古い手鏡10
女性の露天を後にし、俺は一度車へ戻った。
後部座席に置いていた朱塗りの手鏡を取り出す。
その瞬間、なぜか鏡が手の中で微かに重くなったように感じた。
まるで、持ち出されることを嫌がっているかのように。
指先に伝わる冷たさは、冬の空気よりも鋭く、皮膚の奥に染み込むようだった。
光を受けた朱塗りの艶は、ただ美しいはずなのに、どこか濡れた血のように見えた。
胸の奥で小さなざわめきが広がる。
「このまま持ち出していいのか」
そんな声が心の中で囁いた。
俺:「……気のせい、だよな」
しかし、気のせいと片付けるには、あまりにも生々しい。
それでも、ここで引き返すわけにはいかない。
無理やりにでも行かねばならない
そう強く意志を固め、足を境内の奥へと向けた。
山道を少し登ると、木々の影が濃くなり、空気がひんやりと変わる。
人の声は遠ざかり、鳥の鳴き声すら途絶えていた。
ただ風が枝を揺らす音だけが、耳に届く。
やがて、小さな本堂が姿を現した。
苔むした石段の上に、簡素な造りの堂が静かに佇んでいる。
その佇まいは、古びているのに妙に生きているようで、こちらを見返しているように感じられた。
その前に、袈裟をまとった僧侶がひとり、じっと立っていた。
風に揺れる木々の音を背に、彼は静かにこちらを見つめる。
その視線は俺ではなく、抱えた朱塗りの鏡に注がれているように思えた。
僧侶:「……業の深い物を持ってこられましたね」
その言葉に、心臓が一瞬強く脈打った。
僧侶の声は低く穏やかだが、底に重い響きを含んでいた。
まるで、鏡の中に潜む何かを知っているかのように。
俺は言葉を失い、ただ鏡を抱え直した。
その瞬間、鏡の朱色が夕暮れの光を受けて艶めき、まるで生き物のように脈打った気がした。
僧侶はゆっくりと歩み寄り、静かな声で続けた。
僧侶:「とりあえず……本堂へどうぞ」
その声は柔らかいのに、どこか底知れぬ重みを帯びていた。
俺は鏡を抱えたまま、僧侶に導かれるように本堂の中へ足を踏み入れた。
石段を上がる足取りは重く、背中に冷たい汗が滲む。
本堂の扉が静かに開かれると、暗がりの奥から冷たい空気が流れ出てきた。
……その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
ただ、鏡を抱えた腕の中で、朱塗りの艶がひそやかに光を返していた。




