人生楽あれば苦もある……すべて契約通りです!! 〜婚約破棄を宣言した王子は、契約内容を覚えていなかった〜
…つい、出来心で… なんとなく描いてみたかったんです。
春まだ浅き頃、王都の高等学園には、若き貴族たちの笑いさざめきが満ちていた。
その中心に、やけに派手な一団があった。
「見よ、この日を。ついに我は解き放たれる!」
そう高らかに宣したのは、第一王子エドワーズ・ニセミトであった。
まだ少年の面影を残しながらも、金糸のごとき髪を無造作に揺らし、やや尊大に顎を上げるその姿は、王族の血を思わせぬでもない。だが、その目に宿る軽薄な光と、締まりのない口元が、威厳よりも軽躁さを際立たせていた。
左右には、腕に絡みつくようにして、アニータ・キーハン子爵令嬢とポアラ・オワリナーゴ男爵が寄り添っている。華やかな装いに身を包んだ二人は、王子の機嫌を取るように笑みを浮かべ、その場の空気をさらに騒がしく彩っていた。
その視線の先に、ただ一人、静かに立つ少女がいた。
フローラ・シルバー侯爵令嬢である。
淡い銀の髪をきちんと結い上げ、無駄のない所作で立つその姿は、まるで一幅の絵のように整っている。華美を避けた装いでありながら、かえって品格を際立たせ、その瞳には揺らぎのない静かな光が宿っていた。
喧騒の中心にありながら、ただ一人、別の時を生きているかのようであった。
「フローラよ。貴様との婚約は、ここに破棄する!」
場は一瞬、しんと静まり返った。
――だが……
「はい、喜んで……いえ、謹んでお受けいたします」
澄んだ声が、王子の言葉尻に重なった。
(本当に……ついに解放される時が来たのね)
そう小さく呟きながら、まるで風が通り抜けたように、あっけない返答をした。
エドワーズの眉がぴくりと動く。
「……何だ、その態度は」
「御用件は以上でしょうか?」
フローラは軽く流して一礼し、そのまま踵を返す。
「待て!」
鋭い声が飛んだ。
足を止めたフローラは、ゆるやかに振り返る。
「まだ話は終わっておらぬ! 貴様は我に対し不敬であり、加えて――」
――と、王子は声を張り上げる。
曰く、尊敬の念が足りぬ。曰く、隣の令嬢たちを虐げた。曰く――。
その間にも、フローラはすでに踵を返して再び歩き出そうとしていた。
「待たぬかっ!」
「……もう終わりですね?終わりましょうよ」
さらりとした一言に、王子の頬が引きつる。
「貴様……謝罪する気はないのか!」
「すべて身に覚えがございません。証拠もなく連連と並べられても、何とも申し上げようがありません」
「証拠ならある! 我と、ここにいる二人が証言しているではないか!」
勝ち誇ったような声に合わせるように、アニータとポアラは互いに顔を見合わせ、小さく笑い声を漏らした。
まるで舞台の上で主役を持ち上げる観客のように、あるいはその言葉こそが正義であるかのように、過剰なまでに頷き合う。
「そうですわ、殿下」
「ええ、わたくしたち、はっきりと見ておりましたもの」
その声音には確信というよりも、王子の機嫌を損わぬための甘い調子が混じっていた。
だが彼女たち自身は、それを疑問とも思っていない。
フローラは、ほんのわずかにため息をついた。
「すべて冤罪でございます。ご疑念がおありなら、影にお確かめくださいませ」
「影?」
王子は訝しげに足元を見た。
「馬鹿を申すな。影が喋るものか」
「……まさかとは思いますが、王家の影もわか……いえ、ご存じないのですか?」
その言葉は、静かでありながら、冷ややかに響いた。
(バカだ、バカだと思っていたけど……ここまでバカとは思っていなかったわ)
そう内心で毒づきながらフローラは手帳を取り出し、さらさらと何かを書きつける。
「その点も含め、王にご確認くださいませ。では――」
「待てと言っているだろうが!」
怒号とともに、王子はフローラに詰め寄るべく一歩を踏み出した。
「……何かいちいち引っかかる言葉が節々に感じられるし――その無礼、もはや看過できぬ! 王都よりの追放を命ずる!」
その瞬間――
「――はい、そこまでっ!!」
フローラが、軽く声を落とした。
次の刹那。
ひゅん、と風を裂く音。
王子の足元に、一本の小さな風車――否、柄頭に薔薇をあしらった投擲具が突き刺さった。
ざわ……と場が揺れる。
どこからともなく現れた影が、フローラの前にすっと立つ。
「セブンス!」
フローラは、その背に身を寄せた。
「何者だ貴様!」
王子が剣に手をかける。
だが、抜くより早く。
影は一歩、いや半歩で間合いを詰め、その剣を奪い取っていた。
見事な手際であった。
「ここまでにございます、王子殿下……この紋章が目に入りませぬか!」
静かな、しかし逆らい難い声。
影は懐より取り出した王家より預かりし紋章を掲げる。
「王家と侯爵家との盟約により、殿下の命令権は全て凍結されました。これより拘束し、王の御前へとお連れいたします」
「な、何を……我に命じるだと!?」
「恐れながら――」
その言葉を合図に、さらに幾人もの影が現れた。
あっという間に、王子と二人の令嬢は取り押さえられる。
「離せ! 無礼者どもが!」
喚く声が虚しく響く。
その様子を、フローラは静かに見つめながら一つため息を吐いた。
「……契約の内容は、覚えていらっしゃらないのです…よね?」
「契約だと……?」
呆けた声。
フローラは、取り乱す王子を前に、淡々と告げた。
「……では、改めて申し上げます。殿下がご署名なさった婚約契約書の内容を――」
静まり返る場の中、彼女の声だけがよく通った。
「第一に、教育義務。王家は殿下を第一王子として相応しき人物に育てる責を負い、日々の学科・礼法・統治に関する指導記録は、すべて書面にて管理されます」
ひと呼吸。
「第二に、評価制度。殿下の言動は初期百点よりの減点方式にて査定され――」
さらりと、しかし容赦なく続ける。
「無断欠席、虚言、他者への侮辱、並びに婚約者に対する不実の振る舞いは、それぞれ規定点数を減じます。日々の結果はわたくしからも王家へ報告され、累積評価は常時閲覧可能と定められております」
ざわ、と周囲が小さく揺れる。
「第三に、監視体制。王家直属の影の部隊『ウィンドミル』が常時殿下の行動を観察し、その記録は証言ではなく“事実”として保全されます
もちろん、そこでわたくしの報告との整合性・正当性が確認されます」
王子の顔がわずかに引きつる。
「そして――逸脱時の拘束権」
その言葉だけ、わずかに重く落ちた。
「殿下の行為が常識に照らし合わせて著しく違反、または婚約者の安全、あるいは王家の威信を損なうと判断された場合――」
フローラは、まっすぐに王子を見据える。
「影の部隊は、殿下の身分に関わらず、その命令権を一時凍結し、身柄を拘束する権限を有します」
しん、と静まり返る空間。
「以上が、本契約の主な骨子にございます。
――ご説明は、確かにお受けになったはずです…よね?」
ふた呼吸――
「そもそも殿下は国中くまなく探しても、ご婚約相手すら定まらぬほどポン……いえ、お立場に難がお有りで――
王家のご意向によりシルバー伯爵家を侯爵へと陞爵した上、数々の条件をお飲みいただいたうえでのご婚約であったことも、当然ご承知のはずでございますが――」
フローラはわずかに首を傾げ、薄く微笑んだ。その眼差しには温度の欠片もなく、ただ事実を指し示す刃のような冷ややかさが宿っている。
「それとも――契約に反する点が多すぎて、いまさら思い当たる節の整理もつかぬご様子でしょうか……」
王子の顔から、血の気が引いていく。
「では、今度こそ私はこれで……」
フローラは軽く頭を下げた。
影たちが王子を連れて去っていく。
その最後に、セブンスだけが一瞬振り返った。
視線が合う。
言葉はない。
ただ、かすかに――安堵の色があった。
思えば…………
あれはまだ、婚約して間もない頃――
庭園の片隅で、フローラは一人、本を開いていた。
だが、視線は文字をなぞるばかりで、頁は一向に進まない。
つい先ほどのことだ――
些細な行き違いに端を発し、王子はいつものように人目も憚らず声を荒げた。
根拠もない非難を並べ立て、挙げ句の果てには「お前程度の女が……」と言い捨てて去っていったのである。
――慣れているはずだった。
そう、思っていた……
けれど――
ふ、と息が漏れる。
自覚するより先に、指先がわずかに震えていた。
そのときだった。
「……お顔の色が優れません」
低く抑えた声が、不意に落ちた。
フローラは顔を上げる――
振り向いても、やはり誰もいない。
――だが、木陰の影が、かすかに揺れていた。
「監視役……ですか?」
「はい」
簡潔な応答。
「見ていらしたのですね」
「記録しておりますので」
事務的な言葉。
それだけで終わるはずだった。
だが、ほんの一拍ののち――
「……先ほどの言動は、記録上も看過できるものではありません」
わずかに低く、抑えきれぬものが滲んだ声。
影として規定にはない言葉であった。
フローラは、わずかに目を見開く。
「……職務を越えておられませんか…?」
「承知しております」
間を置かず、返る。
それでも声は揺れない。
「ですが――あれは、あまりに不当かと」
短い一言。
それ以上は語らない。
語れば、それはもはや“影”ではなくなるからだ。
――けれど、その言葉は確かに届いた。
「……そうですか……」
フローラは、静かに本を閉じた。
少しだけ、肩の力が抜ける。
しばしの沈黙ののち。
「……王子は、変わるでしょうか」
「さて」
影は答えなかった。
先ほどの言が、すでに十分な逸脱であるかのように――
だが、その沈黙は不思議と不快ではなかった。
軽々しい慰めも、無責任な希望もない。
ただ、事実を見据えた距離だけがそこにある。
「そうですか……」
フローラは、ほんのわずかに微笑んだ。
それが、二人の最初の会話であった。
――その日の夕刻。
フローラが自室へ戻ると、机上には見慣れぬ茶器がひとつ置かれていた。
王都でも限られた店でしか扱われぬ、香りの穏やかな薬草茶である。
添えられた封蝋は既に丁寧に開かれており、外装には王家紋章の検印が小さく残っていた。影の部隊による確認を経た証である。
安全が既に“完了した状態”としてそこにあった。
誰が運んだとも記されてはいない。だが、窓はわずかに開いており、風の通り道だけが静かに残っていた。
自ら茶をいれて……ひと口含めば、張りつめていたものがほどけるように、体の奥から温もりが広がっていく。
――過ぎた干渉はせず、されど見過ごしもしない。
その在り方に、フローラはふと、庭園の影を思い出していた。
名を呼ぶことも、礼を述べることもない。
それでも確かに、そこに在ると知れる距離であった。
やがて――
王子は継承権を剥奪され、辺境の子爵領へと送られた。
二人の令嬢もまた、それに帯同したという。
そしてフローラは――女侯爵として家を継ぐこととなった
そして、新たな伴侶を彼女の意思で、自由に選ぶこととなる。
それは王家との不本意な契約の中で代償として彼女に与えられていた権利であった。
静かな部屋であった――
すべてが終わり、役目も、立場も、形を変えたあと。
フローラは、ひとりの男の前に立っていた。
「お話があるとのことですが」
低く抑えた声が、静かに落ちる。
――あのときと、同じ声だった。
庭園の片隅で、思わず零れた規格外の一言。
あのときと変わらぬ、抑制された響き。
けれど――
「ええ……」
フローラは頷く。
「……あのときと同じですね」
ふと、口をついて出た言葉に、影――セブンスがわずかに目を上げる。
「庭園で、あなたが……職務を越えてくださったときと――」
静かに続ける――
「変わらず、余計なことは仰らないのですね」
ほんのわずかに、からかうような色。
だが、その奥にあるものは、あのときとは違っていた。
セブンスは、わずかに沈黙した。
やがて――
「……あのときは、僭越でした」
同じ声で、そう告げる。
だが今度は、ほんのわずかに柔らかい。
「ですが――」
一拍。
「今は、職務で参ったのではございません」
フローラの瞳が、わずかに揺れる。
あのときは“規律を破った一言”。
今は“自ら選んだ言葉”。
同じ声でありながら、意味はまるで違っていた。
フローラは、静かに微笑む。
「では、改めて申し上げます」
一歩、近づく。
「あなたにお願いしたいのです、セブンス……わたくしの伴侶として並び立つことを――」
その名を呼ぶ声は、穏やかで、揺るがない。
セブンスは、しばし沈黙したのち――ゆっくりと膝をついた。
「……仰せのままに」
その瞬間、フローラは小さく首を傾げた。
「……一つだけ、よろしいでしょうか……」
「何なりと」
影の名で応じる声は、いつもと変わらぬはずであった。
――だが、今はどこか、わずかに硬い。
「セブンスというのは、お役目のお名前なのではないでしょうか?」
「……はい」
短い肯定。
フローラは、静かに続けた。
「では……本当のお名前をお聞きしても…?」
空気が、一瞬だけ止まった。
風も、鳥の声も、遠のいたかのように――
セブンスは、しばらく答えなかった。
それは“答えられない沈黙”ではなく、“答えることを選ぶ沈黙”であった。
やがて――
「……長く、名を捨てておりました」
低く、静かな声。
「影として生きるために――」
そこで一度、言葉が切れる。
「ですが――」
顔を上げる――
初めて、真正面からフローラを見る。
「今ここに在るのは、ウィンドミル七番ではなく、ただの一人の人間です」
そして、はっきりと告げた。
「セブンスではなく――セブリアン・イーガス」
その名は、風に溶けるように庭園へと広がっていく。
フローラは、その名を一度だけ、小さく反芻した。
「セブリアン……」
しっかりと…確かめるように……
セブリアンは、わずかに目を伏せる。
「……よろしければ、そう…お呼び下さいますか」
問いかけは、確認ではなく、選択であった。
フローラは、静かに微笑んだ。
「ええ。セブリアン……」
今度はしっかりと呼びかけたその一言で――
“影”は、消えることもないないまま――
確かに、一人の名を取り戻した。
――かつて影であった者は、今、己の意志でフローラに対して言葉を口にする。
低く、抑えた声で――
今度は、誰の命でもなく。
ただ一人のために。
風は穏やかに吹いていた。
あの日、足元に突き刺さった薔薇の投擲具のように――――
静かで、確かな軌跡を残して。




