古い手鏡 後日譚
寺を後にした時、境内はすでに闇に包まれていた。
供養を終えた本堂の静けさがまだ胸に残り、僧侶の言葉が耳に響いていた。
「物を愛する心と同じくらい、物を恐れる心を持ちなさい」。
その余韻を抱えながら石段を降り、車へ戻る。
車のドアを開けると、夜の冷気が流れ込んできた。
座席に腰を下ろすと、スマホが震えた。
画面には友人とその彼女からのメッセージ。
「骨董市に行ったんでしょ?どうだった?」──気にしていたのだろう。
俺は「後日、しっかり話す」とだけ返し、夜の闇を背に寺を後にした。
次の休みの日。
俺は自分の家に友人たちと彼女を呼び、酒を酌み交わしながら改めて話すことにした。
居間に並んだ酒瓶と肴。笑い声が交わる中、俺は少し真剣な顔で切り出した。
俺:「……実は、あの朱塗りの手鏡、持って行った時に転んでしまってな。
その拍子に落として、鏡の部分と持ち手が割れてしまったんだ」
場が一瞬静まった。
彼女は驚いたように目を見開き、すぐに身を乗り出してきた。
彼女:「転んで……? でも、それなら直せるでしょ?
漆を塗り直して、鏡をはめ直せば、また使えるはずよ。
あんなに綺麗だったのに……どうして捨ててしまったの?」
その声には強い執着が滲んでいた。
彼女の瞳は熱を帯び、まるで割れた鏡を取り戻そうとするかのように揺れていた。
俺は少し言葉を選びながら答えた。
俺:「……もう手元にはない。割れてしまった以上、直すことはできない。
それに……あれは持っていても良いことはないと思う。
だから、もう諦めてほしい」
彼女:「でも……あの朱塗りの艶、忘れられないの。
あの鏡に映った自分の顔、あんなに美しく見えたのに……。
どうしても、もう一度見たい……」
彼女の声は震えていた。
その執着は、ただの未練ではなく、鏡に魅入られた者の切実な欲望のように思えた。
その横で友人が俺の目を見た。
俺は静かに目配せをした。
友人はすぐに察し、彼女の肩に手を置いて言った。
友人:「……もう諦めよう。割れてしまったなら仕方ない。
あの鏡は縁が深すぎる。俺たちにとっては、持たない方がいいんだ」
彼女はしばらく黙り込み、唇を噛んだ。
その瞳にはまだ未練が残っていたが、友人の言葉に支えられて、ようやく小さく頷いた。
だが、その頷きはどこか力なく、心の奥ではまだ諦めきれていないように見えた。
俺は酒を一口含み、深く息を吐いた。
言葉にはしなかったが、胸の奥では別の思いが静かに渦を巻いていた。
自分の骨董品集めの趣味から彼らを巻き込んでしまったこと。
そして、不幸に巻き込まずに済んだことへの安堵。
それらは声に出さず、心の中で静かに噛みしめるだけだった。
友人は笑みを浮かべ、杯を掲げた。
友人:「まあ、無事で良かったよ。
骨董は面白いけど、やっぱり怖いところもあるんだな」
彼女は少し寂しげに笑い、杯を口にした。
だが、その瞳の奥にはまだ朱塗りの艶を忘れられない影が揺れていた。
その夜。
皆が帰り、静まり返った自分の家の居間に一人残された。
片付けられた食器の匂いと、まだ残る酒の香りが漂う。
笑い声の余韻が消え、静けさが戻ると、心の奥に別の影が忍び寄ってきた。
ふと…朱塗りの手鏡のことが脳裏によぎった。
割れたはずの鏡面、艶やかな朱色の持ち手。
彼女の執着の言葉が、まるで耳の奥でまだ響いているようだった。
胸の奥に冷たいものが広がり、思わず息を止める。
だが、すぐに振り払うように首を振った。
俺:「……もう終わったことだ」
声には出さず、心の中で強く言い聞かせる。
あの鏡はもうない。
未練を残すことこそ、縁に囚われる第一歩だ。
僧侶の言葉が再び蘇る。
「物を愛する心と同じくらい、物を恐れる心を持ちなさい」
その言葉を胸に刻み、俺は静かに目を閉じた。
骨董品への向き合い方を新たに認識する。
ただ美しさや珍しさに惹かれるのではなく、その背にある影を見抜く目を持つこと。
そして、縁を恐れ、慎重に選ぶこと。
決意は静かに、しかし確かに心に根を下ろした。
過去の影に囚われるのではなく、前へ進むために。
俺は深く息を吸い、夜の静けさの中で小さく頷いた。
もう一度、骨董品と向き合うため
そして、これからを歩むために。




