俺は悪魔だって言ってるのに村人が神様扱いしてくる
「撤去しろ」
朝飯前に家の戸を開けた俺は玄関先に置かれた木製の小さな祠を指さした。昨日まではなかった。少なくとも昨日の夕方に畑から戻った時にはなかった。俺はこの村の連中が善人だと知っているが、夜中に人の家の前へ祠を設置する程度には距離感がおかしいことも知っている。
祠の前には芋が三つと卵が二つ。なぜか干し肉まで一枚置かれ、その横で村長が手を合わせていた。
「ですがノア様。昨日も狼魔獣から村をお守りくださったので」
「俺の昼寝場所に突っ込んできたから殴っただけだ」
「眠りを妨げられてなお村を守るとは……神託をいただけますか?」
「人の話を聞け。撤去しろって言ってるんだよ」
村長は俺を見た。七十を超えているくせにこういう時だけ目がきらきらしている。年寄りがそんな目をするな。こっちが悪いことをしている気分になる。俺は神ではないし、どちらかといえば正反対だ。聖水は嫌いで教会の鐘を聞くと耳の奥がむずむずする。夜になると背中の皮膚が張り、気を抜けば角まで出る。
俺はかなり濃い悪魔の血を引いている。だからこの辺境の村で人目につかず、畑仕事を少し手伝いながら空き家を借りて暮らしていた。望みは静かな生活だけで大きな夢もない。朝に芋を焼いて昼に寝て夜に戸締まりをする。それでいいはずなのに村人は俺の家の前に祠を置いた。最悪である。
「ノア様――いえ、ノア神」
「悪化したぞ。ノア殿ならぎりぎり許す」
「ノア殿は昨日、黒い炎で狼魔獣を焼き払いました」
「あれは見なかったことにしろ」
「村の子供が全員見ております」
「寝ろよ子供」
昨日の昼に俺は村外れの納屋で昼寝をしていた。風通しがよく藁の匂いも悪くない、村で一番よく眠れる場所だ。そこへ狼魔獣が三頭も突っ込んできた。しかも俺の腹の上を踏んだので殴った。
一頭目は壁まで飛び、二頭目は牙を向けてきたので黒炎で追い払った。三頭目は逃げようとしたため尻を蹴った。結果として村に被害は出なかったし、そこまではいい。問題は遠くから見ていた村人が、黒炎の巻き上げた灰と逃げる魔獣だけを見て勝手な解釈をしたことだ。そこからどうして「灰の神が降臨した」になる。
「神じゃない。悪魔寄りだ」
俺がはっきり告げても村長は真剣にうなずくだけだった。
「神にもいろいろありますからな」
「そこを広く取るな」
「ではこの祠は一度持ち帰ります。ただ、供え物の芋と卵は置いていきます」
「一度じゃなく永久に持ち帰れ。あと、なんで供え物は置いていくんだ」
「ノア殿は朝が弱いので」
「事実で押すな」
村長は祠だけを抱えて帰っていった。俺は残された芋と卵と干し肉を見下ろす。捨てるのはもったいないし、食べたら負けのような気もする。だが干し肉はよく乾いている。しばらく考えてから全部家の中へ運んだ。食うが信仰は受け取らない。そこは別だ。
昼前になると村長がまた来た。今度は祠ではなく桶を持っている。嫌な予感しかしない。
「井戸が枯れました」
「俺は雨乞い師じゃない」
「雨乞いではなく井戸の底から妙な音がします」
「村の井戸番に言え」
「井戸番が中をのぞいたところ何かに唾を吐かれまして」
「それは気の毒だな」
「それから水が止まりました」
俺は戸を閉めようとしたが村長が足を挟んだ。年寄りのくせにこういう時だけ反応が速い。
「ノア殿。まだ何も頼んでおりません」
「嫌だ。もう頼む顔をしている」
「祠は撤去しました」
「交換条件みたいに言うな」
「井戸が戻れば、しばらく祠は置きません」
しばらくという言葉に引っかかったが、俺は水がない生活の面倒さを知っている。顔を洗えず風呂にも入れず鍋も洗えない。つまり俺が困るので外套を羽織った。
「見るだけだ」
「ありがとうございます。見るだけでも十分です」
「先回りして感謝するな」
村の中央にある井戸の周りには人だかりができていた。俺が近づくと村人たちは道を空け、何人かは手まで合わせている。やめろ。特別扱いをするな。
「手を下ろせ。『でも』もなしだ」
井戸の中をのぞくと底のほうは暗く、水面も見えない。代わりに「ぬちゃ、ぬちゃ」と嫌な音がしたため、俺は縄を腰に巻いて井戸へ降りた。
「ノア様がお降りになるぞ」
「様をやめろって聞こえてるからな」
井戸の底には子豚ほどの丸い魔物がいた。水を吸って膨れた革袋のような姿で目はなく、口だけがある。そいつが井戸の水を腹に溜め込み、底に張りついていた。水喰いだ。
厄介だが弱い魔物で、問題は全身がぬめることだった。首に当たる部分をつかもうとしたものの手が滑り、水喰いがこちらへ吐いた唾を顔に浴びた。
「おい」
思わず声を漏らすと井戸の上から村長が問いかけてきた。
「どうされました?」
「今の俺はかなり不快だ」
「それは大変です」
「大変なのはこいつだ」
俺は黒炎を指先に灯した。これはただ熱を放つのではなく、悪魔の力で魔物の気配を食う火だ。井戸を燃やせば村人が騒ぐのでほんの少しだけ使う。水喰いはしぼみ、最後に「ぶぴ」と間の抜けた音を立てた。
上から子供の笑い声がした。
「聞こえたぞ」
「すみません」
しぼんだ水喰いをつまみ上げて井戸の外へ放り出すと、水の戻る音に重なって村人たちが声を上げた。
「水だ!」
「井戸が戻った!」
「ノア様が!」
井戸から上がった俺は全身がぬれ、唾まで顔に残っている気がして最悪だった。村人が何か言い出す前に先手を打つ。
「いいか。これは奇跡じゃない。井戸の中に魔物がいただけだ」
村人たちは黙り、一瞬だけ通じたかと思った。ところが村長は納得したように深くうなずく。
「見えぬ災いを見抜かれたのですね」
「違う」
「では見抜いたことすら隠されるおつもりで」
「解釈が強引すぎる」
「ノア様は奥ゆかしいからなあ」
「様をやめろ」
「では井戸の守り手様」
「増やすな」
俺はその場から逃げて家へ戻り、ぬれた服を干した。玄関前にはまた芋が置かれており、今度は小さな花まで添えてある。誰が置いた。俺は木の板を持ち出すと炭で大きく書いた。
『ここに神はいません。拝むな。賽銭を入れるな。特に野菜を供えるな』
それを家の前に立てれば完璧だと思った。翌朝になると板の前には野菜が山積みになっていた。
芋にかぶに豆と玉ねぎ。ついでに卵が四つあり、板の下には誰かの字で追記されていた。
『野菜は嫌いではないらしい』
「違う。持って帰るのが面倒だっただけだ」
近くの茂みから子供たちが逃げていったが俺は追わなかった。追えば泣かれ、村中で俺が悪者になる。いや、悪魔だから悪者でいいはずなのだが、この村ではなぜかそうならない。
その日の午後に俺は村長の家へ行った。席へ着くなり村長は茶を出そうとした。
「いらん」
「遠慮なさらず」
「用件だけだ。俺を拝むな。村にもそう言え」
「もちろん、ノア殿が嫌がっていることは伝えます」
「本当だな」
「ですが皆、感謝をどう表せばいいか分からないのです」
「表すな」
「それは無理でしょう。魔獣を退けて井戸まで戻されました」
「どっちも俺が困ったからやった」
「村も助かりました」
「そこが問題だ」
村長は湯呑みに手を添えた。指の節は太く爪の間には土が残っている。畑から戻ったばかりなのだろう。
「ノア殿。村の者は馬鹿ではありません」
「今のところ信じにくい」
「あなたが普通の人間でないことくらいは薄々分かっております」
俺は村長を見たが村長は目をそらさなかった。
「それでもこの村に来た時のあなたはひどい怪我をしていた。うちの婆さんが粥を出した時も礼を言うまで三日かかりましたな」
「覚えてない」
「嘘が下手です」
俺は黙った。たしかに覚えている。この村に来た時の俺は教会の討伐隊に追われ、森で倒れていたところを村長の妻に見つけられた。あの婆さんは俺の角を見ても「熱があるねえ」と言って粥を作った。もう亡くなって村の墓地にいる。
「だから村の者はあなたを怖がるより先に知ってしまったのです」
「何を知ったというんだ」
「畑の柵を直すのが案外うまいことを」
「そこなのか」
「子供に菓子を取られても本気では怒らないことも」
「怒ったぞ」
「本気ではなかったでしょう」
俺は席を立った。話がずれているというより、うまくずらされたらしい。
「とにかく拝むな」
「分かりました」
「分かってない顔だ」
「善処します」
「それは絶対やらない時の言葉だ」
村長の家を出ると村の入口が騒がしかった。白い布を掛けた馬車が一台止まり、側面には太陽と剣を組み合わせた紋章がある。教会だ。俺は即座に路地へ入ったが遅かった。
「そこの方」
若い女の声がしたものの俺は振り返らなかった。
「灰の奇跡についてお話をうかがいたいのですが」
聞こえないふりをしたまま足を速めた。
「お待ちください。あなたがノア様ですね?」
「違う」
俺は振り返らないまま答えた。
「まだ何も名乗っていないのに」
「村にノアは三人いる」
「そうなのですか?」
「今作った」
女が黙った隙に逃げようとしたが、すぐ俺の前へ回り込まれた。白い神官服に短い栗色の髪、腰には聖印を下げている。まっすぐこちらを見る目は面倒な人間のそれだった。
「私は王都教会所属の神官リリアと申します」
「俺は忙しい」
「何をされているところですか?」
「逃げている」
「正直ですね」
「だから見逃せ」
リリアは逃がすつもりがないらしく手帳を開いた。
「魔獣を退けて井戸を戻し、病人の熱まで下げたと聞きました」
「最後のは知らん」
「今朝、熱を出していた子供の額に手を置いたと」
「あれは立て札に追記した罰で説教していただけだ」
「触れただけで熱が下がったと」
「怖がって汗をかいただけだろ」
「つまり悪さを叱って病も払った」
「まとめるな」
村人たちが遠巻きに見ているため逃げ道がない。家へ戻れば場所を覚えられ、森へ逃げれば怪しまれる。教会の神官を相手に黒炎を見せるのは論外だ。どうするか考えている間もリリアは俺をじっと見ていた。
「失礼ですが、神聖魔法の気配がありませんね」
「ないだろうな」
「しかし魔力はある」
「人違いだ」
「今の返事は少し遅かったです」
「質問が嫌だったからだ」
「聖水をお持ちしても?」
「持ってくるな」
「なぜです?」
「腹を壊す」
リリアは俺の返事を聞きながら手帳に何か書いた。
「聖水に過敏。要観察」
「書くな」
「では祝福の儀式を行いましょうか」
「腰が痛いから断る」
「まだ何をするか説明していませんよ」
「聞くだけで痛くなった」
そこへ余計な時に村長がやってきた。
「リリア様。ノア殿は照れ屋でして」
「助けに来たなら逆効果だぞ」
その説明を聞いたリリアは目を輝かせた。
「名声を望まない方なのですね」
「望まない。かなり望まない。だから帰れ」
「調査が終わるまでは帰れません」
「終われ」
「始まったばかりです」
俺がにらむと村長はすぐに目をそらした。
その夜のうちに俺は荷物をまとめた。
この村は気に入っている。水はまあまあうまく畑も広い。村人は距離感を間違えるが悪人ではない。ただし教会が来たなら話は別だ。正体がばれれば討伐隊が来て村も巻き込まれるが、俺が出ていけばそれで済む。
袋には干し肉と芋を二つ詰めた。これは供え物ではなく食材で、自分で拾ったことにする。支度を終えて戸を開けると庭にはリリアが立っていた。
「夜逃げですか」
「散歩だ」
「荷物が多い散歩ですね」
「体を鍛えている」
「芋の匂いがします」
「黙れ」
リリアは俺の肩越しに家の中を見た。壁には畑道具があり、机には村の子供が置いていった木彫りの鳥。窓際には村長の妻が昔くれた古い布が残っている。
「逃げる理由を聞いても?」
「お前たち教会が嫌いだからだ」
「なぜ嫌うのです?」
「追われたことがある」
「何をしたのですか?」
「何も」
「では、なぜ追われたのです?」
俺は答えなかった。答えれば話が長くなり、この神官はたぶん最後まで聞く。そういう面倒な目をしている。リリアは追及せずに一歩下がった。
「分かりました。今夜は止めません」
「意外だな」
「ですが明日の朝、村長に事情を話します」
「脅しか」
「確認です」
「似たようなものだ」
俺が袋を担ぎ直した時、森のほうで鳥が一斉に飛び立ち、続いて村の犬が吠えた。湿った土に焦げた獣の臭いが混じり、辺りの空気が変わる。知っている臭いだった。
悪魔がいる。リリアも異変には気づいたらしく、聖印に手をかけて村の入口を見た。
「魔物ですか?」
「違う。もっと面倒なのだ」
森の影から黒い山羊の頭をした男が歩いてきた。人間の形をしているが人間ではない。背中には折れた翼があり、爪は長く目は黄色い。悪魔の中では下級だが人間の村を潰すには十分すぎる。そいつは俺を見るなり腹を抱えて笑った。
「噂を聞いて来てみれば本当だったか。人間どもに神と呼ばれる悪魔がいるとはな」
村人たちが家から顔を出し、村長も松明を持って出てきた。
「ノア殿、あれはいったい……」
「家に入れ」
「ですが――」
「いいから入れ」
声を低くして告げると村長は一度だけうなずき、周りの村人にも家へ入るよう声をかけた。山羊頭の悪魔は気に入らない様子で舌を鳴らす。
「人間に命令するのが板についているな」
「帰れ」
「せっかく来たのにか?」
「俺は忙しい」
「夜逃げで?」
「見てたのか」
「荷物を持った悪魔ほど情けないものはないぞ」
俺が袋を地面に置くと中の芋が転がった。リリアはそれを拾って黙って袋へ戻す。今やることか。芋は後でいい。
山羊頭の悪魔が家々の戸口へ向き直った。
「聞け、人間ども。そいつは神ではなく悪魔だ」
家の戸口から様子をうかがっていた者たちが息をのんだ。俺は観念して隠していた角を出す。額の皮膚が引っ張られて二本の黒い角が伸び、背中から翼を出した途端に外套が裂けた。気に入っていたのに。
リリアは聖印を握り、子供は母親の後ろに隠れた。村長も松明を持つ手に力を入れている。まあ、そうなるだろう。俺は肩をすくめた。
「そういうことだ。俺は悪魔だ。だからもう拝むな」
山羊頭は満足そうに笑った。
「さあ人間ども、恐れろ。お前たちが祈っていた相手は地の底に連なる血を持つ化け物だ」
村人は黙り込み、もう誰も手を合わせなかった。粉屋の親父は俺と目が合うなり戸を閉めた。まあ、それが普通であって今までがおかしかったのだ。
それでいいはずなのに粉屋の戸が閉じる音は耳に残った。山羊頭は期待した反応と違ったのか鼻を鳴らし、一番近くにある粉屋の家へ爪を向ける。薄い壁の向こうには子供がいる。
「反応が鈍いな。なら少し燃やすか」
俺は考えるより先に動き、黒炎をまとわせた腕で山羊頭の爪を弾いた。金属を折ったような音とともに悪魔の指が二本飛び、山羊頭が目を見開く。
「人間を守るのか」
「家を壊すな。修理が面倒だ」
「それを人間を守ると言うんだ」
「言うな」
山羊頭が吠えると地面から黒い棘が生えた。俺は翼で村人たちを押し戻し、迫る棘を炎で食う。悪魔の力は同じ悪魔の力で消すのが早い。神聖魔法より乱暴で後始末は面倒だが、リリアが前へ出るよりはましだった。
「下がれ」
「戦えます」
「戦うなら聖水だけは投げるなよ」
「まだ投げていません」
「持っているのは分かってる」
「便利ですね」
「俺にかかったらお前も敵に回す」
リリアは聖水の瓶を懐に戻し、代わりに村人たちを家の陰へ誘導した。教会の人間は嫌いだが動きは早く、やるべき仕事はするらしい。そう確かめる間にも山羊頭が飛びかかってくる。
俺は攻撃を正面から受けずに横へずれ、奴の角をつかんで地面へ叩きつけた。土が跳ねて村の広場に大きな穴が開く。
「広場を壊すな!」
家の陰から村長が叫んだ。
「こいつに言え!」
「ノア殿もほどほどに!」
「俺だけ怒られるのおかしいだろ!」
山羊頭は笑いながら土を払い起き上がる。
「ずいぶん馴染んでいるじゃないか」
「うるさい」
「悪魔のくせに畑の心配か」
「畑は大事だ」
「悪魔が言う台詞か」
「芋が採れる」
芋と聞いた山羊頭が返答に詰まった。その隙に俺は黒炎を奴の足元へ広げる。炎は土を焼かずに悪魔の影だけを食い、山羊頭の動きを止めた。
「何をした」
「帰れと言った」
俺が奴の胸を蹴ると黒炎が弾けた。山羊頭の体は森のほうへ吹き飛び、木を三本折って止まる。そこから黒い煙がしばらく上がり、やがて何も残らなくなった。
広場には舞い上がった土の落ちる音が残り、離れた場所で犬が一匹だけ吠えている。俺は裂けた外套を見下ろした。
「最悪だ」
リリアが聖印を下ろして近づいてくる。構えは解いているものの警戒までは消えていない。正しい判断だ。俺だって自分のような悪魔が近くにいたら警戒する。
「あなたは悪魔でした」
「そうだ」
「村を襲った悪魔を倒しました」
「家を壊されそうだったからな」
「理由はともかく、結果は変わりません」
「変わるだろ」
村長も青い顔で近づいてきた。松明を持つ手は震えているが、それでも逃げずに俺の前へ立っている。
「ノア様」
「様をやめろ。今度こそ本当にやめろ」
「ではノア。村に残ってください」
「急に呼び捨てにして話まで進めるな」
俺ににらまれた村長は咳払いをした。
「怖くないと言えば嘘になります。それでも出ていかれては困ります」
「怖いなら出ていったほうが都合はいいだろ。なぜ残ってほしいんだ」
「井戸の魔物がまた出たら困ります」
「便利屋扱いに落ちたな」
「それに粉屋の壁を守っていただきました」
「ついでだ」
「ついでで助かった命があります」
俺は言い返そうとしたが粉屋の窓からこちらを見ている子供に気づいてやめた。昼間に俺の立て札へ追記した子だ。目が合うとすぐ母親の後ろに隠れる。悪魔を怖がるのは普通だと思ったところで、扉の隙間から小さな手だけが出てきた。その手には俺の家に置いていったものとよく似た木彫りの鳥が握られている。たぶん新しく彫ったのだろう。
子供は姿を隠したまま震える声で言った。
「これあげるから怒らないで」
「怒ってない」
「ほんと?」
「立て札に落書きした件は怒ってる」
子供が手を引っ込めると村長が小声で口を挟んだ。
「そこは許してあげても」
「別件だ」
リリアが吹き出しそうになったので俺はすぐににらんだ。
「笑うな」
「失礼しました」
「どうせ悪魔が村にいると報告するんだろ」
「はい」
「なら討伐隊を呼べ。俺は逃げる」
「討伐隊は呼びません」
「なぜ」
リリアは手帳を取り出した。俺が止める前にもう半分ほど書いている。
「対象は聖人ではなく悪魔である。ただし村人を襲う様子は現時点で確認できず。魔獣対処能力は高い。継続観察が妥当」
「珍獣の記録か」
「前例がありませんので」
「悪魔だぞ」
「悪魔ですね」
「ならもっと怖がれ」
「怖いです」
リリアは俺から目をそらさずに答えた。
「ですが先ほどあなたまで巻き込む形で聖水を投げていたら、粉屋の子は助かりませんでした。そこは間違えたくありません」
言い返しにくいことを言われ、俺は舌打ちして地面の袋を拾った。
「俺は出ていく」
それを聞いた村長が俺を引き止める。
「今夜はもう遅いです」
「昼ならいいのか」
「明日の朝、考えましょう」
「引き延ばすな」
「外套も破れておりますし」
「それはあの悪魔のせいだ」
「村で直します」
「勝手に話を進めるな」
結局その夜は村に残った。残ったというより村人が広場の片づけを始めたせいで逃げる機会を失い、俺まで穴を埋める羽目になった。悪魔を倒した直後に土を運ぶ悪魔がいるかと聞かれれば、ここにいる。リリアは村人に怪我がないか確かめ、擦り傷には聖水ではなく普通の薬草を使っていた。その点だけは見直してやる。
翌朝。
俺が家を出ると祠はなかった。昨夜の角と翼を見たのだから、さすがの村人も祠を置く気にはならなかったらしい。玄関先は片づき、野菜も花もない。ようやく分かったか。
ところが三歩進んだところで村の入口に新しい看板が立っているのを見つけた。無視もできずに近づく。
看板には太い字でこう書かれていた。
『村の悪魔ノアさん 相談受付:井戸・魔獣・畑荒らし』
その横にはリリアの整った字で追記がある。
『聖人認定は保留中』
俺は看板を引き抜こうとしたが、その下には小さな籠が置かれていた。中には芋と卵のほかに子供の字で書かれた紙が一枚入っている。
『おこらないでください』
俺はしばらく紙を見つめてから看板の上半分だけをへし折った。
『村の悪魔ノアさん』
そこだけ地面に落ち、残った看板はこうなった。
『相談受付:井戸・魔獣・畑荒らし』
まあ、これならまだましだ。俺が籠を拾って家へ戻りかけると背後からリリアの声がした。
「受付時間を書いておいたほうがよいのでは?」
「受付は午前だけだ」
「分かりました」
背後で炭の走る音がした。振り返るとリリアが看板に書き足している。
『相談受付:午前のみ』
「書くな!」
村のどこかで誰かが笑った。俺は籠から芋を一つ取り出すと看板の前に置いた。
「これは供え物じゃない」
それを見たリリアがすぐに手帳を開く。
「では?」
「受付料だ」
「受け取る側が払うのですか」
「うるさい」
俺は家へ戻り昼まで寝るつもりで布団へ入った。その五分後に井戸番が戸を叩いた。
「ノアさーん、井戸からまた変な音がします」
俺が布団を頭までかぶると外でリリアが余計なことを言う。
「午前なので受付時間内ですね」
「帰れ!」
その日から俺の静かな生活は騒がしくなり、まず昼寝の時間が半分に減った。悪魔への仕打ちとしては重すぎる。




