僕はもう絵を描きたくない
僕は絵をもう描きたくない。
好きじゃないからだ。才能があるだけで書かされる、評価される。
そんなモノには価値がないと思う。だから僕は絵を描きたくない。
そう思っている少年の名は、野口仁。
若くして世界的に有名なアーティストになった男だ。地位も名誉も全てを手に入れた男。しかし、彼が望むモノはそんなモノではなかった。
ただ一つ、自分の好きなことをする。それだけだ。
そんな彼は社会か、もしくは師に対する反逆心からか目の前にあるキャンバスを白地のまま、ほったらかしにしていた。
「はぁ、馬鹿な世間はこのまま出しても評価するのだろうか?」
野口は溜息混じりに言葉を紡いだ。
それは社会に対する絶望か、自分自身に対する絶望か。
野口は言葉を紡いだ後、しばらく呆けて天井を眺めた。
眺める事が唯一、今のつまらない現実を忘れさせてくれたからかもしれない。しかし、長くは続かなかった。
結局、また白地のキャンバスと向き合う羽目になった。
頭の中にアイデアが次々と浮かぶ現状に絶望した。どうあがいても、逃げられないらしい。
「あぁ、ダメだ。描かないぞ。僕は描かん‼︎」
彼は、そう言って部屋を飛び出した。
脱兎の如く、今の自分に絡まるしがらみ達を捨て置き、必死に駆けた。
目的の場所もなく、ただ走った。
しばらく、ひた走っていると看板が見えた。
どうやら、無名のストリートアーティストの看板らしい。
その看板は普段彼が眼にする絵とは違い、非常に稚拙で馬鹿馬鹿しかった。しかし、圧倒的なまでの熱量を感じさせた。
「下手くそだな。....でも、なぜか目が離せないや。何でだ?」
野口は初めての出来事に思わず声を漏らした。
初めてだった、憎みすら生まれていた絵にここまで心を奪われたのは。こんな小汚い絵に。
気づいたら、野口は灯りに吸い寄せられる蛾のように看板の指す方へ歩き出していた。
その先にあったのは、お世辞にも綺麗とは言えない高架下の空き地だった。
頭上を通る電車の轟音が、心臓の鼓動を急かす様に響く。
そんな所に、1人の男がいた。
男は顔半分を黒いマスクで覆い、手には安っぽいラッカースプレーを握っていた。男の背後の壁には、毒々しいほど鮮やかな青と赤が混ざり合い、のたうち回るような不気味な怪物が描かれている。
「なんだよ。……警察か?」
男は振り返りもせず、面倒くさそうに言った。
野口は、その男の背中と壁を交互に睨みつけた。見れば見るほど、腹が立ってきた。 自分が血の滲むような思いで叩き込まれた「基礎」が、ここでは全部無視されている。
「……下手くそだな、お前」
野口の口から、本音が漏れた。
「腕の付き方がおかしいだろ。筋肉も、関節も、そんな風には動かない。色の使い方も最悪だ。汚いし、見てて吐き気がするよ」
自分が言っていることが、ひどく理屈っぽくて嫌な奴だと自分でもわかっていた。でも、止まらなかった。そうやって否定しないと、この下手な絵に惹かれている自分を止められない。
男はそこでようやく手を止め、野口の方を見た。
「あ? 関節がどうしたって?」
男は、顔についた汚れを拭いもせずに鼻で笑った。
「そんなに正しいのが好きなら、写真でも撮ってりゃいいだろ。あんた、理屈ばっかりで、描いててちっとも楽しくなさそうだな」
野口は言葉に詰まった。 「楽しい」なんて感情、もう何年も前に忘れていた。今の野口にとって、絵描くことはただの苦行で、義務で、自分を縛る鎖でしかない。
「……黙れよ。お前みたいな素人に、何がわかる」
野口は男の手から、強引にスプレー缶をひったくった。
「貸せ。……本当の絵ってのがどういうもんか、教えてやる」
野口は奪い取ったスプレー缶を、驚くほど冷静な手つきで構えた。 指先一つ、視線一つに、彼がこれまで積み上げてきた膨大な努力と圧倒的な才能が宿っている。
彼はまず、男が描いたデタラメな怪物の輪郭を、完璧な比率で修正し始めた。骨格の歪みを正し、筋肉の影を適切な位置に配置していく。
シュッ、シュッ、と無駄のない音が響くたび、壁の落書きは、まるで生命を宿したかのような「あるべき姿」へと変貌していった。
そのスプレー捌きはあまりに鮮やかで、横で見ていた男も思わず息を呑むほどだった。これこそが、世界が賞賛する野口仁の技術。誰にも文句を言わせない、正解の絵。
(どうだ。これが、お前が一生かかっても届かない場所だ)
野口は心の中で勝ち誇ろうとした。
だが、描き進めるほどに、喉の奥が焼け付くような不快感に襲われた。 正しい。あまりに正しい。
そして、あまりに、つまらない。
自分が今描いているのは、教科書通りの、死んだ肉塊にすぎない。
目の前の男が描いていた、あの下手くそで熱い、得体の知れない生命力を、自分の「正しさ」が消し去っていく。
「……違う。こんなものが描きたいんじゃない」
突然、野口の手が激しく震えた。
次の瞬間、彼は、今しがた自分で描き上げた完璧な輪郭線を、真横から力任せに塗りつぶした。
「あああああッ!」
叫びとともに、野口はスプレーを狂ったように振り回した。
緻密に計算された筋肉の影を、泥のような黒で汚し、その上から目が痛くなるような蛍光色を叩きつける。
修正ではない。これは破壊だ。
整っていた怪物の形は崩れ、もはや何を描いているのかすら分からなくなった。けれど、ぐちゃぐちゃになった壁を前に、野口の心臓はこれまでにないほど激しく鼓動していた。
「ははっ……これだ。こっちの方が、よっぽど生きてる」
野口は、色の滴る壁を前にして、初めて腹の底から笑った。
完璧な技術を持ちながら、それを自ら踏みにじる快感。
正しさを捨てて、初めて「野口仁」という個性が、その壁に現れていた。




