ペルソナ
その日はいつもより気分が良かった。
混雑している電車でたまたま座れたことだとか、欲しかった新刊が最後の一冊で無事に買えたことだとか。
小さな喜びが積み重なって、自然と視線も上がっていた。
だからだろうか、書店からの帰り道にカフェがあることに初めて気がついた。
看板だけの、飾り気のない無骨な外見。
パッと見た限り、窓際の席は空いており混んではいないようだ。
買ったばかりの紙袋を覗く。
たまには、冒険をしてみるのもいいかもしれない。
心の隙間から好奇心が湧いてくる。
こういう機会でもなければ、訪れることはないだろう。
意を決してカフェの扉を開ける。
カランカランと鈴の音が鳴る。
店内はダークブラウンの木目調で統一され、暖色のペンダントライトが柔らかく灯る。
静かに流れるジャズとコーヒーの香りが、穏やかな空間を演出していた。
(落ち着いたいい場所ね……)
心の中で、珍しい行動をした自分を褒める。
今日は運気が向いているのかもしれない。
その瞬間まではそう思っていた。
「いらっしゃいませ。おひとり様でよろしいでしょうか」
ヒュッと、かすれたような声が喉から漏れる。
聞き覚えのある声が店の奥から聞こえる。
目にかかるほど伸ばした前髪をヘアピンでまとめ、エプロンを着た村瀬君がそこには立っていた。
いや、声が似ているだけで別人かもしれない。
爽やかな笑顔、ハキハキとした発声、ピンと伸びた背筋。すべてが、学校の彼とかけ離れている。
「奥のテーブル席へどうぞ。ご注文お決まりでしたらお声掛けください」
丁寧に、簡潔に案内される。
普段の彼ならもっと、意味の分からない話をしてくるはずだ。
考えないようにしよう。
案内された席に座り、メニューを見る。
どうやらコーヒー一本で勝負をしているお店のようだ。
サイドメニューらしきものはなく、銘柄だけが羅列されている。
メニューを眺めていると、常連客と村瀬君似の店員が会計しているのが聞こえる。
「エイジくん、今日もコーヒー美味しかったわぁ。また来るわね」
「店長に伝えときますね、またのお越しをお待ちしております」
同姓同名の別人かもしれない。
英二・栄治・瑛士、パッと思いつくだけでこれだけの漢字が浮かぶのだ。
でなければ、気持ち悪すぎる。
あの爽やかな好青年は誰だ?
「エイジ、今日はもう上がっていいぞ」
「いいんですか? まだ私のシフト時間入ってますけど」
「どうせもう来ねぇよ、厨房適当に使っていいから賄いでも食べていけ」
「ありがとうございます。それじゃあお言葉に甘えて上がらせてもらいますね」
店の奥から体格の良い男性が出てくる、彼がきっとこの店の主だろう。
じっと見ていたのを、注文と勘違いしたのか店主がこちらに近づいてくる。
「ご注文は?」
「......コナコーヒーでお願いします」
「あいよ」
店主がカウンターで豆を挽き始める。
店内にいい香りが漂う。
内装と相まって、居心地の良さを感じられる。
落ち着いて本を読むにはいい環境かもしれない。
気持ちを切り替えて小説を取り出す。
注文が届いた時に集中が途切れるのは嫌なので、じっくりとあらすじとあとがきを読む。
あとがきから読むのは、この本がどういった背景で書かれているか知りたいからだ。
変わっていると思うが、気がついたらこの読み方になっていた。
「店長、厨房お借りしました。店長の分も賄い作っておいたので、ぜひ食べてください」
「あんがとな。今日はまたずいぶんかわいいもの作ったな」
「パンケーキですよ。こないだ来てた店長の奥様にレシピ貰ったんで、作ってみました」
「お前がいる間はサイドメニュー作ってもいいかもしれんなぁ」
「自分の腕じゃお金は取れないですよ。あ、テーブルで食べていきますね」
「おう、ゆっくりしていけ。あ、ちょうどいい、一番テーブルに注文渡してくれ。客来るまでは裏で作業しているから、なんかあったら呼んでくれ」
「分かりました」
あとがきを読み終えるころには、そんな会話が聞こえた。
コーヒーのいい香りと、パンケーキの甘い匂いが香る。
帰りに、甘いものでも買って帰ろうかしら。
「お待たせしました、こちらご注文のコナコーヒーになります」
「ありがとうござ——」
「あとこれ僕からのプレゼントね。別に変なものとか入って無いから安心して食べてね。それにしてもビックリしたよ、白石さんが来るなんてね。コーヒー好きなのかい? ここのコーヒーは美味しいから期待してもいいよ。まぁ僕はあんまり深みだとか産地とか分からないんだけどね」
「くそが」
「おやひどい、なんてことを言うんだい」
くそが。
やっぱり今日は厄日だったのかもしれない。
勝手に向かいの席に座る男を見て思いを改める。
どれだけ過程が良くても、終わりが最悪なら意味はないのだ。
「まぁまぁゆっくりしていきなよ。ほら、パンケーキとかどうだい? 甘いものは嫌い? レシピが良いものだから味は悪くないと思うよ。作ったのは僕だから絶品ってほどにはなっていないけどね。ただなら全然食べれるクオリティの自負があるね」
ため息をつく、結局いつものペースだ。
仕方がないので、いただくことにしよう。
パンケーキにナイフを入れると、ふわりと揺れ、温かな湯気と甘いバターの香りを立ち上がらせる。
生地に染み込んだメープルシロップもあいまって、見た目はちゃんとした店で売られているものと何ら遜色がない。
口に入れた瞬間、ふわっと溶けるような食感と、バターのコクが広がり、メープルの甘さが後を引く。
認めたくはないが、とても美味しい。
にやにやと薄ら笑い浮かべる彼が作ったものとは思えない。
「……なによ」
「いやぁ、お口にあったようで良かったよ。美味しそうに食べてもらえると作った甲斐があるってもんだね。料理覚えようかなぁ、今のところ振舞う相手は君しかいないけども。そうだ、お互いに毎日交互にお弁当を作りあわないかい? 人の為なら面倒くさい作業も続きそうな気がするんだ」
「絶対に嫌よ」
「そっかぁ、名案だと思ったんだけどなぁ。あぁそうだ、こういうのは——」
彼はまだ何かしゃべっているが無視をする。
もう一度、パンケーキを口に運ぶ。
やっぱり、美味い。
私が同じレシピでこのレベルで作れるだろうか?
お菓子はあまり作らないから、同じレベルで作れる自信はない。
饒舌にしゃべり続ける彼を見る。
普段は髪に隠れていて見えない瞳と目が合う。
「君の口からちゃんとした感想が聞きたいなぁ」
「......美味しい」
悔しい。それは、言葉にせず胸にしまう。
......なんだ、この敗北感は。
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