3 いつも通りの
スマートフォンのアラームが鳴る瞬間を、目にしたのはおそらく初めてであった。ぼーっとニュースアプリを眺めていたら、微かな振動を手に感じる。そして軽やかな音色とともにポップアップが現れた。
イントロは、こんな感じだったのか。そんな感想だった。
既に稼働を始めているエアコンの風を感じながら、身支度を整える。軽く髪を整えるだけであり、顔や服はまだそのままでいい。どうせ見られる人だって同じような状態なのだから、今はまだ、完全なるオフ。ロールプレイングゲームで言うなら、王様に会いに行く前、お小遣いもなく、何かしらの棒を持っている頃だ。
現代の棒、と言うには性能過多なスマートフォンを手に持ちながら、私は部屋を出てキッチンへ向かう。軽く喉を潤してから、隣接するダイニングで朝食を摂るのだ。
部屋を出てすぐに廊下があり、右隣に寝室が続いている。左手の扉の先がキッチン。そしてダイニング。そこから鉤形に曲がってリビングが続いている。廊下の先には階段と、応接室にも使えるエレベーターホールがある。
キッチンへ続く扉を開けた時、共にくぐったのは私だけではなかった。寄り添うようにして、纏わりつくようにして、一匹の犬がついてくる。
「おはよう。ラキは朝から元気だねー」
ボーダーコリーのラキの寝床は、階段の裏のスペースにある。子犬のころからそこが気に入っていて、そこから動こうとしなかったのだ。
名前の由来はとある名犬によるのだけど、正直、私はそれを知らない。そもそも、頭文字しか合っていないし、犬種も微妙に違う。名付け親は、うろ覚えのせいか勘違いをしていたらしい。
キッチンには、二人分の水が用意されていた。置かれた高さは当然違う。けれど豪快に飲むのは同じ。種族は違えど、まるで兄弟のように似ているのだろう。ふくらはぎに当たる尻尾の感触が笑顔を誘う。
いつも通りの朝だった。
「寝不足ですか?」
ダイニングに皿を並べ終えたナルファスが、少し屈んで顔を覗き込んでくる。
「ゲームが面白くてね」
ゲームをしていたのは本当。ただ目を閉じていると、どうでもいいことまで考え込んでしまって、気晴らしにと続けていたら、結構な時間になっていた。布団に入って、スマホを手に取ったときには二時間ほどは経っていただろうか。
「そうですか。後にでも国の方に、連絡を取れないか試してみます」
「あれ、まだ取ってなかったんだ。葬儀とか、やっぱり出ないといけないんじゃない? 日取りとか気になるんだけど」
「直ぐに取れるものではないですからね。ともあれ、何事もなければそれでいいのです」
何事もない、ってことは、もうないんじゃないかな。そう笑いながら、トースターから弾き上げられた焼き目の美しいパンを皿に移し、お気に入りのメープルシロップをかける。その間にも、ラキは既に食事に夢中であった。
齧ったパンの風味。メープルシロップの風味。これが、ふるさとの味。
ファンタジー学園の大学は、日本の大学とはルールが異なる。それは、いつでも、誰でも受け入れ、そしていつでも見送れるようにするためであった。
決められた数の単位を獲得できればいつでも卒業でき、また、それを超えて設定された単位を獲得できれば、大学院に進むことができる。
講義によって獲得できる単位は異なるが、多く貰えるものほど、定期的に行われる試験が難しくなる。この試験をクリアできないと、単位を頂くことは出来ないのだ。
大学に通って、今年で三年目。卒業するのか、進学するのかを決めかねているため、獲得している単位はそれほど多くはない。よって、今日も余裕を持って家を出た。
受ける予定の講義は、午後から始まる〈異世界と日本の共通項、類似点における発展の違い〉だ。もしも進学した場合は、このテーマについて研究をしたいと思っているため、開かれるときには必ず受講するようにしている。
ラキに見送られてエレベーターに乗ると、十四階から一気に降りていく。このエレベーターは私達の階へ続く専用のものなので、誰にも邪魔されることはないのだ。
このマンションのオーナーが、一応私のお父様、つまりは異世界の国王であるからのセキュリティである。
「奇遇でござるな」
籠から降りると、向かいにあったエレベーターから降りてきた人物に話しかけられた。
「おっす。ぶーちゃんもこれから?」
「その愛称は止めてくだされ。某、無頼という格好いい名前がございまする」
不満を口にするのは、うなじの辺りで髪をくくった、長身の女性。私が大学に通うようになってから仲良くなった、異世界からやって来たお侍様だ。
侍というだけあってキリッとした格好いい女性で、硬い響きを持つ名前には合っていると思う。けれど、共に甘いものを食べたり、甘いお酒を好んだりをしているのを見ると、どうしても愛称で呼びたくなってしまうのだ。
「まぁまぁ、とりあえず一緒に行こう? なんの講義?」
「今日は水中行動学でござる」
「なんだっけ、それ」
「読んで字のごとく、水中で様々な行動が取れるようにする実習にて。姫様には無縁でござるな」
流石は武闘派。そう笑い合いながら自動ドアをくぐり、十分ほどの道のりを駅まで歩く。彼女と登校する時は、私は車道側を歩くことはなかった。
「もしも、さ」
「ん?」
「私が王様になったらどうする?」
「ふむ……」
じっと、顔を覗かれる。頭一つ分は身長差があるため、顔を覗かれるという表現が適切かどうかは分からないが、彼女の返事の間は、そう表現したほうが相応しそう。
「心中察するで候。某も、世の中のことは把握しておりまするに。ただ、……不穏にござるな」
「え?」
「いや、気にすることではござらんよ。それよりも、後一ヶ月で学園祭でござるな。某、毎年これが楽しみで楽しみで。今から指折り数えておる始末」
あからさまに変えられた話題に、眉間にしわができたのを感じた。けれど彼女が学園祭を楽しみにしているのは真実なので、今更話を戻すことは出来ないだろう。
「無頼って、剣道サークルだっけ?」
「チャンバラ同好会でござる。木刀によって、様々な世界の剣術を披露し合うものでして、剣道とは違う」
語尾がちょっと怖かった。
「そっか。で、去年はなんかやったんだっけ」
「剣道サークルとの試合を少し」
「結果は?」
「……全敗」
これが、語尾が強くなる理由でもある。実戦経験のある生きた剣術を披露しようと勝負をしたら、異世界の技術を受けて、より洗練された剣道にコテンパンにされてしまったと。
「だからこそ、だからこそ今年は入念に鍛錬を重ね、開催日に焦点を当ててトレーニングに励んでいるのでござる! 今年は、今年こそは憎き剣道サークルをコテンパンにして、居合道サークルに挑戦状を叩きつけるに候!」
「応援してるよ」
「では、勝ったらご馳走を」
「コンビニのチキンでいい?」
「王家の人とは思えない提案でござるな!?」
そのコンビニのチキンが、ご馳走として育ってきたんだ。少なくとも、子供の頃は。豪華なマンションに住んで、お金も不自由に感じたことはない。そう、何の不自由もなかったのだろうけれど、ナルファスは、私を、私に普通の日本人のような生活にさせてくれた。一生を問題なく過ごせるため、ここを自分の故郷にできるように、ごく普通の生活をさせてくれた。
なのに――。
「あははっ! でもね……、日本のコンビニって、凄いんだよ?」
ぽかんとした表情。そして、優しい笑顔。これが、親友である証しなのだろう。




