菜彩の村
朝霧が野原を覆い尽くすころ、私は石畳の小径をひっそりと歩いていた。辺りには煮炊きの香りはまだ届かない。だが、足元に敷かれた小さな木札に「菜彩村」と刻まれているのを見て、ここが何かと料理に縁のある場所だと察した。私はそれ以上考えず、ただ先へと進んだ。
やがて霞の切れ間から、淡い陽光が一軒の農家を照らした。軒先に干されたトウモロコシの黄色い皮が、朝日の光を受けて柔らかく揺れている。近づくと、土の匂いとともに湯気が漂い、鍋をかき回す音が耳に届いた。
「ん……あんた、旅の者かい?」
中年の女が古びた木の鍋蓋を打ち鳴らしながら問いかけてきた。銀糸のように白い髪を後ろでまとめ、腕まくりした肘にはいくつか小さな傷跡があった。私は頷き、わずかに目を細める。女は嬉しげに笑うと、大きな木杓子を手に取った。
「ちょうど味噌仕立ての根菜煮が煮えたところだ。さ、こっちへ来て食べていきな」
私は言葉少なにうなずき、丸太の切り株をベンチ代わりに腰を下ろした。女は大きな鍋から具沢山の煮込みを掬い、深い陶碗に盛りつける。にんじんや大根、さといも、牛蒡――野の恵みそのものが味噌の柔らかな琥珀色の出汁に浸っている。
「お待たせ」
そう言って差し出された一碗を、私は両手で受け取った。香りは素朴で、湿った大地の記憶すら含んでいるようだった。匙をすり入れると、野菜がほろりと崩れ、味噌のコクと甘みがじんわりと広がった。
「……深いな」
思わず囁くと、女は目尻を下げて笑った。
「この土地の野草や落ち葉で出汁を取っておる。化学のものなど一切使わないから、体にやさしいはずだ」
私は碗の底が見えるまで静かに平らげ、そっと碗を返した。女は淡々と鍋をかき回しながら、ひとつの包みを差し出してきた。
「持っていきな。焼き芋じゃ」
包みをほどくと、ほかほかのさつま芋が二つ。外皮は炭火で香ばしく焦げ、中は蜜のようにしっとりと甘かった。私は受け取ると、礼も言わずに歩みを再開した。
村の中央には小さな広場があり、木製の台の上に蒸し器がいくつも並んでいる。蒸気の向こうでは、数人の村人が野菜を切ったり、ご飯を炊いたりしている。子供たちはその周りで笑い声をあげ、出来上がった蒸し野菜やおこわを皿に盛っては、互いに差し出しあっていた。
端に立つ老人が、私に気づくと手招きした。毛羽立った灰色の羽織には、祭りの名残と思しき刺繍が施されている。私は無言で頷き、老人の隣に立った。
「よそ者よ、腹が減っておるだろう? どうぞ遠慮なく」
老人は蒸し器の蓋を開け、色とりどりの菜野やおこわを皿に盛りつけてくれた。青菜の緑、紫芋の淡い紫、栗の黄、朱に染まった小豆――それらが一つの皿に鮮やかに並んでいる。
「……きれいだ」
私は目を細め、皿を受け取った。そのままゆっくりとかぶりつく。野菜のうま味と、炊き込み米のほんのりとした甘みが、澄んだ空気の中でやさしくほどけていった。
老人は箸を震わせながら、私の反応を楽しむように笑みを残した。
「この村では年に一度、野菜と米と豆の恵みに感謝してこうした宴を開く。祝うのではなく、恵みを『分かつ』のじゃ。それが、昔からの習わしよ」
私は無言で皿を空にし、老人に返した。老人は満足そうに頷き、皿を他の者に渡して再び準備へ戻った。
午後の陽が傾くころ、小さな鍛冶場の前を通り過ぎると、若い鍛冶職人が鉄鍋の縁に刻む紋様を仕上げていた。私に気づくと鍛冶職人は小槌を手に取り、ひとつの鍋蓋を地面に置いた。
「旅人よ、これをどうぞ。村の祝宴には欠かせぬ鍋蓋じゃ。色とりどりの食材をよく見せる銀の蓋だ」
私は一瞬躊躇したが、頷いて蓋を受け取った。その光沢は、夕陽を受けて金色に輝いた。
村の外れには、小さな石碑が立っていた。夕暮れの光を背に、苔むした文字が淡く浮かび上がる。
──「菜彩」
古の言葉で「野菜の彩り」を意味するという。
──なるほど、と私は呟いた。
この村には、味と色を分かち合う文化が根付いていた。
だが、その彩りも、私には荷物にはならない。
私は石碑に背を向け、また一人で歩き出した。
誰とも分かち合わず、だが確かに生きる力を受け取って、次の旅路へ。