幻夢
レイスがゆっくりとこちらへ近づいてくる。
足音はしない。線路の上を滑るように移動していた。
白い顔。人の形をしているのに、どこか現実感がない。
俺はナイフを構えた。
レイス。
初めて遭うモンスターだが、まったく知らないわけではない。講義で何度も名前を聞いていた。
思念系モンスター。
実体が曖昧で、普通の金属武器では傷つけることが出来ない存在だ。さらに厄介なのは、精神攻撃を行うことだった。
触れられると恐怖や罪悪感を増幅され、最悪の場合ショック死に至る。
強い個体になると、触れなくても幻覚を見せるとも言われている。
だが、目の前の個体はそこまで強そうには見えない。出来たばかりのダンジョンで、魔素もまだ安定していない。
こんな場所に上位個体が現れるとは考えにくい。
レイスの動きを観察する。
移動速度は、人間とほとんど変わらない。つまり、冷静に対処すればどうにかなる。
…ダンッ!
俺は一歩踏み込み、間合いを詰めた。
ナイフを振るう。
透き通った体の中央、コアのある胸部。
刃が走る。
しかし手応えはなかった。
ナイフはレイスの体をそのまますり抜けてしまう。
やはり物理攻撃は通らない。
振るった勢いのまま背後に飛び退き、相手の反応を観察する。
レイスの体にはまったく変化がない。傷一つついていない。
教わった通りだ。
ならば別の方法を考えるしかない。
俺は距離を取りながら周囲を見回した。このホームの中に使えそうなものがないか探す。
そのとき、天井の灯りが目に入った。
ホームの照明。魔素灯だ。
ダンジョン内では魔素を利用した照明が使われている。
つまりあれは魔力を帯びた物体だ。
普通の金属武器が効かない分、魔力を含んだものならダメージを与えられる可能性がある。
灯りを壊し、中の魔素灯を取り出す。それをレイスに叩きつければいい。
仮に一撃で倒せなくても、灯りはホームにいくつも設置されている。
何度でも試すことが出来る。
勝算はある。
そう判断した瞬間。
カン、カン。
どこからともなく踏切の音が鳴った。
反射的に後ろを振り向く。
しかし、そこには何もなかった。
ホームと線路があるだけで、不自然な静寂が広がっている。
一瞬思考が止まる。
だが直ぐ、ハッとして我に返り、向き直った。
遅かった。
白い影は、既に俺の目の前に佇んでいた。
窪んだ虚な目がこちらを捉えている。
俺は慌てて飛び退いた。
だが間に合わない。
冷たい手が胸を貫いた。
感触はない。
それでも胸の奥を掴まれたような感覚が広がる。
気を強く持たなければ。
例え触れられても、来ることさえ分かっていればそれなりに耐えられると、心のどこかで思っていた。
しかし、それは間違いだったとすぐに思い知る。
突如としてぐにゃりと視界が歪む。
まるで地震でも起きたかのように、床が揺れる。
体の感覚が急速に遠のいていく。
立っていられなくなり、俺はその場に膝をついた。
呼吸が乱れ、頭の中が真っ白になる。
そのとき、声が聞こえた。
———さん
———谷さん
…誰かが呼んでいる。
「神谷さん、大丈夫ですか?」
顔を上げると、そこには凛が立っていた。
「探索中にいきなり座り込んだら危ないですよ」
呆れたように言うが、その表情は優しい笑顔だった。
辺りを見回す。採掘場。
そうだ。
俺たちは採掘場でストーンゴーレム討伐の途中だった。ダンジョンの中を一緒に歩いていた。
朝からずっと一緒にいたはずなのに、妙に懐かしい気持ちになる。
「ごめん」
俺は笑った。
「ちょっと立ちくらみしただけだ」
凛は小さくため息をついた。
「もう……」
そう言って、仕方ないですね、と手を差し出す。
「ほら、ちゃんと立ってください」
「悪い」
俺は少し照れながら、その手を取った。
その瞬間だった。
凛の髪の間から血が垂れた。
赤い血が凛の顔を伝って流れ落ちていく。
俺は目を見開いた。
「血が出てるぞ」
「大丈夫なのか?」
痛がる様子はない。
それどころか、凛は笑っていた。
いつもの笑顔のままで。
「平気も何も」
そう言って、静かに続ける。
「あなたのせいでこうなったんじゃないですか」
血が落ち続ける。
そのまま、凛の顔の皮膚がゆっくりと、バターのように崩れ始めた。
頬の皮が剥がれ、肉が露出する。
髪が抜け落ちて、骨が見える。
歯がむき出しになる。
眼球が揺れる。
それでも凛は手を離さない。
俺は何が起きているのか分からず、硬直する。
凛の瞳は光を保ったまま、ずっと俺を見つめていた。
やがて、眼球が顔から落ちた。
世界が暗闇に包まれた。
俺は絶叫した。
……
「…っ!」
次の瞬間、視界が弾けた。
気がつくと俺はホームの床にへたり込んでいた。
全身から汗が噴き出している。ひどく呼吸が荒い。
吐き気がこみ上げ、思わず嘔吐した。
心の触れられたくない繊細な部分を、ごっそりと抉られて引きちぎられるような感覚。
……幻覚だ。
レイスの精神攻撃。
俺は戦闘の最中だった。
顔を上げる。
レイスがゆっくりと近づいてくる。
逃げなければ。
そう思っているのに体の震えが止まらず、足にも一向に力が入らない。
———マズい
そう思ったときだった。
突然、目の前のレイスが爆ぜた。
白い体が砕け散る。
霧のように崩れ、魔石だけが床に落ちた。
何が起きたのか理解できない。
レイスのいた場所に、炎の残滓が揺れている。
俺は呆然とその光景を見つめていた。
そのとき、背後から声がした。
「神谷?」
振り返る。
そこに立っていたのは――
ひなのだった。




