7 沈む夜
音楽によって気分が浮き沈みする経験は、私にも少なからずある。落ち込んだ時に聴く音楽があったり、気分を上げるために聴く音楽があったりする訳ではないが、アニメやドラマの主題歌で気持ちが上がったり、長丁場の映画でだれてきたかな、というときに気付けのように差し込まれるシリアスな展開と重い音楽。
視覚だけでは揺れ動かない頭の奥底が、耳から届く振動によって揺さぶられて覚醒するような。そんな経験はこれまでも、数多くあった。
時刻は夜の八時を回っている。晩御飯は外で食べると連絡した際、ナルは遅くならないように、と注意していたことを思い出す。
彼女は、子供の門限のように思っているだろうか。果たして、そうであった場合、帰宅するのに最善の時間は何時になるだろう。
九時、が定番だろうか。
「マスター、ここの閉店っていつでしたっけ?」
「シンデレラの魔法が解ける頃」
洒落た返答だ。つまり、私は魔法が解ける前には帰らないといけない。
レコードから奏でられる、少しレトロで、味わい深い音楽に身を委ねながら、私はウイスキーの最後の一口を喉に流し込んだ。
「ハイボールを飲むときって、比較的人が集まる場合に多いと思うんですよ。私にとってはですけど。で、こうしてロックで飲んだりする時は、一人で飲むことが多い。マスターはそんな違いがあったりします?」
「僕はないね。だって職業柄、様々な酒や、合わせ方なんかを学ばなくてはならない。どんな時でも、どんな酒でも気軽に飲むよ」
「羨ましい。昼間から飲むんでしょう?」
「そういう時もある。だって、夜は仕事だからね」
優しい微笑みを返してくれるマスターは、まだ歳が若く、私よりも五歳離れているだけだ。それでも酒に対する造詣は深く、どんなコネクションがあるのかは知らないが、珍しい酒も簡単に仕入れてくるため、一度常連になれば飽きる日などないほど様々な出会いを楽しめる。
しかし、住宅街に佇むマンションの最上階に位置し、看板を出さない上、紹介がなければ受け付けないというスタンスなため、二部屋をぶち抜いて作られた店内は、殆どの日で閑散としていた。
今日も今日とて、私以外に客は居ない。もう少し夜が深ければ、一人か二人はやってくるだろう。
「仕事で夜を忘れられるのも、なんだか羨ましく思えます。一人でファミレスに寄ってパスタを食べていると、なんだか寂しく思えてしまって」
「寂しさを味わいたかったんでしょ。じゃなきゃ、さっさと家に帰るべき」
「説教くさーい」
笑いながら、摘みのピーナッツを口へ運ぶ。香ばしい薄皮がアクセントとなっていて、これとどんな酒を合わせるか、想像するだけで楽しくなってくる。
「どんなお酒がいいと思います?」
「水割りでも飲んで、早く帰るべきだね。何があったのかはしらないが、寂しさに溺れる夜は、早く帰って枕と友達になった方が良い」
やはり、説教臭い。肩ほどまでに伸びた髪をオールバックにして結んだ姿は、どこかヤンチャそうな雰囲気を醸し出しているのに、こうして口に出る言葉は真面目なのだ。
まぁ、多少ロマンチックな言葉も出たりするのだが、それも真面目が故に、なのだろう。
「王様にならないか、なんて話があるんです」
「うん」
「私はならないって、決めていたんですけどね。でも、王様になったら学園祭で盛大に祝おう、みたいな話も持ちかけられたんです」
「良かったじゃない」
良かねーよ。口には出さず、笑って水割りを受け取った。有無を言わさず寄越すということは、本当に帰るべきだと勧めているのだろう。
「逆に悩んじゃいますよねー。王になることを望んでくれる人がいるんだなぁ、と思うと。でも、自分的にはなりたくなんてないんですよ」
「じゃあ、断れば」
「でも、あちらの思惑としては、なってもらいたいんでしょうね。決断に詰まるようなら、学園祭を延期する、なんて言っています」
学園祭の収益というのは、とても大事なものなのだ。それは、ファンタジー学園が授業料や入学費などを取らず、無料で運営されていることに尽きる。
誰でも学べるように、誰にでも門扉を開く。そう謳って開校したからこそ、今更有料には出来ないという理由もあるのだろうが、それでは日本という国の金を無尽蔵に使うことになってしまう。
学園の敷地が広大で、町のようになっているのも、その都市内で経済を完結させ、授業料などを取らないようにする施策である。だだ、それだけでは到底足りない。
足りない分はどうするか。答えは単純に、寄付である。異世界からの人材に恩恵を受ける者たち。日本との関係を良好に保ちたい者たち。それらが寄付をすることによって、ファンタジー学園は成り立っているのだ。
まぁ、寄付があるから問題ない、などと楽観視していると印象を悪く与えかねないので、その運営費をある程度は学園として稼げるように、学園長としても学園祭には力を注ぎたいのだろう。
その学園祭の売り上げで、根城としている富士山キャンパスは、北海道キャンパスに大きく溝を空けられている。発足地であるプライドも、大いに刺激されていることだろう。
「はぁ。私って、なんでこんなに誰かの思惑に利用されるんですかねぇ。もしも私が妹ではなかったら、こんなことにはなっていなかったのかなぁ」
「そういう考えをするときに限って、今の立場で受けている恩恵に気が付けないものだよ」
「分かっています。今の生活が、私には一番合っている。でも……」
そこが、一番難しいところだ。私は、一般市民である生活が一番性に合っている。けれど、多くの子どもがある一定の年齢になったときに陥るような、強烈な憧れというものが、今も私の胸の中で燻っている。
大人になれば消えてなくなるだろう。そう思って、変化を楽しもうと大学にも通うことにした。二十歳になれば、なにか変わるのだろうか。ワクワクしながら、誕生日には初めての飲酒を楽しんだ。
けれど、その燻っていた火は消えることなく、今も燻り続けている。なにか燃料となるものが注ぎ込まれれば、一気に燃え広がるだろうと思っていたものが、徐々に迫っているのを感じている。
憧れを追う気持ちと、今この生活に満足する自分。その二つだけならば、選ぶ楽しさを味わえるだろう。けれど、自分の中にはその二つの気持ちを嘲笑うなにかがある。自分はその程度の存在ではないと、それらを望む気持ちをただ、純粋に嘲笑っている。
成人というのは、ただ、文化としての区切りであると思っていた。なのに、ただそれだけであるはずのことが、大きなきっかけとなって、私の中に変化を齎したように思う。
もう良いだろうと、そろそろ目覚めるべきだと。自分の中のなにかが、そう訴えているような……。
あぁ……、本当に堂々巡りだ。何かある度に、私はこの、言いようのない不安感に襲われる。だから、決断することは直ぐには出来ない。なのに、あの学園には、学園祭という一大イベントを楽しみにしている人が多くいる。
開催されるのは九月だ。まだ時間はある。延期の決断も、まだまだ猶予はあるはずだ。なのに……。
「はぁ。しばらく学園には行かないようにしようかなぁ」
「じゃあ、ここでしばらくバイトでもしてみる? 多少、給料には色を付けるよ。告白をした仲だからね」
「そんなことを言って。私はこのお店で、ケーキなんて出された記憶はないですけどね」
どちらともなく、笑みがこぼれた。あの日の記憶は、二人にとってもいい思い出だ。それだけに過ぎない。
「気持ちはありがたく頂きます。でも、もう少し考えてみますよ」
「その時は、何を悩んでいたかを詳しく聞きたいな」
「私の方こそ、なんで日本に帰ってきたのか聞きたいくらいですけど……、まぁ、その話はいつかの楽しみにしておきます。話す気はあります? ……ふふっ、曖昧な顔。そういうことなら、私の話が聞いたいのでしたら、私を酔わせるようなお酒を仕入れてくださいな」
酒は、その味わいを楽しむものである。もう少し酔えたのなら、気分も晴れたのだろうかと、私は最後のピーナッツを噛み締めながら店を出た。




