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水月の村

深い湖に面したその村は、昼なお薄暗かった。

水面は鏡のように静まり、岸辺の岩影に空が映り込んでいる。

私は理由もなく辿り着き、理由もなく足を止めた。

背には弓、腰には短剣。魔法など持たぬ身だ。


村へ続く砕けた石段は、苔でつるつると滑る。

その脇を流れる水は冷たく、月のように青白く光っていた。

足音は音もなく、ただ自分の呼吸だけが耳に届く。


村の家々は瓦こそ残っているものの、壁はひび割れ、柱は傾いている。

戸口には誰も立たず、窓の明かりも見えない。

生気のない村。だが、生者がまったくいないわけではなかった。


湖畔の小屋の前に、老いた男が一人、腰かけていた。

釣り糸を垂らし、ゆっくりと水面を見つめている。

私を認めると、男は何も言わず、ただ細い釣り糸を引いた。


「魚はもういないかもな」


男の声は枯れていたが、怒りでも悲しみでもなく、淡々と事実を告げているだけだった。

私は何も返せず、ただ辺りを見回す。


湖の端に、小さな舟が一艘、錆びた鎖で杭に繋がれている。

その舟には、一冊の羊皮紙が置かれていた。

指先でそっと拾い上げると、そこには古びた文字で詩が綴られていた。


『月は水面に沈み、影は水底に眠る。

ここに集う者は、夜ごと夢を狩る。』


詩を読み終えたとき、初めてここが何を待つ村なのか、ほんの少しだけ理解しかけた。

しかし真相を知ろうとは思わなかった。

興味はない。


私は紙を元の場所に戻し、短剣を一度だけ鞘から抜き放った。

刃先に月光が反射し、小さな三日月のように輝いた。

そのまま鞘に納め、何事もなかったかのように歩を進める。


夜が更け、湖畔はさらに静かさを増す。

風が吹くと、水面が揺れ、月光が断片となって岸に零れ落ちた。

足元に、ほんの小さな花びらが一片――白い湖蓮の花びらが浮かんできた。


私はそれを目で追っただけで、手を伸ばさなかった。

静かな夜に、余計な動きは無用だと思ったからだ。


やがて東の空に薄明かりが差し、村を包む闇がゆっくりと退いていった。

私は湖畔を離れ、村の出口へ向かう。

背後で、波紋が小さく消えた。


村の外れに、半ば倒れかけた石碑があった。

苔の陰で「水月」とだけ刻まれている。

読めば、古の言葉で「水に映る月」を意味するという。


なるほど、と私は呟いた。

湖面に映る月を愛でる者は、夢と現の間を彷徨うのだろう。

それが、この村の縁の者たちの宿命なのかもしれない。


だが、私には関係のないことだった。

月も水も、夢も現も、私には何の価値もない。


私は石碑を背に、ただ歩き出す。

誰を導くことも、誰を見送ることもなく、

一人きりで、また旅を続けていく。

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