おとり
ミノタウロスがこちらを向いた。
巨大な頭がゆっくりと動き、赤い目がこちらを捉える。三メートル近くあろう巨体が一歩踏み出すたび、空洞の床が鈍く震えた。ドン、と低い衝撃が足裏に伝わる。
鼻息が荒い。牛のような低い唸り声が洞窟の天井に反響した。
それだけで、背筋が冷える。
俺は思わず小さく息を吐いた。
「……凛」
「はい」
ミノタウロスから目を離さずに言う。
「正直言う」
喉が乾く。
「震えてるんだが」
凛が一瞬だけこちらを見た。驚いた顔ではない。むしろ、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「勝てそうか?」
凛は迷わなかった。
「大丈夫です」
そして手を差し出す。
「ミスリルナイフを私に」
俺は腰のナイフを外して渡す。凛はそれを軽く振り、刃の重さとバランスを確かめた。銀色の刃が洞窟の光を受けて淡く光る。
「敏捷効果の腕輪と敏捷スキル」
凛が短く言った。
「それで注意を引いてください」
「後ろに回ります」
単純だが、理にかなっている。
正面から力勝負をする相手ではない。ミノタウロスの怪力は探索者の間でも有名だ。まともに受ければ、人間の骨など簡単に折れる。
俺は軽く肩を回した。
震えは止まらない。だが、体は妙に軽い。さっき手に入れた敏捷スキルの効果だろう。
「了解」
そして凛を見る。
「頼りにしてるよ、相棒」
凛の目が一瞬だけ丸くなった。だがすぐに真剣な表情に戻る。
「任せてください」
その瞬間。
ミノタウロスが咆哮した。
ドオォォォォン!!
耳をつんざくような雄叫びが洞窟を揺らす。巨大な斧がゆっくりと持ち上がった。
俺は一歩踏み出す。
「おい!」
声を張り上げる。
「こっちだ、牛野郎!」
赤い目がこちらを向いた。
その瞬間だった。
巨体が動く。
ドンッ!!
地面を蹴ったミノタウロスが、信じられない速度で突進してきた。
速い。
想像していたより、はるかに速い。
「うおっ!」
巨大な影が覆いかぶさる。斧が頭上で振り上げられた。
咄嗟に横へ跳ぶ。
次の瞬間。
ドゴォン!!
斧が地面を叩き割った。岩盤が砕け、破片が弾け飛ぶ。石の破片が顔をかすめた。
一撃でも直撃すれば終わりだ。
足は震えたままだ。だが体はよく動く。敏捷スキルのおかげかもしれない。
ミノタウロスが振り向く。
巨大な腕が再び振り上がった。
「こっちだ!」
俺はわざと大きく動いた。わざと音を立てる。
巨体がこちらを追う。
凛の姿はもう視界にない。
うまく回り込んでいるはずだ。
ミノタウロスが大きく腕を振るう。
ゴォォッ!!
空気が裂ける音。斧が横薙ぎに振り抜かれる。俺は後ろに飛び退いた。
だが、そのときだった。
背中に冷たい感触。
振り返って、ギョッとする。
壁だ。
いつの間にか空洞の端まで追い詰められていた。
「……嘘だろ」
逃げ場がない。
ミノタウロスが斧を持ち上げる。赤い目がこちらを見下ろす。
完全に追い詰められた。
斧が振り下ろされる。
ドンッ!!
俺は横に転がった。砂と破片が舞い上がる。
そして次の瞬間。
ミノタウロスの巨体が前に傾いた。
――壁。
突進の勢いを止めきれなかった。
ゴォンッ!!
巨体が岩壁に激突する。鈍い衝撃音が空洞に響いた。
ミノタウロスの動きが一瞬止まる。
その瞬間。
黒い影が背後から滑り込んだ。
凛だ。
まるで音もなく、影のようにミノタウロスの背後へ入り込んでいる。
ミスリルナイフが閃く。
銀色の軌跡が空気を切り裂いた。
そして。
ザシュッ。
刃が深く食い込む。
ミノタウロスの首元。
頸動脈が、鋭く切り裂かれる。
巨体が大きく震えた。
ゴボッ。
喉から濁った音が漏れる。
赤い血が噴き出した。
ミノタウロスが数歩よろめく。巨体がふらつき、斧が地面に落ちた。
ズン。
ズン。
そして。
ズドォン。
ミノタウロスは地面に崩れ落ちた。
空洞に静寂が戻る。
俺はその場にへたり込んだ。
「……はぁ」
心臓がまだ速い。耳の奥でドクドクと音が鳴る。
凛がこちらに歩いてくる。刃についた血を軽く払った。
「大丈夫ですか」
「ああ」
俺は苦笑する。
「正直、死ぬかと思った」
ミノタウロスの死体を見る。
巨大な体が、ぴくりとも動かない。
「でも」
息を整えながら言う。
「さすがだな」
凛は小さく首を振った。
「神谷さんが引きつけてくれたからです」
凛の言葉で、自分の中の張り詰めた空気が解ける。
俺は深く息を吐きながら、仰向けに寝転んだ。
そのときだった。
コロン。
何かが床に落ちる音がした。
続けて、もう一つ。
コロン。
俺と凛は顔を見合わせる。
光の粒子となって消えていくミノタウロスの死体の横。
そこにいくつかの光が落ちていた。
どうやら――
ドロップらしい。




