閑話 大人たちの苦労
「あぁぁぁぁ~つ゛か゛れ゛た゛ぁ゛ぁぁぁぁ」
ぐびりぐびりとジョッキを煽り、アルコールを喉に流し込む。
ここ最近気を張る毎日だったから、解放感がとてつもない。
ようやく、ようやくと言っていいだろう。
受け持ったクラス全員の進路が決まったのだ。
もちろん、全員が希望した進路に行けたわけではない。
それでも、生徒一人一人が現実と折り合いをつけて自分が進む道を決めたのだ。
肩の荷が下りるというものだ。
自分が初めて担任したクラスと、無事三年間駆け抜けることができた。
新米教師として、その事実がなによりも感無量であった。
酒を飲む手が進むというものだ。
あぁー、これで私生活も充実していたら文句なしなのになぁー。
クラスの一人の男子に言った発言が脳裏によみがえる。
『教師は、忙しすぎる』『刺激的な恋がしたい』『イケメンを囲ってお酒が飲みたい』
今にして思えば、生徒に向かって言っていいセリフではなかったが、本心である。
青春を間近で見せつけられる身にもなってほしい。
あぁ、誰か私の手を取って、見知らぬ体験をさせてくれないものだろうか。
「お客様、申し訳ございませんが、相席をお願いしてもよろしいでしょうか」
「あぁ、いいですよ」
どうやら店が混雑してきたようだ。
けっ、若い男女二人で座敷を占領するなよ。カウンターに座れカウンターに。
アルコールによってタガが外れた脳が、普段作っている教師の仮面を外す。
相席する人間に、思いっきり愚痴でもぶちまけてやろうか。
運が悪かったと思ってもらおう。
店員に案内されてきた客を見て、そんな考えは吹き飛んだ。
「すみません、お嬢さん。急に相席なんてイヤでしたよね」
「いえ! お気になさらずに! 丁度飲み相手が欲しかったんですよ!」
「本当ですか? それなら、喜んでお相手させていただきますね」
イケメンだ。
年は三十過ぎくらいだろうか、にこやかに笑う顔は人を安心させる雰囲気を醸し出している。
好青年に見えなくもないが、自分よりも年上だと恋愛センサーが告げている。
「いやぁ、何の考えなしに県外から来たもんだから、知り合いもいなくて不安だったんですよ」
「あら、そうなんですね。観光か何かですか?」
「えぇ、似たようなもんです。おや、グラスが空ですね。相席させて頂いた縁です、一杯おごりますよ」
「いいんですかぁ、ごちそうになります!」
男はそういうと、歩いていた店員を捕まえて追加の注文をテキパキと済ます。
気前良し、顔よし、要領よし。
これは、優良物件なのではないか?
県外から来ていたというから、最悪一夜の関係でもいい。
燃えるような、恋がしたいのだ。
それが過ちだとしても、この解放感に身を任せてどこまでも行きたい気分だった。
「県外から来たということは、どこか泊まる場所でも?」
「いやぁ、それが無くてですね。どうしたものかと」
「もし、よろしければこの後私の家なんかどうですか? 飲み直しも兼ねて、ゆっくりしませんか」
男の目が、ついと細くなる。
笑顔は変わらないが、私の意図はくみ取ったようだ。
「いいんですか? 火傷しても、責任は取りませんよ?」
グラスを傾けながらほほ笑む男は、どうやら遊び慣れているようだ。
お遊びでもいい、おかわりしたジョッキを一気に飲み干して、私も笑い返す。
刺激的で、イケメンを囲んで酒を飲む。私の理想を実現するチャンスだ。
「ぜひ」
その後のことは覚えていない。
ただ、積み重なった空き缶と、痛む腰だけが顛末を告げていた。
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珈琲職人の朝は早い。
朝一番から豆の様子を確認し、その日その日に応じた物を淹れるようにする必要があるからだ。
……なんてことはない。
妻が早く起きるから、俺も早く起きているだけだ。
あくびをしながら、カウンターに腰かけてタバコを吸う。
朝一番の一服は気持ちが良い。
今日は日曜日、いつもならガキどもが働きに顔を出すが、卒業式が近いから休みにしてやった。
妻もいるし、最悪手伝ってもらえば店は回る。
しっかし、エイジも卒業ねぇ。
時が経つのは早いもんだ。
今でも初めての出会いは覚えている。
店の前を死んだようなツラして歩いてるガキがいたもんだから、思わず声をかけてしまったのだ。
『ガキ、店でコーヒー飲んでけよ』
『え?』
『いいから、客来なくて暇なんだよ。味見に付き合えって』
それから、まぁなんだかんだあって今に至るのだが。
まさか適当に声かけたガキが、知り合いの息子とはなぁ。
世間は狭いものだ。
吸い殻を灰皿に押し付けて、時計を見る。
開店にはまだ早い、もう少し一服でもするかぁ。
そう思っていると、カランカランと来客を告げるベルの音がした。
看板も目に見えねぇのか、そう思って文句をつけようと顔を上げると、見知った顔がいた。
「すいません、お尋ねしたいのですが......あぁん、んだ坂東じゃねぇか」
「いきなり来ておいてひどい言い草だな、海藤よぉ!」
「あぁ、うるせぇでけぇ声出すな、頭が割れる」
呼吸に混じってするアルコールの臭いと、明らかに女物のシャンプーの匂いに思わず顔をしかめる。
こいつ、一晩どこかで女引っ掛けてきてから来たな。
「お前、まだ女遊びの癖抜けてないのか」
「俺は一生現役だからよ、早々に家庭持ったお前には真似できん生き方をすんだよ」
「お前それ、エイジに教えてないだろうな」
「あぁん、覚えてねぇよそんなこといちいち」
見た目だけは優男のようなこのイケメンは、地元の同級生だ。
俺と、こいつと、村瀬と、学生時代は良くバカをしたものだ。
真面目を絵に書いたようなエイジの父親と、不良みたいな俺らは何故か不思議とウマがあった。
サボってばかりの俺と女遊びギャンブル遊びばかりの海藤の話をよく聞いてくれた。
まぁ、高校卒業してすぐエイジを産んだ村瀬が、一番進んでいたのかもしれないが、今となっては確かめようのない話だ。
「エイジの様子でも見に来たのか?」
「そんなかったるいことするかよ、競馬しに来ただけだ。あ、コーヒーくれ、甘いやつな」
村瀬が交通事故で亡くなった後、その子供の行方を俺は詳しくは知らなかった。
親戚の家で、養っているものだと思っていたからだ。
起業した会社も上手くいってたらしいし、地元でも人気者だったらしいから、深く心配はしてなかった。
それが仇になっているとは、露ほども知らなかった。
遺産を巡って転々と移るエイジの、最後の預かり先が何故かこの海藤だったのも知らなかった。
エイジが働き始めたタイミングでフラっと店に来たこいつから話を聞くまでは、エイジのことをただの同性だと思っていたぐらいだ。
口ではぶっきらぼうのこいつも、たまに様子を聞きに店に来るぐらいだから、多少の親心のようなものはあるようだ。
一度も顔を合わせていないらしいが、まぁそこは本人のやり方があるのだろう。
「わざわざ来たんだ、エイジに会っていけばいいだろ」
「なんで野郎のツラ見に行かなきゃなんねぇんだ」
「可愛い彼女と同棲してるぞ、あいつ」
「......どれぐらいだ?」
「そうだな、百人に聞いても十段階評価の最低九はつくな」
「ちょっと顔を拝みにでもいくかぁ」
「お前マジでやめろよ」
「俺が契約した部屋に! 俺の許可なく美人を連れ込む方が悪いだろ!」
「お前が連絡先教えてないだけだろ」
ひどいケチのつけ方だ。
一年も預かっておいて、何の連絡先も教えてないこいつに明らかな非があるというのに。
そもそも、エイジに名前すら教えてないからな、こいつ。
はぁとため息をつきながら、カウンターから身を乗り出して俺のタバコを勝手に吸い始める。
「まぁ、よろしくやってんなら俺から言うことはなんもねぇよ」
「お前が預かってたとは思えんほどいい子に育ってるよ。あぁ、外面の作り方はお前にそっくりかもしれん」
「ギャンブルと猫の被り方だけは教えてやったからなぁ、当たり前だろ」
「未成年相手に何教えてんだバカが」
「るっせぇ、しけたツラ毎日見せられる側にもなってみろ。ちったぁ見やすい顔にしてやったんだ」
「お前なぁ」
「それに、心開かねぇガキに無理して踏み込むことはねぇだろ。時間が、誰かが解決するしかなかったんだ」
深く吐かれたタバコの煙が、天井の換気口に吸い込まれて消えていく。
少しだけ沈黙の間があって、それから一気にタバコを吸い切るとそのまま立ち上がってしまう。
「今から行かねえと席とれねぇから行くわ」
「おい、一杯ぐらい飲んでけよ」
「いらねぇ、あいつが来るからな」
「今日は休みにしたから、エイジは来ないと思うぞ」
「いや、来るね。元気な野郎のツラを見る趣味はねぇから行くわ」
そう言うと、止める言葉も無視して乱暴に扉を開けて出て行ってしまう。
嵐のような男だ。急に来たと思ったら、すぐに帰ってしまう。
海藤のために淹れていたコーヒーを自分で飲む。
滅多に飲まない、シロップを入れたコーヒーはやけに甘く感じた。
カランカランと、また扉の開く音がした。
忘れ物でもしたのだろうか。
「すみません店長、休みにしてもらっておいて厚かましいんですけど、今日店使ってもいいですか?」
「......本当に来るんだなぁ」
「え?」
「いや、こっちの話だ。いくらでも使え。今日は休業の気分だ」
「そんな自由でいいんですか?」
「個人経営の力だな」
「そのうち潰れますよ」
「お前も言うようになったなぁ」
キョトンとした陰のない顔に、三年という月日の流れを感じる。
ずいぶんとまぁ、子供らしい顔つきになった。
「おい、久しぶりに味見に付き合えよ。最近なかったからな」
「そういえば、そうですね。僕の味見には付き合ってもらってましたけど」
「お前も淹れる側になったもんなぁ」
「店長には感謝してますよ......あれ、何で灰皿が客側にあるんですか?」
「あぁ、友人がさっきまでいたんだ」
「へぇ、店長の友人ですか。いい人ですか?」
「カスだな」
「えぇ......」
「まぁ、いいカスだ」
「そんなカス存在します?」
笑いながら問いかけてくるエイジに、お前も知ってるやつだと喉元まで言いかけて止めた。
本人がかたくなに会いたがっていないのだ、俺から言うのは野暮だろう。
ああ、笑うようになったエイジの顔を、見ていけばいいのに。
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「やぁ、今いいかな。あぁ、透もいるのか。丁度いい、住むアパートのこと、見させてもらったよ。私から特に言うことはない。もし大人の力が必要なら気軽に声をかけてほしい......そんなに畏まらなくていい、長い付き合いになるのだからね。え? 意味が分からない? はは、君もとぼけるのが上手だね。まぁいいさ。また、何かあったら連絡するよ」
電話越しの少年の声は、恥ずかしさと困惑の色が十二分に伝わってきた。
同い年の異性と、同じ大学に進学し、同じアパートに住むという行動が、どういう意味か分からないほど大人は子供に無関心なわけではない。
彼の場合育ってきた環境が極端だから、その辺りがあまり分からないのだろう。
ずいぶんとまぁ、可愛いものだ。
彼も、彼越しに聞こえた透の声も。
スマートフォンの電源を落とし、病室へと向かう。
ベッドに座り、虚空を見つめる一人の女性に声をかける。
「姉さん、日の光でも浴びようか」
「……」
何も喋らない姉は、私の声にも何の反応も示さない。
夫が、透の父が死んで狂ってから、ずっとこの調子だ。
夫への愛が、娘の罪悪感が、感情に蓋をしてしまっているらしい。
窓のブラインドを調節し、陽の光を病室に入れる。
最近は体調が悪く、病院で様子を見てもらっている。
透には話してないが、いつか伝えなくてはならない。
明るい未来に進み始めた姪に伝えるには少しばかり気が重いが、伝えずにいるのも不誠実だろう。
「姉さん、透が高校卒業だってよ。時が経つのは早いね。いい彼氏も見つけて、楽しそうにしているよ」
返事は来ないと分かっていても、それでも話しかける。
冬の穏やかな日差しは、温かくて心地よい。
「......る」
「え?」
聞こえるはずのない声がしたような気がして振り返る。
相も変わらず、座っているだけの姉の姿があるだけだった。
ただ、瞳からは涙が流れて頬を濡らしている。
「とおる......」
「姉さん......?」
「ごめんなさい......ごめんなさい……愛していたのに......」
それは、後悔の声だった。
どうしようもない、心からの声だった。
何年も喋らずにいたせいで、かすれてろくに発声できない喉で、何回も何回も謝罪を繰り返している。
姉と透を合わせることは、きっと出来ないだろうが。
それでも、それでも少しだけ救われたような気がした。
ずっと、不安で仕方がなかった答えがあったから。
『わたし、あいされてないのかな』
泣きながら不安がるあの日の少女を、抱きしめることしか出来なかった自分をずっと責めていた。
あぁ、透、ちゃんと愛されていたよ。
今までも、これからも。
「姉さん。姉さんがしたことは許されないけど、それでも気持ちを教えて欲しいな」
「透......愛してたのに......守らなきゃいけなかったのに......」
「そっか、そうだよね。愛していたよね」
陽の光で溶けた雪が、窓を伝って流れていく。
もうすぐ、春になる。
嗚咽に満ちた部屋に、わずかばかりの希望が見えていた。
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