悪くないわ
目が覚めて初めて思ったことは、いい寝具というものはとても寝やすいということだ。
布団の柔らかさが、強く二度寝を誘惑してくる。
ふと、鼻をかすめた慣れない匂いに、自分が今どういう状況であったかを思い出し、ハッキリと目が覚める。
良い匂いとは言えないが、決して不快な匂いではない。
そう思った自分に少し腹が立ち、抱いていた枕を放り投げて起き上がる。
閉めてあったカーテンを開けて日差しを浴びる。
昼過ぎ頃だろうか、十分に寝たとは言えないが、気分は多少マシになった。
リビングやキッチンを見回してみても、村瀬君は居ない。
気を利かせて勉強部屋にいるのだろう。
鏡で乱れた髪を軽く手櫛で整える。
キッチンからはカレーの良い匂いが漂っている。
炊飯器は保温のモードに入ってから長い時間が経っている。
朝ごはんのために準備したものだろう、私が起きるまで待ってくれているらしい。
……朝からカレーって、重くないのかしら。
牛乳を冷蔵庫から取り出して、マグカップに注ぐ。
村瀬君がコーヒーを淹れてくれるだろうから、唇を湿らすぐらいの量で留める。
もう一度、手櫛で髪を整えてから読書部屋の扉を開ける。
机に向かって黙々と参考書とにらみ合っていた彼の顔が上がる。
「おや、おはよう。いや、こんにちはかな。ぐっすりと寝れたようで良かったよ」
「おはよう。ずいぶんと高い布団を使ってるのね」
「あぁ、適当に買ったから値段とか分からないや。泊って行くんだよね、布団使う?」
「村瀬君はどこで寝るのよ」
「んー、床に冬用の掛け布団敷いてこの部屋で寝ようかな」
「それは申し訳ないわ」
「でも他に選択肢がないよ。それともあれかい、一緒のベッドで寝るかい?」
からかうように笑う彼は、断られることを前提とした提案をしてくる。
私は泊めてもらう立場でもあるし、良い布団で寝られるならその提案を特に否定する理由もない。
「それでいいわ」
「え?」
「一緒に寝ましょうか」
乗って来るとは思っていなかったのか、からかう顔が困ったような顔に一気に変わる。
朝まであったイライラは、その顔を見てだいぶ解消された。
もう少しからかってあげよう。
「白石さんはさぁ、僕のこと男として見てないの? それとも、自分が女性って認識がない?」
「どっちもあるわよ、失礼ね。一回寝てるのに、二回も三回も変わらないでしょ」
「風邪ひいてる時とそうじゃない時とで話が変わってくるでしょ。僕も健全な男子高校生ってことを覚えていてもらいたいね」
「あら、手を出す勇気があるのかしら?」
自分が村瀬君に襲われる姿を想像しようとして、ふふと笑いが浮かぶ。
彼にそこまでの度胸はないだろう。
頑張って、ほっぺにキスしてくるのが限度だろうか。
赤くなった村瀬君は相も変わらず、この手の話に耐性はないようだ。
「それより、どうして泊まることになったかの話をしようか。コーヒー淹れてくるよ。あ、カレー食べる?」
「いただこうかしら、手伝わうわ」
そそくさと部屋を出ていく彼の後ろをついていく。
最早見慣れてしまった食器棚から、自分と村瀬君の皿を取り出してご飯をよそう。
……本格的に、卒業するまでお世話になろうかしら。
リビングの奥をちらりと見ると何も使われていない部屋の扉が見える。
2LDKでリビングしか使っていなかった男だ。
もう一部屋、空き部屋を借りてもいいかもしれない。
家賃は払える気がしないので、食費や生活費、家事の方で手伝えばトントンにしてもらう。
「なんか悪だくみしてない?」
「気のせいでしょ。カレー、良い匂いね」
「あ、分かる? 無水カレーってやつにチャレンジしてみたんだよね。味見の段階では美味かったから期待してくれていいよ」
褒められて、嬉しそうな顔をする彼は子犬のようだ。
尻尾があったらぶんぶんと振っているのだろう。
チョロいな、それほど懐いていてくれているのだろうか。
まぁ、私も悪感情を抱いていないからお互い様か。
二人でカレーとコーヒーを配膳し、無言で食べ続ける。
自信満々にいうだけあって、カレーには野菜の甘みが染みていてとても美味しかった。
甘口のカレーは普段食べないが、これはこれで悪くない。
彼も、だいぶ料理が上達したものだ。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。それで、どういった理由でお泊りになるわけ?」
コーヒーを飲みながら、村瀬君が質問してくる。
今気がついたが、廊下に放り投げたバッグが部屋の片隅にまとめて置いてある。
彼が動かしてくれたのだろう。
私が来てから、気になっていただろうに、だいぶ気を遣わせてしまっている。
「アパートが燃えたの」
「は? 大事故じゃん」
「まぁ、ぼや程度で済んだけど。放火らしくて、犯人がまだ捕まってないのよ」
「物騒だねぇ、それでアパートが閉鎖ってこと?」
「燃えた部分の修繕とか調査とかで、最低でも三日間は別の場所で過ごしてくれって」
思い返して、またムカムカとしてきた。
深夜にサイレンの音で叩き起こされたと思ったら、下の階から火が出ていて避難しなくちゃ行けなかったし、アパートに住んでいるのが私だけだから事情聴取も兼ねて警察署にも行かなければならなかった。
朝方ようやく解放されたと思ったら、アパートの自室は使えないことになっていた。
一睡もしていない頭ではとりあえず、日用品と勉強道具だけ詰め込んで、村瀬君の家に避難するのが精いっぱいだった。
もっと事前に状況を説明することができればよかったが、彼なら受け入れてくれるだろうという甘えもあった。
「村瀬君がイヤじゃなければ、三日間お世話になりたいわ」
「イヤって言ったら?」
「ネカフェで寝泊りかしら」
「もっと自分のこと大事にした方がいいよ」
「あなたがそれを言うの?」
「それはそう。僕の家でいいなら思う存分泊っていくといいよ」
「助かるわ、ありがとう」
「持ちつ持たれつでしょ、助け合いの精神で生きていこうよ」
「じゃあ、お礼にたくさん勉強を見てあげるわ。三日間、この部屋に缶詰ね」
「......お手柔らかにしてほしいなぁ」
彼の最後の言葉を無視してコーヒーを口にする。
ずいぶんと、深い関りになったものだ。
軽口を叩き合い、秘密を晒し合い、時間を共有しあう。
そんな相手が出来るとは、思ってもいなかった。
ぶつくさと何か呟いている少年の顔を見て、ふふと笑う。
この日々も、悪くはない。
「何? なんか顔についてる?」
「一緒のベッドで寝るって言った時に、顔真っ赤にしてたけど何を想像してたの?」
「......猥談は苦手なんだ」
「猥談ってことは、えっちなこと考えてたの?」
「あぁもう聞こえなーい聞こえなーい。勉強しよう勉強」
相変わらず、良く滑る口だ。
それがまた、可愛らしくて面白い。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。




