12 戦闘
店内の冷房は、ガラス張りの壁から降り注ぐ日差しによって、その力を最大限に発揮できていないようだった。口の中から伝わる熱。体内から伝わる熱。消化するために生まれるであろう熱。
このような状況は、今置かれている状況を抜きにしても、あまりよろしくない。
「このまま、私だけ席を外すのはよろしくなくて?」
「よろしくないな」
涼しげに水を飲む姿を恨めしく思いながらも、私は一言が出なかった。ただ、化粧を直すだけでいいのだけれど、この状況で? などと思われてしまえば、恥ずかしくて化粧も厚くなってしまうだろう。
隣に立つ男は、そのようなことを言うタイプだろうか。いや、おそらくは笑って受け入れる。けれど、だからこそ、私は問い掛け方を選んだのだ。
立ち食い蕎麦屋で化粧を直してみる? 論外だ。
やはり、この時期はまだまだ、熱い蕎麦に手を出すべきではなかったか。そう諦めをつけようと、せめて体を冷やしておこうと、キンキンに冷えたグラスを口に運ぶ。
「では、ナイト役は某が引き受けよう」
持つべきものは親友だ、と心の底からそう思えた。
ガラス張りのドアをスライドさせて入ってきたのは、黒いタンクトップに迷彩柄のカーゴパンツといった、異世界とは言え侍には似つかわしくない姿をした女。我が親友の無頼だ。
「どこまで知っている?」
「某の国も、動いているでございまする。まぁ、偶然仲がよかった某に、任務が下されたと言いますか」
「わざわざそんな事を言わなくても、ぶーちゃんが下心あって近寄ったなんて思わないよ」
「その呼び方は止めてくだされ。出来ればライちゃんで」
その案は、お礼として採用してあげよう。
会計をして店を出ると、直ぐにトイレに向かって鏡と向かい合う。少しの間沈黙があったが、意を決したように、彼女の方から口を開いた。
「王様が、新しい女性に手を出したと、噂になっていたでござる」
最悪だ。そう言って笑い合った。
「それと、これから少し、三文芝居が繰り広げられるかもしれません」
「ふーん。彼奴等を捕まえるってこと?」
「そうですね。サルファーナ王も、某がやってきたことで思惑は察したでしょう」
「筋書きは?」
「三竦み。とでも言えばいいでしょうか。某がミクリィを連れ出し、王が追いかける。それを見て、奴等も追いかけてくるでしょう。その視線を受けながら、某は王を迎え撃ちまする」
「その時、私はどうすれば?」
「交番に駆け込んでくだされば」
なるほど、ごく自然に交番へ向かうように仕向けるわけだ。当然、奴等は私を追う。そして交番を見て怯むだろう。その時がチャンス。彼女風に言えば好機。
「ライちゃん達が捕まえるの?」
「いえ、実は警察には既に話をつけてあって、現在駅周辺で待機してもらっているでござる。要は、大義名分が欲しいのでござるよ」
あぁ、だからこその三文芝居。警察としても、尾行している彼らを捕まえる動機が今のところないのだろう。だから、問題を起こして警察を動かし、不審な行動をしたものをついでに捕まえる。その上、私の表現があれば御の字、か。
「しかし、よくあそこへ来てくださいました」
「そりゃ、安全な場所と言ったら、彼処しか思い浮かばないしね」
待ちぼうけを食らわせている、あの王には秘密のことだけれど、あの蕎麦屋の大将は只者ではないのだ。その事は、隣で微笑む彼女が一番よく知っている。
化粧直しも終わり、私は手にスマートフォンを準備する。このままトイレを出て、一直線で改札をくぐるつもりなのだ。
おそらく、王は一瞥した後、一瞬の猶予をくれるだろう。追跡者は、その瞬間に入れ替わる。
トイレを飛び出て、改札に駆け込む。注意する駅員の声が響く。同時に――。
「曲者め! 先に手を出し合ったか!」
王が声を上げて私達を追う。
「動きました」
その言葉は、王を指しているのではない。その後ろから、思惑通りに追いかけてくるものがいたのだろう。
改札を抜けると、切符売り場や窓口のある空間に出る。出入り口は開放されており、扉などはない。
「はぁ、はぁ、くっそ、つらい!」
「運動不足ですぞ。ラキの散歩をしたらどうです?」
「この前した!」
一週間も前だ。せめてもの救いは、走りやすいスニーカーを履いていたことか。外に出ると、バスを待つ列をバリケードにするように隠れ、目隠しとして利用しつつ、ロータリーを回って、中心部である学園方向へと進路を取る。
「では、このまま」
「グッジョブ、ライちゃん!」
「グッドラック、では?」
素で間違えた。頭に酸素が回ってないのかもしれない。けれど、今の状況は推進部を切り離した宇宙船のものだろう。後は慣性に任せるように、自分のペースを取り戻せばいい。
「遅いぞ?」
耳元で、甘い声が響いた。顔を向ければ、そこにあるのは王の顔。一瞬にして背筋が凍った。限りなく小さな声が耳に届く。「芝居と言えど、手は抜きたくないのでな」。
「ミクリィッ!」
一瞬で彼の顔が消え、代わりに頼もしい背中が現れた。
「格闘戦はお得意かな?」
「徒手空拳は武士の嗜みで候」
そんな訳あるかっ! と心の中で叫びながら、懸命に足を動かして距離を取る。背後では恐ろしい音色がところ狭しと奏でられ、悲鳴と破裂音も交えての、まるで私の背を押す行進曲のようだ。追い立てられる、という意味では、狂想曲だろうか。音楽の知識はあまりない。
「はぁ、はぁ、あー、くっそ! サンドウィッチの後に蕎麦を食って、なんで、全力疾走しなきゃならんのさ!」
おまけにどちらも増量である。
確かに、私はよく食べるほうである。けれど、それは運動を勘定に入れていないからでもあって、運動をする前提で言えば、そんなに食べずに取り掛かりたいという思いがある。おにぎり一個でも十分だ。
あぁ、脇腹が痛い。これが終わったら、私は散歩を日課にするんだ。そう心に決めながら、私はようやく、交番へと駆け込むことに成功した。
「はぁ、はぁ、はぁ、し、死ぬ。これ、本当に必要だった?」
対応してくれた警官は、直ぐに何処かへ連絡を取っている。そして、椅子に座らせて背中を擦ってくれる。これで、ひとまず事態が落ち着いてくれれば、私の頑張りも報われるというものなのだが。
「大丈夫ですか? 水、飲みます?」
「頂きます。それと――」
「それと?」
「煙草を一本、ください」
「ここは禁煙です」
クソッタレが。




