表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/137

古い手鏡 後日譚

寺を後にした時、境内はすでに闇に包まれていた。

供養を終えた本堂の静けさがまだ胸に残り、僧侶の言葉が耳に響いていた。

「物を愛する心と同じくらい、物を恐れる心を持ちなさい」。

その余韻を抱えながら石段を降り、車へ戻る。

車のドアを開けると、夜の冷気が流れ込んできた。

座席に腰を下ろすと、スマホが震えた。

画面には友人とその彼女からのメッセージ。

「骨董市に行ったんでしょ?どうだった?」──気にしていたのだろう。

俺は「後日、しっかり話す」とだけ返し、夜の闇を背に寺を後にした。

次の休みの日。

俺は自分の家に友人たちと彼女を呼び、酒を酌み交わしながら改めて話すことにした。

居間に並んだ酒瓶と肴。笑い声が交わる中、俺は少し真剣な顔で切り出した。

俺:「……実は、あの朱塗りの手鏡、持って行った時に転んでしまってな。

その拍子に落として、鏡の部分と持ち手が割れてしまったんだ」

場が一瞬静まった。

彼女は驚いたように目を見開き、すぐに身を乗り出してきた。


彼女:「転んで……? でも、それなら直せるでしょ?

漆を塗り直して、鏡をはめ直せば、また使えるはずよ。

あんなに綺麗だったのに……どうして捨ててしまったの?」


その声には強い執着が滲んでいた。

彼女の瞳は熱を帯び、まるで割れた鏡を取り戻そうとするかのように揺れていた。

俺は少し言葉を選びながら答えた。

俺:「……もう手元にはない。割れてしまった以上、直すことはできない。

それに……あれは持っていても良いことはないと思う。

だから、もう諦めてほしい」


彼女:「でも……あの朱塗りの艶、忘れられないの。

あの鏡に映った自分の顔、あんなに美しく見えたのに……。

どうしても、もう一度見たい……」


彼女の声は震えていた。

その執着は、ただの未練ではなく、鏡に魅入られた者の切実な欲望のように思えた。

その横で友人が俺の目を見た。

俺は静かに目配せをした。

友人はすぐに察し、彼女の肩に手を置いて言った。

友人:「……もう諦めよう。割れてしまったなら仕方ない。

あの鏡は縁が深すぎる。俺たちにとっては、持たない方がいいんだ」

彼女はしばらく黙り込み、唇を噛んだ。

その瞳にはまだ未練が残っていたが、友人の言葉に支えられて、ようやく小さく頷いた。

だが、その頷きはどこか力なく、心の奥ではまだ諦めきれていないように見えた。

俺は酒を一口含み、深く息を吐いた。

言葉にはしなかったが、胸の奥では別の思いが静かに渦を巻いていた。

自分の骨董品集めの趣味から彼らを巻き込んでしまったこと。

そして、不幸に巻き込まずに済んだことへの安堵。

それらは声に出さず、心の中で静かに噛みしめるだけだった。

友人は笑みを浮かべ、杯を掲げた。

友人:「まあ、無事で良かったよ。

骨董は面白いけど、やっぱり怖いところもあるんだな」

彼女は少し寂しげに笑い、杯を口にした。

だが、その瞳の奥にはまだ朱塗りの艶を忘れられない影が揺れていた。


その夜。

皆が帰り、静まり返った自分の家の居間に一人残された。

片付けられた食器の匂いと、まだ残る酒の香りが漂う。

笑い声の余韻が消え、静けさが戻ると、心の奥に別の影が忍び寄ってきた。

ふと…朱塗りの手鏡のことが脳裏によぎった。

割れたはずの鏡面、艶やかな朱色の持ち手。

彼女の執着の言葉が、まるで耳の奥でまだ響いているようだった。

胸の奥に冷たいものが広がり、思わず息を止める。

だが、すぐに振り払うように首を振った。


俺:「……もう終わったことだ」


声には出さず、心の中で強く言い聞かせる。

あの鏡はもうない。

未練を残すことこそ、縁に囚われる第一歩だ。

僧侶の言葉が再び蘇る。


「物を愛する心と同じくらい、物を恐れる心を持ちなさい」


その言葉を胸に刻み、俺は静かに目を閉じた。

骨董品への向き合い方を新たに認識する。

ただ美しさや珍しさに惹かれるのではなく、その背にある影を見抜く目を持つこと。

そして、縁を恐れ、慎重に選ぶこと。

決意は静かに、しかし確かに心に根を下ろした。

過去の影に囚われるのではなく、前へ進むために。

俺は深く息を吸い、夜の静けさの中で小さく頷いた。

もう一度、骨董品と向き合うため

そして、これからを歩むために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ