天使のような悪魔の囁き
小鳥のさえずりを聞きながら階段を上がる。
肌を刺すような冷たさは和らぎ、穏やかな風が吹いている。
もう少しすれば、桜が咲き始めるだろう。
踊り場で少し立ち止まって、スマートフォンの画面をつける。
返信は来ていない。
ため息をついて、階段をまた上がる。
エレベーターもあるが、常日頃から甘い物を食べているのだ。
運動する意識を持たなければ、あっという間に太ってしまう。
彼も私と一緒に食べているのに、どうして彼は太らないのだろう。
体質だろうか、不公平だと思う。
目的である、五階の角部屋にたどり着く。
インターホンを二回鳴らし、ノックを三回する。
少し待って反応が無いことを確認してから、合鍵を取り出す。
村瀬君の生活リズムは破綻している。
異常に早起きな時もあれば、何度インターホンを鳴らしても起きないときもある。
どうやら生まれ持った体質らしく、本人は特に問題ないと笑っていた。
鍵を回して扉を開ける。
玄関からすぐ右手にある部屋に入る。
最初は抵抗のあったこの行為も、今ではすっかり慣れてしまった。
読書部屋に置いた本も、だいぶ充実してきた。
村瀬君もたまに本を買っているようで、見たことのない背表紙が並んでいる時がある。
コートラックに上着を掛けて、カバンを置いて一息つく。
五階分も階段を歩いたのだ、暖かくなってきた気温もあいまって、少し喉が渇いた。
カバンを開けてから、気がつく。
水筒を家に忘れてきてしまったようだ。
どうしてもすぐに飲みたいというほどの渇きではないが、村瀬君がいつ起きてくるか分からない。
魔が差した。
彼はリビングで寝ているから、今まで勝手に部屋に入ったことはない。
キッチンは何回も入ったことはあるが、彼の居住スペースであるリビングに入ったのは見舞いの時だけだ。
起きたとき、私がいたらどんな反応をするのだろう。
いたずら心が、自制心より勝る。
廊下に出て、リビングへと繋がる扉を開ける。
キッチンも、初めて来たときと比べたら大きく様変わりしたものだ。
ほとんど空であった棚には、マグカップが並び、皿や茶碗が重なっている。
電源すら入っていなかった冷蔵庫には、キレイに整頓された食材や飲み物が入っている。
賞味期限が近い牛乳パックを開けて、棚から黒のマグカップを取りだす。
料理を教え始めてから菓子パン中心の食生活を改めたようで、今までなかった炊飯器からは炊けたお米の良い匂いがしている。
喉渇きは潤ったのでこのまま戻ればいいのだが、一度沸いてしまった好奇心は止めることは出来なかった。
音をたてないようにこっそりと、彼が寝ているソファベッドに忍び寄る。
寝ている村瀬君は、まるで死んでいると思わせるほど静かであった。
わずかに動く胸の動きだけが、彼の命を主張していた。
ベッドに横に立って、顔を覗き込む。
特段、面白い顔をしているわけではない。普通の寝顔だ。
面白くないと思った瞬間、もぞりと寝返りを打つ彼に驚いて心臓が止まる。
起きるかと思ったがそういった素振りはなく、毛布が少しズレるだけであった。
少し安堵してから、毛布を掛けなおそうとする。
その時に、ふと視線に入った彼の首に瞳が釘付けになる。
一度だけ見せてもらった、雪山で笑う彼の写真が脳裏をよぎる。
この白く細い首に、ロープが巻きついていたのだな。
そう考えた時には体が勝手に動いていた。
右腕が、彼の首に吸い込まれるように伸びていく。
少しだけ隆起した硬い喉仏に手のひらが触れて、包み込むように指先を置く。
指先が、どくりと脈打つ血管を感じて熱を帯びる。
言い表せないような感情が、心の奥底から湧き上がってくる
背徳感? 優越感? 興奮? 安心?
初めて感じる感情に、鼓動が高鳴る。
この指先に、力を込めたら。
彼はどんな顔をするのだろうか。
「えぇと、おはよう? 白石さん」
「おはよう、ねぼすけさん」
間の抜けた弱弱しい声は、現状を把握できていないようだ。
彼の発声に合わせて喉仏が動いて、手のひらがくすぐったい。
「これは、夢よ」
「そっかぁ、そうだよねぇ」
そう言って誤魔化すと、彼は安心したように二度寝してしまった。
首を握っている私が言えることではないが、よくこの状況で二度寝ができるな。
それだけ、信頼してもらえているのだろうか。
安らかな寝顔に、毒気が抜かれる。
手を放す前に、もう一度だけ首元を優しくなぞった。
何かに引っかかることもなく、するりと指先が離れていく。
「痕があったら、私とお揃いだったのに」
ぼそりと呟いてから、自分の口から出た言葉に驚いた。
村瀬君とお揃いのほうが、良かったのだろうか。
傷跡なんて無い方が生きていきやすいのに、どうしてそう思ってしまったのだろうか。
布団だけ掛けなおして、リビングから静かに退出する。
制服の上から右腕の傷跡をなぞる。
自分の感情をしっかりと言葉にすることは出来ないけれど、嫌な気分ではなかった。
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