タイトル未定2025/08/19 21:47
序章
その美しい娘は歳の頃が二十三、四歳くらいに見えました。
娘は奉公するために、あるお城にやってきました。
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そのお城はいつも静まり返っていました。
まるで無住の城といった感じでした。
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そんな何処かの国のお城でのお話です。
一夜目
ある晩の真夜中の事です。
娘は用事を言いつけられての帰り道です。
月夜の庭を横切って、自分の部屋に帰ろうとしていました。
丁度その時、反対側から人影が近づいてきました。
近づくと、それは年の若い男の子でした。
男の子は散歩するかのような感じで歩いて来ました。
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「こんばんは・・・・・失礼いたします」
会釈をして失礼のないように通り過ぎようとした時
男の子は娘に声を掛けてきました。
「今晩は。あなたはこんな時間まで、お仕事ですか」
「はい、明日の準備をしての帰りです」
「そうですか。僕はここの王子ですが体が弱くて昼間の光は苦手です。それでこのような夜中に散歩しているのです。時々会っても不思議に思わないでください」
そう言い残して森の方へ歩いて行かれました。
娘は、その後ろ姿をずっと見つめていました。
娘はその後も時々王子さまを夜の庭で見かけました。
二夜目
ある日の晩
娘は王子さまに声をかけました。
王子さまは嫌がる風もなく、気軽に応じてくれました。
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王子さまのお話によると、
王さまとお妃さまはお亡くなりになり、今はお一人でお暮らしになっているとか。
遠いご親戚がこのお城を管理されているので、使用人もごく少数だけというような事をお話してくれました。
三夜目
それから、何日も過ぎた十三夜月の晩のことです。
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今度は王子さまの方から声をかけてきました。
「あなたはどこから来たのですか」
「私はここから遠く東の端の国から参りました」
「随分と遠くから来たのですね。何か特別な事情でもあるのですか」
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娘は自分の事情を話しました。
「はい、失くしたものを探しています」
「何を失くしたのですか」
「薄衣です。それは母の大切の形見なのです」
「その薄衣を探して、ここまで来たのですか」
「はい、薄衣が西の国の王様の手に渡ったと噂に聞きました。それで、あちこちを巡り、このように奉公をしながら探しております」
王子さまは、それを聞くと、とても驚いていました。
王子様は少し考える風にしてから
「見つかるといいですね」
王子さまはそう言うと、森の奥の暗闇に歩いて行かれました。
娘は遠ざかる王子さまの後ろ姿をじっと見送っていました。
四夜目
さらに何日も過ぎた新月の晩のことです。
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娘はランプ片手に暗い庭を横切っていきますと、庭の中程、星明かりの下で佇んでいる王子さまに出会いました。
王子さまから声をかけてきました。
「今晩は、また遅くまでお仕事ですか」
「はい、その通りでございます。王子さま」
「先日、あなたが失くしたという薄衣はどのようなものですか」
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娘は失くした薄衣の事を話しました。
王子様は黙ってそれを聴かれておりました。
「さあ、もう夜も更けたし、新月なので、早くお帰りなさい」
と、王子さまが言いましたので、娘はお礼を言って帰って行きました。
王子さまは、その様子を見ていました。
それから、いつものように森の深い闇の中へと歩いて行かれました。
五夜目
雲一つない夜空に十五日の月が輝いている晩です。
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王子さまは庭の隅にある東屋で月明かりを頼りに古い書物を熱心に読んでおりました。
娘が庭を横切って近づいてきました。
王子さまは微かに小道を歩く足音に気づかれました。
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王子さまはおもむろに本を閉じ、小道に出ていきました。
娘は王子さまに気が付きました。
娘は黙って、会釈をしました。
「今晩は。今日もお仕事ですね」
王子さまの顔は月明かりに、少し微笑んでいるよう見えました。
「はい、そうです。王子さま」
娘も、微笑みを持って返します。
二人のいる庭に月の光がゆらゆらと届き、それはまるで水底の音のない世界のようでした。
「少し、お話してもよろしいですか」
「はい。王子さま」
「この城の地下には牢獄があり、その奥には秘密の部屋があるのです」
娘はじっと、王子さまの次の言葉を待ちます。
王子さまは、娘の様子を見て、何か悟ったように、次を話し出しました。
「あなたが失くしたという薄衣の事を聞いて思い出したことがあるのです。僕は一度だけ行ったことがあります。そこで王さまから古風な薄衣を見せていただきました」
それを聞くと、娘は顔を上げました。
娘の両目に月明かりが入り、少し輝いているようでした。
王子さまは続けて言いました。
「それが、あなたの探している薄衣ではないかと思います」
娘は失礼なのも忘れ、まっすぐに王子さまの顔を見つめてしまいました。
その肩はかすかに震えていて、両手はグッと握られていました。
「僕が生まれた時、その薄衣で包むと不思議なことが起きたそうです」
王子さまは娘の様子を気遣いながら続けました。
「色や形、良い香りがするということでしたので、あなたがお探しの物と同じではないかと思いました」
聴き終わらないうちに娘は顔を紅潮させてきました。
まなじりを決して、大きく見開きました。
そして、王子さまのお話が終わりますと、娘の口から
「王子さま、その薄衣をぜひ見せていただきたいのです。お願いいたします」
娘は深く深く頭を下げました。
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王子さまは確信したようでした。
それから、娘に優しく言いました。
「さあ、頭を上げてください。それでは明日、月が南に来た頃、あそこの扉の所に来てください」
そう言って、お城の外れにある木の扉を指しました。
「分かりました。必ず伺います」
「それでは明日」
そう言い残して、一人森の暗闇の中へ音もなく消えていきました。
娘は、王子さまの後ろ姿が見えなくなるまで、じっと見送っていました。
その両目には大きな涙が一つ、月明かりに輝いておりました。
六夜目
翌日、月が南の空に昇ったころです。
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娘は言われた扉の前まで来ますと、王子さまは先に待っておられました。
「さあ行きましょう」
そう言って大きな木戸の扉を開けて中に入りました。
王子さまは用意していた松明に火を付けて石段を降りて行きました。
下へ降りると石畳の廊下と不気味な鉄格子のある牢獄がありました。
「今は使われていませんし、ここには誰も来ません」
王子さまはゆっくりと鉄格子の間の通路を奥へ進んで行きました。
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「ここです」という声がして、頑丈な鉄の扉の前で止まりました。
王子さまは懐から書物を取り出し、呪文を唱え出しました。
呪文が終わらないうちに、鉄の扉はスルスルと開き、カビ臭く淀んだ空気が流れ出てきました。
扉の奥は光りが届かず、暗闇でした。
王子さまは松明を先に入れて、自分も中に入って行きました。
「大丈夫ですよ。どうぞ」
松明の明かりに照らされた王子さまの笑顔が見えました。
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王子さまが松明を壁の穴に差し込むと、火の粉を撒きながらパチパチと鳴りました。
松明に照らし出された空間は十二畳程の石囲いの部屋で、中央に古びたテーブルがあり、その上には古びた頑丈そうな木箱が置いてありました。
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王子さまは、迷う事なく古びたテーブルの前に行きました。
娘も、その傍らに並びました。
王子さまは書物を取り出して呪文を唱え出しました。
暫くすると木箱からガチッと小さな音が聞こえました。
王子さまが木箱の蓋に手を掛けると蓋はパタンと開きました。
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松明の明かりで木箱の中が見えました。
古びた薄衣が畳んでありました。
「あなたが話されていた薄衣に似ていると思います」
王子さまはそう言って古びた薄衣を机の上に広げました。
すると強い香気が波のように広がり、古びた薄衣は生き物の様にゆっくりと波打っています。
突然、小さな悲鳴が部屋に響きました。
王子さまは驚いて、娘を見ました。
「どうしたのですか」
娘は古びた薄衣を凝視したまま、ただ肩を震わせていました。
王子さまは黙って、待っています。
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「取り乱してしまい申し訳ございません」
暫くしてから娘は話し出しました。
「私は地上の者ではございません。罪があり、この地上に堕とされたのです。そして、ある日、浜辺で沐浴をしているとき、盗まれてしまいました。この薄衣がないと月に帰れないのです」
娘は懐かしさで目が潤んでいました。
「あれから四百年探しました。やっと巡り合うことができました」
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王子さまは暫くの間、黙ってその様子をみていました。
「そうですか。これはやはり人間の持つ物ではないのですね。王さまもそれに気が付かれて、ここに隠したのです。僕も今まで誰にも話した事がないのです。でも、あなたの話を聞いて、気持ちが変わりました」
「王子さま、ありがとうございます」
娘は涙ながら言いました。
「王子さまとは不思議なご縁で結ばれているのですね」
王子さまも深く頷きました。
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「それでは、あなたにお返しします」
王子さまが古びた薄衣を娘に渡しました。
すると娘の頭から足元に向かって、体が淡く光りだし、着ていた衣装も靴も見たことのないものに変わりました。
古びた薄衣は五色の光に美しく輝き出し、娘の体にフワッとまとわりついたように見えました。
それも束の間、娘も薄衣も見えなくなりました。
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部屋は松明の明かりとそれの爆ぜる音がするだけです。
王子さまは身動きもせずに、その場に立っています。
暫くして、娘の声が聞こえてきました。
「私は帰る事が赦されました。王子さま、ありがとうございます」
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王子さまは、その声を聞いて深く納得されたように頷きました。
突然、松明の火が消えてしまい、秘密の部屋は漆黒の世界に戻りました。
暗闇の中で、王子さまの声だけが響き渡りました。
「僕も長い間一人ぼっちでした。これで父母の元に帰ることができます」
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外は十六夜のお月さまがお城を煌々を照らしている晩の事でした。
後日譚
その日はよく晴れた日でした。
城の庭に十人程の人が案内の人の後について現れました。
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案内の人が言いました。
「みなさん、お城巡りのツアーにようこそ。数十年前まで、ここは無住のお城でした。それを近年、遺産としての見直しする機運が高まり、ツアーを開催する事になりました」
参加者の一人が案内の人に尋ねました。
「この城の歴史はどのようなものですか」
「築城は古く千年前です。その後何世代も王政の歴史は続きました。しかし、近年になり革命で王政が廃止されました」
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「それではこれから王さまの隠し部屋にご案内いたします」
案内の人が石壁のスイッチに触れると、暗い入り口は奥まで明るくなりました。
そして、先頭になって階段を降りて行きました。
地下室に降りると、そこはひんやりとした空気に包まれていました。
地下牢には囚人の人形があり、雰囲気を盛り上げていました。
「さあ、ここです。一人ずつ入ってください」
電灯で照らされた部屋の中央に大きなテーブルがあり、その上に蓋の開いている古い木箱がポツンとありました。
「さあ、これが王さまが大事にしていた秘密の木箱です」
参加者は代わる代わる中を覗き込みました。
「あらっ、良い香りがするわ」誰かが言うと、皆は順に嗅ぎました。
「本当に良い匂いね。やはり王様の箱だけのことはあるわね」
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参加者の興奮が冷めるのを見計らって、案内の人は解説を始めます。
「これには言い伝えがあります。最後の王さまとお妃さまの間にはお子さまがいませんでした。ある年の遠征で、王さまは美しい薄衣を手に入れました。すると、王子さまがお生まれになり、薄衣でおくるみになると、空からは花びらが舞い、辺りは良い香りに包まれたそうです」
驚きの声が広がりました。
「しかし、王さまはこれは人間の持つ物ではないとお察しになり、この木箱の中に封じ込めたそうです」
案内の人は一呼吸置いてから、声を低めにしておもむろに続けます。
「その後、革命で王さまとお妃さまは、ここで処刑されたのです」
女性達から悲鳴に似た悼む声が漏れてきました。
参加者の男性が案内の人に尋ねました。
「王さまが処刑されたのはいつ頃の話ですか」
「今から百年以上前です」
参加者の女性が案内の人に聞きました。
「薄衣はどうなったのですか」
「革命の時に失くなったのか、今となっては分かりません」
また、別の女性も聞きました。
「王子さまはどうなったのですか」
「王子さまについても何も伝わっていません」
少し間を置いてから、案内の人は淋しそうに続けました。
「ただ、当時まだ十二歳だったそうです」
それを聞いて、誰もがその行く末を願わずにはいられませんでした。
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外に出ると、参加者は日差しの明るさに生き返ったようでした。
明るい城の庭に案内の人の声が響き渡ります。
「それでは森の奥に、王さまとお妃さまのお墓がありますので、ご案内いたします」
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どこか遠くで郭公がのんびりと鳴いていました。
おわり