表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

菜彩の村

朝霧が野原を覆い尽くすころ、私は石畳の小径をひっそりと歩いていた。辺りには煮炊きの香りはまだ届かない。だが、足元に敷かれた小さな木札に「菜彩村」と刻まれているのを見て、ここが何かと料理に縁のある場所だと察した。私はそれ以上考えず、ただ先へと進んだ。


やがて霞の切れ間から、淡い陽光が一軒の農家を照らした。軒先に干されたトウモロコシの黄色い皮が、朝日の光を受けて柔らかく揺れている。近づくと、土の匂いとともに湯気が漂い、鍋をかき回す音が耳に届いた。


「ん……あんた、旅の者かい?」


中年の女が古びた木の鍋蓋を打ち鳴らしながら問いかけてきた。銀糸のように白い髪を後ろでまとめ、腕まくりした肘にはいくつか小さな傷跡があった。私は頷き、わずかに目を細める。女は嬉しげに笑うと、大きな木杓子を手に取った。


「ちょうど味噌仕立ての根菜煮が煮えたところだ。さ、こっちへ来て食べていきな」


私は言葉少なにうなずき、丸太の切り株をベンチ代わりに腰を下ろした。女は大きな鍋から具沢山の煮込みを掬い、深い陶碗に盛りつける。にんじんや大根、さといも、牛蒡――野の恵みそのものが味噌の柔らかな琥珀色の出汁に浸っている。


「お待たせ」


そう言って差し出された一碗を、私は両手で受け取った。香りは素朴で、湿った大地の記憶すら含んでいるようだった。匙をすり入れると、野菜がほろりと崩れ、味噌のコクと甘みがじんわりと広がった。


「……深いな」


思わず囁くと、女は目尻を下げて笑った。


「この土地の野草や落ち葉で出汁を取っておる。化学のものなど一切使わないから、体にやさしいはずだ」


私は碗の底が見えるまで静かに平らげ、そっと碗を返した。女は淡々と鍋をかき回しながら、ひとつの包みを差し出してきた。


「持っていきな。焼き芋じゃ」


包みをほどくと、ほかほかのさつま芋が二つ。外皮は炭火で香ばしく焦げ、中は蜜のようにしっとりと甘かった。私は受け取ると、礼も言わずに歩みを再開した。


村の中央には小さな広場があり、木製の台の上に蒸し器がいくつも並んでいる。蒸気の向こうでは、数人の村人が野菜を切ったり、ご飯を炊いたりしている。子供たちはその周りで笑い声をあげ、出来上がった蒸し野菜やおこわを皿に盛っては、互いに差し出しあっていた。


端に立つ老人が、私に気づくと手招きした。毛羽立った灰色の羽織には、祭りの名残と思しき刺繍が施されている。私は無言で頷き、老人の隣に立った。


「よそ者よ、腹が減っておるだろう? どうぞ遠慮なく」


老人は蒸し器の蓋を開け、色とりどりの菜野やおこわを皿に盛りつけてくれた。青菜の緑、紫芋の淡い紫、栗の黄、朱に染まった小豆――それらが一つの皿に鮮やかに並んでいる。


「……きれいだ」


私は目を細め、皿を受け取った。そのままゆっくりとかぶりつく。野菜のうま味と、炊き込み米のほんのりとした甘みが、澄んだ空気の中でやさしくほどけていった。


老人は箸を震わせながら、私の反応を楽しむように笑みを残した。


「この村では年に一度、野菜と米と豆の恵みに感謝してこうした宴を開く。祝うのではなく、恵みを『分かつ』のじゃ。それが、昔からの習わしよ」


私は無言で皿を空にし、老人に返した。老人は満足そうに頷き、皿を他の者に渡して再び準備へ戻った。


午後の陽が傾くころ、小さな鍛冶場の前を通り過ぎると、若い鍛冶職人が鉄鍋の縁に刻む紋様を仕上げていた。私に気づくと鍛冶職人は小槌を手に取り、ひとつの鍋蓋を地面に置いた。


「旅人よ、これをどうぞ。村の祝宴には欠かせぬ鍋蓋じゃ。色とりどりの食材をよく見せる銀の蓋だ」


私は一瞬躊躇したが、頷いて蓋を受け取った。その光沢は、夕陽を受けて金色に輝いた。


村の外れには、小さな石碑が立っていた。夕暮れの光を背に、苔むした文字が淡く浮かび上がる。


──「菜彩」


古の言葉で「野菜の彩り」を意味するという。


──なるほど、と私は呟いた。


この村には、味と色を分かち合う文化が根付いていた。

だが、その彩りも、私には荷物にはならない。


私は石碑に背を向け、また一人で歩き出した。

誰とも分かち合わず、だが確かに生きる力を受け取って、次の旅路へ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ