎は四階建てだ。玄関前に立っていた警備員らしき男が車に敬礼をする。テニスコートではテニス部が素振りをしていた。なかなか部活動が盛んなようだ。
車はなおも奥へと進んだ。木立の間から三階建ての建物が見えてくる。
「ここが、男子寮。あなたの生活の場となるところです」
箱型の建物は小さな窓が多く並んでいて、小奇麗な印象だった。そしてここでも警備員らしい男性が車に敬礼する。
「ずいぶん警備員がいるんですね」
俺の言葉に命はクスッと笑った。
「あの方々は警備員ではありません。警備をお願いしていますがれっきとした公務員の方々です」
「え?」
公務員が警備をしているということはどういうことだろう。警察官とか自衛官だろうか。でも、それがなぜ私立学校に配置されているのだろう。
「まあ、深くはきかないでください。ご存じのようにいろいろ私の家には事情がありますのでそういうことになっているのです」
命は唇に人差し指を立ててそう言った。
車はさらに樹々の間を抜けて少し丘を下りた。目の前に水平線が迫る。
「この先は?」
「私の家です」
小さな坂を下りると真っ白な洋風の二階建ての建物があった。建物の前にはきれいに刈り込まれた庭木が並んでおり、ここにも警備員風の男たちがいて車に敬礼をした。そんな中を車は滑るように走り抜け瀟洒な造りの玄関に横付けされる。ドアを開くと、熱気とセミの鳴き声とかすかな潮の香りが俺を包みこんだ。立ちあがると二人の男性が迎えてくれた。一人は昨日会った奥村さんで、もう一人は白髪の上品な男性だ。
「いらっしゃいませ、水垣様」
「お帰りなさいませ、命様」
「ただいま」
命は俺に白髪の男性を紹介した。
「執事の川田です」
「よろしくおねがい申します。以後お見知りおきを」
川田さんが頭を下げる。
「あ、よろしくお願いします」
俺も頭を下げた。命が続ける。
「奥村は会いましたね」
「はい」
「改めましてよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。いろいろとありがとうございました」
「奥村にはいろいろと用事をこなしてもらっています」
命はそう言うと、川田さんの方を見た。
「川田。お姉さまは?」
「麗様は執務室です」
「わかりました。水垣さん、行きましょう」
命は玄関ホールを横切って歩き出した。あわてて後を追う。
「麗様というのは?」
「ああ、そうでした。有久保麗。私の姉です。この学園の理事長をしています」
俺の問いに命は言い忘れていたというふうに答えた。この命のお姉さんが理事長とは、まだ若いだろうにさすがは有久保家というべきか。
ひんやりとした空気の薄暗い廊下を少し行くと横に男が立っている扉があった。命がその扉をノックする。
「どうぞ」
中から凛とした声がした。命が扉を開けて俺を中に招き入れた。
「ようこそおいでくださいました」
椅子から立ち上がって僕を迎えたのはシックな緑色のワンピース姿の女性だった。腰までありそうな黒くてサラサラの髪が目を引く。年は俺たちとそれほど変わらないように見える。妹同様に整った目鼻立ちをしており、どこか安易に話しかけるのをためらわせるような雰囲気をあたりに漂わせていた。
「お姉様、水垣さんです」
「はじめまして、有久保麗です。当学園の理事長をしております」
命の紹介に麗さんは丁寧に挨拶をしてきた。
「あ、あの、水垣圭です。よろしくお願いします」
言葉を詰まらせて挨拶をする俺に麗さんはにっこりと笑った。
「おかけください。ジュースでも持って来させましょう」
俺にソファーを勧め、机の上のボタンを押した。まるで待ちかまえていたかのようにドアが開いてメイド服を着た女性がジュースの入ったグラスを三つ持ってくる。
「二人を呼んで」
グラスを配り終わると麗さんはメイドに声をかけた。メイドは黙ってうなずく。
「いただきましょうか」
麗さんが俺の正面に座った。グラスを持ち上げる。俺も麗さんに続いてグラスを持ち上げてストローを吸った。桃とリンゴとパイナップルの味がした。おいしい。俺は思わず一息に全部飲みほしてしまった。
「そんなにのどが渇いていたんですか?」
命が隣で驚きの声を上げた。
「あ、いや、その。おいしかったもので」
「おかわりをご用意しましょうか」
麗さんが笑顔で席を立とうとする。
「大丈夫です」
俺は手を振った。
「そうですか。遠慮はいりませんよ」
そこにドアをノックする音がした。
「あ、来ました。おかわりはまた後にいたしましょう」
そして、麗さんが声をつくる。
「どうぞ」
麗さんと命が立ちあがった。俺も遅れて立つ。
「失礼します」
赤い髪で白のブラウスにグレーのスカートの女性と黒い眼帯に黒のスーツのがっしりとした体格の男性が入ってきた。女性はソフィアさんだ。男性は身のこなしといい目つきの鋭さといい、ただものではない凄味がある。
「メラン先生は紹介はいりませんね」
麗さんが尋ねてくるのに俺はちょっと首をひねった。「先生」というのはなんだろう。
「どうかしましたか?」
「いえ、メランさんは理事の方と聞きましたけど」
「ああ。お姉様。きっとソフィアさん、教師とは名乗らなかったのですよ」
命が話に入ってきた。
「そうなのですか?」
麗さんの問いにソフィアさんがいたずらっぽく笑う。
「あまり必要ないかと思いまして」
「そうでしたか」
麗さんは小さく息を吐いた。
「水垣さん。メラン先生には学園の英語の教師もしていただいているのです」
「よろしくね。圭君の授業も受け持ちますよ」
ソフィアさんが手を振る。教師みたいだという勘は当たっていたわけだ。
「よろしくお願いします」
一瞬手を振ろうかと迷ったが、まずは頭を下げておくことにした。
「そしてあちらが坂崎さんです」
麗さんの言葉に眼帯の男性がまっすぐに立つ。
「坂崎さんはこの学園とわが有久保家の警備をお任せしております部隊の隊長さんです」
「坂崎です。よろしく」
低音の良く通る声だ。
「よろしくお願いします」
「これから、水垣さんの身辺も守ってくれます」
守るというのは何からだろう。ここはそんなに物騒なところなのだろうか。聞き返そうとしたが、麗さんが話を進めてしまった。
「さて、皆様。ご承知のとおり水垣さんはルウデナ様の結婚相手に選ばれました。それで、この件についてですが、当面この五人とルウデナ様ご本人だけの話とします」
「理事長。水垣さんのご両親もご存じです」
ソフィアさんが言葉をはさむ。
「そうでした。しかし、この学園においてはこの六人だけの話とします。皆様、よろしいですね」
ソフィアさんに坂崎さん、命がうなずく。俺もよくわからないままうなずいた。
「しばらくはルウデナ様がこの屋敷からお出になることはありません。坂崎さん、警備の重点は水垣さんにおいてください」
「わかりました」
「メラン先生。この学園に水垣さんが早く溶け込めるよう、助力をお願いします。特に学習面について水垣さんには頑張っていただく必要があります。失礼ながら水垣さんの学力はこの学園の標準より少し劣るようですので」
これでも一応進学校でそこそこの成績だったのだけれど、それでは駄目なようだ。ソフィアさんが胸を張って答える。
「はい、わかりました。すでに先生方には特別メニューをつくっていただくことになっております」
「そのこと、私もお手伝いいたします。お姉様」
「たのみます」
なんだか大変なことに巻き込まれてしまったのかもしれないという思いが足元から這い登ってくるのを、俺は感じた。
ソフィアさんと坂崎さんが部屋を出た後、命が学園を案内してくれることになった。
鞄を手に玄関を出て熱気の中を小さな坂を上がる。樹々の葉の陰になって、直射日光にさらされないのがうれしい。藪沿いの道を少し歩くと男子寮が樹の陰から現れた。
「もう荷物はついていますが、まずは学園の事務室で手続きを済ませましょう」
「あ、はい」
命はさっさと歩いていく。一つ尋ねてみた。
「あの、ボディーガードは?」
命は今、俺と二人だけで歩いている。警備の必要はないのだろうか。
「ああ、それですか。学園内は各所に警備の目がありますのでボディーガードはつけません。私もそれなりに護身術を習っておりますし」
「そうなんですか」
そんなに警備の人間がいるのだろうかと周りを見回してみたが、玄関前に立っているだけのようだ。まあ、それでも普通の高校にはあり得ないことではある。
校舎に着いた。玄関に靴をはきかえるところがなかった。命は靴のまま入って行く。この学校は下足のまま行っていいらしい。玄関を入って右に事務室はあった。手続きは大したことはなかった。ほとんどの書類はすでに項目が書き込んであって、間違いがないか目を通して名前を書くだけでよかった。
書類を書き終わるころになって、事務の奥の扉があいて頭の禿げた人の良さそうな男性が出てきて命に丁寧に頭を下げた。
「校長先生です」
命が紹介してくれる。
「校長の山本です。ようこそ」
「水垣です。よろしくお願いします」
「ちょっと、校長室まで来てください」
「はい」
校長は奥の扉に戻って行った。
「こちらです」
命が事務室の外を指す。一旦廊下に出てから、事務室の隣の校長室のドアをノックして中に入った。
「失礼します」
「どうぞどうぞ」
机の横で校長が俺を招く。そばまで寄って行くと校長は一度椅子に座って書類に印鑑を押す。それから立ちあがって両手でそれを差し出した。俺も両手で受け取って礼をする。
「これで正式に君もわが校の生徒です。しっかり励んでください」
「ありがとうございます」
そこに横の扉が開いて事務の女性が出てきた。クリアファイルにはさんだ書類を渡してくれる。
「水垣君、これを」
「あ、はい。ありがとうございます」
受け取ったクリアファイルに校長からもらった書類もはさみこんだ。そして鞄にしまう。
一連の用事がすんだのを見て命が俺をうながす。
「じゃあ、水垣さん。行きましょうか」
俺たちは礼をして校長室を出た。
ピロティ部分を歩いて別棟の校舎にわたる。見上げると二つの校舎は二つの渡り廊下でつながってロの字型になっていた。右奥には丸みを帯びた外壁をもつ建物がある。
「校長室や事務室がある東館は一階にほかに保健室と購買部と家庭科室がありまして、二階に職員室と物理実験室と化学実験室、三階に生物実験室とパソコン教室と和作法室、四階に美術室と書道室と音楽室があります。一方の西館には各学年の教室が入っています」
完璧な案内だ。よくもすらすらとこれだけしゃべれるものだ。俺はあきれて命を見たが、命は全く気にする様子もない。
西館に着いた。西館の一階は北側と南側の階段付近だけガラス扉と壁で囲まれている。着いたのは北側の階段部で、階段の隣にはエレベーターがあった。
「西館の二階から渡り廊下を北に行くと図書館棟があります。図書館棟は二階が図書館。一階がカフェテリアになっています。西館の二階から南へ渡り廊下を渡ると体育館です。体育館は一階が柔剣道場で、二階が体育館、三階には照明・音響調整室や多目的ルームがあります」
たしかに西館の二階から南北に廊下が伸びている。北の廊下はさっきの丸い建物につながっていた。それが図書館棟ということだろう。
「エレベーターもありますが、階段で行きましょう」
命が意外にも早いペースで階段を上り始めた。置いて行かれないようにこちらも早足で上がる。
「二階が三年生」
そのままの勢いで三階まで上がる。
「そしてここが二年生のクラスです」
俺はついていくのに精いっぱいで、はあはあと息をついた。命は何事もなかったかのような顔をしている。
「私たちのクラスである二年一組はここです」
命が一番手前のドアを開けた。明るい感じの教室だった。壁と床は板張りで天井は白い石膏ボードだ。そして窓の外は一面、海だった。トンビがゆっくりと上昇気流に乗って上がって行くのが見える。
「水垣さんの席は多分あそこです」
命は教室の窓際の一番後ろの隅の空いている場所を指した。
「このクラスは今まで二十九人でしたが。これで三十人になります」
指さされた場所に立ってみる。海がよく見える。というか、窓から見えるのはどこまでも深い青色の海ばかりだ。
「いいところですね」
「気に入っていただけてよかったです」
命はうなずいた。
「さあ、それでは寮に行きましょうか」
「はい」
俺たちは教室を出た。
寮では玄関で寮監が待っていた。寮監は初老の男性で、にこやかに俺を歓迎してくれた。壁の見取り図を指し示しながら、寮の案内をしてくれる。
寮は南北に細長く立っていて、一階には談話室と食堂がある。二階と三階が寮生の部屋で、それぞれの部屋は東向きだ。中央に階段があり、俺の部屋は二階の北の端だった。
俺と命は寮監に礼を言って二階の北の端に向かった。
命がドアをノックすると、ボリュームのある金髪を頭にのせた人物がドアを開けた。滑らかな白磁のような肌に高い鼻梁、整った眉、南の海のような明るく青い瞳、思わず見とれるくらいの美形だ。男子の夏の制服である白の半袖シャツにライトグレーのズボン姿である。
「ズドラーストヴィチェ、命」
「ズドラーストヴィチェ、アレク」
「また、男子寮に入ってきて。ここは女子禁制だよ」
「私はいいのよ。それより水垣さんを連れてきたわ」
俺は突然現れた美形の外国人と今までと違う命の口調に戸惑って思考が停止してしまった。
「はじめまして、水垣さん。私、アレクセイ・モロトフといいます。アレクと呼んでください。リョーシャと呼ぶ人もいますが日本人にはその愛称は分かりづらいようですから、ここではアレクで通してます」
アレクは右手を差し出してくる。
「握手ですよ、水垣さん」
命に言われてあわてて手を出した。アレクが俺の手をつかんで乱暴に振り回す。しかし意外とやわらかくて細い手だ。
「あ、えーと、水垣圭です。よろしくお願いします」
「水垣圭。圭と呼んでいいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
「圭。よろしくね」
アレクはぐっと握るといきなり手をひっこめた。
「あの、命さん。これは一体?」
俺は訳がわからなくて手を宙に置き去りにしたまま、命に尋ねた。
「あなたのルームメイトのアレクさんです」
「さっきのズ……なんとかというのは?」
「ロシア語の挨拶です。アレクはロシアからの留学生なんですよ」
ロシア人がルームメイトとは驚いた。しかし、ロシア人に遭うのは初めてだが、ロシア人と言えば大柄なイメージがある。それに対してアレクはどうみても俺より低い。
「背が、その、なんていうか、高くないですね」
途端にアレクが頭を抱えた。
「それ、弱点です。私ずっと高くないと言われてきたね」
「水垣さん。言ってはいけないこともありますよ」
命にたしなめられてあわてて謝る。
「す、すみません。そんなに傷つくとは思わなくて」
「いいのです。事実だからね」
話題を変えよう。褒めてみることにした。
「日本語、お上手ですね」
「ありがとう。日本のマンガやアニメが好きで覚えたね」
「ああ、アニメなら俺も好きですよ」
「ハラショー。じゃあこれわかります?」
アレクは嬉々として話し始めた。好きなアニメのポーズを次々に披露してくれる。案外ルームメイトとしては話題には困らなくていい相手かもしれない。
「よかったね、アレク。話の合う人で」
命の声に違和感を覚えてはっとしてみると、明らかに引いている。命はアニメの話はダメな人なのだろうか。
「あの、命さん?」
「命、どうした?」
「ううん、なんでも」
そう言いながらも距離をとっている。
「じゃあ、後のことはアレクにきいてください。私はこれで失礼しますね」
命は行ってしまった。あっけにとられて後姿を見ていると、階段の所でこちらを向いて大声を出した。
「言い忘れてましたが、アレクも水垣さんと同じクラスです。では」
そして階段を下りて行った。
「命、逃げることないのに」
「だよね」
アレクと顔を見合わせた。アレクが肩をすくめる。それからおもむろに言った。
「案内するよ」
部屋の中に入ると、アレクが指で示す。
「ここが二人で使う場所、そっちが圭の場所、あっちが私の場所ね」
部屋はベージュ色のパーテーションで三つに区切られている。まず入ってすぐの所にはテーブルや棚が置いてある。ここが共有スペースということのようだ。そして向って右側が俺のスペース、左側がアレクのスペースだ。俺とアレクのスペースの入口にはそれぞれベージュのカーテンがかかっていた。ずいぶんとプライバシーに配慮された作りだ。そしてもう一つ、共同スペースの左の壁にカーテンがかかっている。
アレクが歩いて行ってそのカーテンを開けた。ドアが二つあった。
「洗面台とトイレとシャワールームね」
寮に入るのは初めてだが、そういうものが部屋の中にあるのは普通なのだろうか。それともさすがは織幡学園というべきだろうか。ふと共有スペースの通路側の壁を見て驚いた。真新しい小型の冷蔵庫と電子レンジがある。その隣には古そうな電気ポットと新品のオーブントースターもあった。これなら部屋から出なくても何日か生活が出来てしまう。
「それで、ルールを決めたいのです」
アレクが指を三つ立てた。
「ルール?」
「はい。喧嘩にならないようにね」
「了解」
ルームメイトと喧嘩なんて確かに嫌だ。
「ではまず、私の名前の書いてある食べ物は断わりなく食べないでください」
「分かった、食べない」
食い物の恨みは恐ろしいというから、納得だ。
「次に、私が着替えている時やシャワーをしている時にカーテンを開けないでください」
「分かった、開けない」
肌をさらすのが嫌なのだろうか。宗教上の理由かもしれない。
「最後に、音楽などを聞くときはヘッドホンを使ってください」
「分かった、スピーカーは使わないよ」
意外と神経質な人なのかもしれない。
「圭の方からはないですか?」
きかれてみてちょっと考えたが、特に思い浮かぶことはない。
「俺の方からはないかな。俺もアレクと同じルールでいいよ」
「分かりました。私もルール守ります」
「お願いします」
俺は自分のスペースのカーテンを開けた。中には机とベッドと本棚があって、床に段ボールが積み上がっている。机の上には教科書一式が置かれていた。
「手伝いましょうか?」
「いや、いいよ」
せっかくの申し出だが、どこに何をおくかは自分で決めたい。
「じゃあ、後で食事に行くときに声をかけるね」
「はーい」
それからアレクが呼びに来るまで、俺は荷物の整理した。
木漏れ日の光る林の中で俺は銀髪の少女に呼びかけられていた。
「圭君、圭君」
少女が遠くで俺を探している。
「ここだー」
そう答えた瞬間にはっと目が覚めた。
「圭、朝だよ」
カーテンの外でアレクが呼んでいる。
「起きた」
起き上がって答える。
「早くしないと朝食が終わってしまうよ」
あわててベッドから出て着替え始める。朝夕の食事は寮の食堂でとるのだが、食事できる時間が決まっている。朝は七時から八時、夕方は十七時から十八時だ。
朝食が終わるとのんびりと支度をしてから登校だ。寮監に挨拶をして玄関を出る。歩いて二分という楽な通学だ。二又瀬高校に通っていた時は、徒歩と電車で一時間かかっていた。しみじみと寮のありがたさを感じる。
校舎に着くとアレクと別れて職員室に行った。昨日事務の人に渡されたファイルの中のプリントに担任の工藤先生の所に行くように書いてあったのだ。工藤先生は眼鏡をかけたごま塩頭の男性だった。
「君が水垣か。ようこそ織幡へ。すまないな、昨日は会えなくて。出張中だったんだ。しかし、いきなりの転校だったな」
「すみません」
何を言っていいか戸惑う。転校の本当の理由はこの人にも言えないわけだ。
「謝ることはないぞ。まあ、理事長の御都合のようだからな。そんなこともあるさ」
「はい、まあ」
どうやらこの学校では有久保家の都合による転校は割とよくあることのようだ。
「いきなりついでで悪いが自己紹介をクラスでしてもらうから、考えておいてくれ。これから職員朝礼があるから、しばらく職員室の外で待っていろ。その間にいろいろ考えておけよ」
「分かりました」
廊下で十分ほど待つと、朝礼が終わって教師たちが次々とドアから出てきた。
「よし、水垣。行こうか」
「はい」
工藤先生に声をかけられて歩き出す。渡り廊下を渡って階段を上りすぐに教室に着く。先生の後について教室に入った。
「起立! 礼!」
クラスの半分くらいが俺の顔を見ながら礼をする。
「着席!」
「今日はまず、転校生を紹介する。転校生、自己紹介」
工藤先生がよく通る声でうながす。
俺はクラスを見回した。まず気になったのは女子が少ないことだ。五、六人といったところだ。その少ない中の女子の一人、命の席は一番前の列の右から二番目だ。後ろの方で金髪の男子が手を振っているのが見える。アレクだ。アレクの席は昨日命が俺の席がおかれる場所と言っていた場所の隣のようだ。事実、アレクの隣に空いた席がある。
「二又瀬高校から来ました、水垣圭です。部活などには入ってませんでした。得意なことも大してありません。その自分が、こんな素晴らしい高校の一員になることが出来て嬉しく思っています。よろしくお願いします」
頭を下げると温かい拍手が聞こえてきた。まずは成功のようだ。それだけで晴れやかな気分になる。
「よし、みんな。水垣のことをよろしくな」
「はい」
クラス全員が返事をする。
「じゃあ、水垣。モロトフの隣の席に座って」
「はい」
やっぱりだ。俺はクラスの注目を浴びながらアレクの隣の席まで歩いて、座った。
休み時間になると、前の席の丸顔の男子が後ろを向いて話しかけてきた。
「水垣だっけか。俺は宮田だ。お前って、アレクと同室になったやつか?」
「ああ、そうだけど」
「そうそう。私と圭はルームメイトね」
アレクが横から割り込む。
「俺も寮生だ。よろしくな」
「よろしく」
気さくな男のようだ。すぐそばに話しやすい人物が出来て、つい嬉しくなる。
「いいよな、あの部屋。あそこはアレクが来るまで寮監の部屋だったんだ。それを改造して二人部屋にしたんだよ。だからいろいろと付属設備があるだろう?」
宮田はうらやましそうだ。道理であの部屋が至れり尽くせりなわけだ。
「空いた部屋がなかったのかな」
「まあ、それもあるけど。アレクが病弱だからな。時々本丸から看護師が来ている」
「そうそう。私、病弱ね」
それは初めて聞いたぞ。俺はアレクを見た。どうにも病弱には見えない。確かに肌は青く見えるほど透き通るような白だが、それは生まれつきじゃないのか。
「アレクはな。体育は全て見学なんだ。運動を医者から止められているんだそうだ」
「そうなのか」
それはなかなか大変なことだ。
「まあ、そう言うわけで、あの部屋に入れるなんて、かなりの幸運だぞ」
「へえ。でも、そしたら寮監はどうしてるんだ?」
「あれ、お前寮監の部屋を見なかったのか。寮監の部屋は一階の一番奥の部屋だよ。元は先生たちの宿直用の部屋だ」
寮監を別の部屋に追いやり部屋を改造して住まわせるなんて、留学生一人に大げさな話だ。そしてまた、そういう部屋に入れた俺は確かに幸運だ。
「まあ、ともかく。織幡城にようこそ、だ」
宮田が俺の肩を叩いた。
「織幡城?」
「この学園のことさ。城みたいだって言われてるんだ。入ってくる道が一本だけで三方が海という天然の要害だからな。有久保邸が本丸御殿。男子寮や校舎があるのが二の丸でグラウンドや体育館があるところが三の丸と呼ばれている」
たしかに言われてみれば城のようだ。そういえばさっき、「本丸から看護師が」と言っていたが、あれは有久保邸のことだったのか。
「そうすると私たち武士ですね。こう、刀を差して、抜刀術しますね」
アレクが乗ってきた。立ちあがって折り畳み傘を左手で腰の高さに持って、右手でさっと抜く。俺は突きだされた傘を両手で受け止めた。
「ハラショー、真剣白刃取りです!」
「まあ、これくらいはな」
小学校時代に剣劇ごっこをした感覚がまだ残っていたようだ。
「お前ら、仲良いなあ」
宮田が呆れた顔をしている。
「当然だよ。ルームメイトだからね」
アレクは得意気だが、俺はせっかく無難にクラスに溶け込んだのをふいにしたのではないかと思って焦った。周りを見回す。しかし、こちらを見ているものはそんなにいない。ほっと息をついた。
「どうした?」
宮田がにやにやと笑いながら尋ねてくる。
「いや、べつに」
「女の観客でもさがしたか? 残念だったな。このクラスにはそういうのに興味を示すのはいないからな。そもそも数が少ないから」
「そういうんじゃないけど……」
数が少ないというのは確かに自己紹介した時にも思った。
「確かに少ないね」
「だろう。なにせ六人しかいないからな」
「このクラスだけ少ないのか?」
「いや、学校全体がこうだよ」
「この学校は元男子校ね。だから、女の子少ない」
「そういうこと。四年前に東京の私立中学校に通っていた麗お嬢様がこの学校に入学するにあたって独様が共学に変更したんだ。だから共学になってまだ日が浅い」
「独様って?」
宮田がそんなことも知らないのかという顔をする。
「有久保姉妹のお母上様だよ。有久保グループの総帥と呼ばれている人。この学園の前の理事長だ」
「すごい話だなあ」
素直な感想が口をついて出る。娘のために学則を変えるなんてずいぶん強引な人だ。
「だろ。だから、男子寮はあっても女子寮はない……」
言いかけた宮田が俺の後ろを見て言葉を飲みこんだ。
「私の母がどうかしました?」
後ろから声が降ってくる。命だ。
「いや。その、すごい、働かれているんだろうなあと」
宮田が苦しい言い訳をした。
「ええ、そうですね。母はここ半年、仕事でシンガポールに行ったきりです」
命はそれだけ言うと自分の席に戻って行った。宮田がそれを確認してから声をひそめて言う。
「命お嬢様は地獄耳だからな。しかもいつの間にか現れる。お前も注意しろよ」
俺は素直にうなずいた。