恐怖
見知った顔を見たせいか。
それとも、この恐怖に引き攣った死体を見たせいか。
不意に、背筋が凍った。
鑑定がなくても、さっきまでは周囲を冷静に見れていた。少なくとも、そのつもりだった。
だが……今は。
骨折した右腕。利き手が使えない。
武器は小さなナイフ一本。
鑑定も、まともに使えない。
そして――三層に。一人。
心臓がドクン、と強く跳ねる。
さっきまで冴えていた思考に、薄い霧がかかったような気がした。呼吸が浅くなる。
――やばい。
その時だった。
――次は……
ひび割れたスピーカーから、かすかな音が流れた。
「……つぎは……」
ノイズ。
言葉にならない声。
誰かが遠くで囁いているような、不気味な音。
そして。
ぷつり、と音が途切れた。
沈黙。
ハッ、と我に返る。
慌てて周囲を見渡した。
ホーム。線路。崩れたベンチ。歪んだ広告。
さっきと何も変わっていない。
誰もいない。
……考えすぎだ。
自分に言い聞かせるように、小さく息を吐いた。
そして、死体の方へ向き直る。
その瞬間だった。
違和感。
線路の向こう。ホームの端。
そこに――何かが立っていた。
さっきまで、そこには何もなかった。
白い。
人の形をしている。
だが、妙に薄い。
輪郭が揺れている。
まるで空気に溶けかけているみたいだった。
顔が、ゆっくりこちらを向く。
白い顔。
異様なほど白い。
目だけが、暗く沈んでいる。
本能が警鐘を鳴らした。
危険だ。
こいつだ。
この死体をこうしたのは――
逃げたい。
本能的に、そう思った。
体が一歩、後ろに引きかける。
だが。
逃げることはできない。
既に、生きている可能性より。全滅している可能性の方が高いことは分かっている。
それでも。
それでもだ。
自分に出来ることから逃げるわけにはいかない。
頭の中に、顔が浮かぶ。
坂城。
そして――凛。
二人の姿が、交互に浮かんだ。
恐怖が消えたわけじゃない。
ただ。
逃げる理由が、なくなった。
出来るだけ手早く倒して、先に進む。
それだけだ。
俺は左手に持っていたナイフを強く握りしめた。
大きく一度瞬きをして、鑑定を発動する。
視界が一瞬だけ歪んだ。
目の奥に鋭い痛みが走る。
それでも、文字は見えた。
《レイス》
モンスターの名前だけが表示された。
背筋がゾクリとした。
レイスは、ゆっくりと線路の上に足を踏み出した。
靴の音はしない。
だが。
空気だけが、急に冷えた。
吐いた息が白くなる。
レイスの顔が歪む。
笑っている。
そして。
その口が、ゆっくりと開いた。
――――――――
レイス
思念系モンスター
危険度:D
ダンジョン内に漂う負の思念が魔素と結びつき、形を持った存在。
実体を持たず、通常の金属武器では傷つけることが出来ない。
強い恐怖や罪悪感に反応し、幻覚や精神的圧迫を与える性質を持つ。
弱点:魔力を帯びた武器 / 属性攻撃




