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囁きの村

夜明け前の霧が静かに晴れはじめるころ、私は村の入口に立っていた。視界に映るのは瓦屋根の連なりと、水滴を宿した草むら。誰も声を上げず、足音以外の音は微かに聞こえるのみだ。


石畳の小径を進むと、路地の隅からかすかな「……ん?」という声が漏れた。人の口から出るには曖昧すぎる、何かを探し求めるような、それでいて掴めない囁きだった。私はその声をたどるように歩みを止めず、さらに村の奥へ向かった。


広場の中央には大きな楠が立ち、その根元には年老いた書記官がひとり腰掛けていた。革張りの書物を開き、羽根ペンで走り書きを繰り返している。私が近づく気配を感じると、彼は顔を上げ、深い溜息を漏らした。


「またか……聞こえただろう?」

「ああ」

「この村では、失われた言葉の囁きを記録している。消えゆく記憶を留めるためにな」


私は書記官の隣に身を寄せず、少し距離を保ったまま頷いた。雨に濡れた文字が列を成す書物のページは、ありとあらゆる断片的なフレーズで埋め尽くされている。どれも意味を成さない小さな声の欠片だ。


「手伝わなくていいのか?」

彼の問いに、私は首を振った。

「聞き取るだけなら、役に立つかもしれない」

そう言って書記官は書物を差し出した。私は指先で一行を撫で、その筆跡の冷たさを確かめる。


ふいに、遠くの家の軒下から子どもの声がこぼれた。――「ありがとう」

言葉は短く、しかし確かな温度を帯びていた。書記官は筆を置き、ページの隙間に新しい行を書き足す。私はその背中を見つめ、微かに息を詰めた。


声は村の至る所から繰り返し囁かれ、やがてひとつの旋律を紡ぐように響いた。戸口の隙間、塀の上、古井戸の縁――それらがすべて同じ言葉を分かち合う祭りのように。


やがて夜が白み、村の入口へと戻るとき、書記官が静かに立ち上がり、私に向かって言った。

「この村の名は、『ヒソネ』──囁きの村、だ」


私は答えずに視線だけを返した。楠の大樹が夜露を散らし、最後の囁きが霧の中へ溶けていく。


石碑の前に立つと、苔むした石面に薄く皮むけた文字が彫られていた。


──ヒソネ(囁き)


村人たちの声は、永遠に記録に残るだろう。だが、私の旅路にその重さはない。刻まれた囁きを胸に、私はまた一人、先へ進む。

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