古いガラス食器 12
宮司は静かに立ち上がり、俺に一言だけ告げた。
宮司:「少し着替えてきます。斎服に改めねばなりません」
そう言って奥へ姿を消す。
本殿には俺と木箱だけが残された。
ロウソクの炎が揺れ、影が壁を這う。
その静けさの中で、なぜか無性に箱を開けたい衝動に駆られた。
「……開けてはいけない。分かっている」
心の中でそう繰り返すのに、指先が勝手に蓋へ伸びていく。
札の下から伝わる冷たさが、妙に心地よく、
その感触をもっと確かめたいという欲望が膨らんでいく。
葛藤が始まった。
開ければ何かが見えるかもしれない。
しかし、開けてはならないと宮司は言った。
「……ほんの少しだけなら」
心の中で囁く声が重なり、呼吸が浅くなる。
耳の奥で、誰かの囁きが混ざったような錯覚さえ覚えた。
その時、足音が近づいてきた。
宮司が戻ってきたのだ。
白い斎服に身を包み、厳かな気配を纏っている。
俺は慌てて手を引っ込め、息を整えた。
宮司は何も言わず、ただ静かに木箱の前に座る。
そして、封を解き始めた。
札を一枚ずつ剥がすたび、空気がわずかに震えるように感じられる。
蓋が開かれると、切篭ガラスの皿がロウソクの灯りに照らされ、
淡く揺らめく光を放った。
宮司は皿を慎重に持ち上げ、祭壇へと並べる。
その動作はゆっくりと、しかし迷いなく進められていく。
やがて宮司は深く息を吸い、低い声で祝詞を紡ぎ始めた。
宮司:「かけまくもかしこき……」
その声は静かでありながら、低く響き渡る。
ロウソクの炎が揺れ、影が祭壇の周囲で踊る。
祝詞は途切れることなく、ゆっくりと、しかし確実に紡がれていく。
その響きは本殿の空気を震わせ、
まるで器に宿る未練を少しずつ削ぎ落としていくようだった。
その時だった。
皿がわずかに震えたように見えた。
いや、見えただけではない。
微かな音が響いた。
「……ないた?」
まるで誰かが遠くで嗚咽しているような、
ガラスが震えて泣いているような気配が、確かにそこにあった。
俺は思わず息を止めた。
祝詞の合間に、皿が震えるたび、
ロウソクの炎が大きく揺れ、影が壁に広がる。
その影は夫婦の姿を映すかのように寄り添い、
やがて離れ、また重なり合う。
宮司は動じることなく、祝詞を続けた。
低い声はさらに深く、重く響き、
震える皿を押さえ込むように本殿を満たしていく。
俺はただ黙って見守るしかなかった。
箱を開けたい衝動に駆られた自分を思い返し、
その危うさに背筋が冷たくなる。
祝詞は続いていた。
低く、静かに、しかし確かな力を持って。
祭壇の上で皿が淡く光を返し、
その光はまるで夫婦の影を映すかのように揺れていた。
やがて震えは収まり、音も消えた。
残されたのは祝詞の響きと、ロウソクの炎の揺らめきだけ。
終わりは告げられないまま、ただ声と光と余韻だけが残った。
その余韻は、夜の闇に溶けながらも、
確かに俺の胸の奥に刻まれていった。
そして、皿が最後に見せた淡い揺らめきは、
まるで「まだ終わってはいない」と告げているように思えた。




