初めての一人暮らし 5
飲み会から数日後、霊感の強い友人から突然連絡が来た。
「なあ、ちょっと飯行かない?」
珍しい誘いだった。二人きりで会うのは久しぶりだ。
夜、近所のファミレスに入る。
テーブルに座ると、彼はメニューを開いたまま、落ち着かない様子だった。
「お前、ファミレスなんて久々じゃない?」
「そうだな。学生の頃はよく来てたけど、社会人になってからは減ったな」
「俺もだよ。なんか懐かしいな、こういう雰囲気」
店内には家族連れや学生グループの笑い声が響いていて、妙に安心感があった。
料理を注文して、近況の話をした。
「仕事どうよ?慣れた?」
「まあ、なんとか。忙しいけどな」
「一人暮らしは?」
「広すぎて落ち着かないけど、快適だよ。友達呼んで飲み会もしたし」
「……そうか」
彼は笑ったが、すぐに黙り込んだ。
食事が運ばれてきても、彼は箸を持ったまま視線を落としていた。
「どうした?なんか言いたそうだな」
「いや……別に」
「別にって顔じゃないだろ。気になるから言えよ」
「……いや、言わない方がいいかもしれない」
「やめろよ、そういう言い方。俺住んでんだぜ?余計気になるだろ」
俺が少し強めに言うと、彼はため息をついて口を開いた。
「……実は、あの日……お前ん家に行った日に、俺が見たのは――」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「白いワンピースを着た、黒い髪の長い女だった」
俺は思わず息を呑んだ。
「女……?」
「そう。だけど、顔ははっきり見えなかった。いや、見えないんだ。なのに、なぜか女だってわかるんだよ」
彼の声は低く、重かった。
「……冗談だろ?」
「冗談でこんなこと言わない。俺は本気だ」
彼は視線を逸らさず、真剣に俺を見つめた。
「だから言う。早く引っ越せ」
「引っ越したばっかりだぞ。そんな簡単にできるかよ」
「じゃあ……せめて、夜はベランダ側のカーテンを必ず閉めろ。絶対にだ」
彼の言葉には妙な迫力があった。
「……カーテン?」
「そうだ。あそこから視線を感じる。あの女は、そこに立ってたんだ」
俺の背筋が冷たくなった。あの夜、確かに視線を感じた場所だった。
「それと……部屋の掃除はこまめにしろ。汚れや埃が溜まると、余計に良くない」
「良くないって……何がだよ」
「言えない。ただ、そういう場所は呼びやすくなるんだ」
彼はそれ以上言わなかった。
ファミレスの明るい照明の下で、彼の真剣な顔だけが異様に浮かび上がって見えた。
周囲のざわめきや食器の音が、逆に現実感を強める。
俺はスプーンを握りしめながら、心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
「……わかった。カーテンは閉める。掃除もする」
「それでいい。お前が無事ならそれでいいんだ」
彼はようやく少しだけ表情を緩めた。
食事を終えて店を出ると、夜風が冷たかった。
駐車場の街灯がぼんやりと照らす中、彼は立ち止まって振り返った。
「なあ……もう一度言うけど、本当に気をつけろよ。冗談じゃなくて、俺は見たんだ」
「……わかったよ」
「絶対にカーテンは閉めろ。忘れるな。掃除も怠るな。いいな?」
彼の声は念押しというより、祈るような響きだった。
俺は曖昧に頷いたが、胸の奥に重いものが残った。
頭の中に浮かぶのは……はっきりした姿ではない。
白い布のようなものが揺れていた気がする。
長い髪の影が垂れていたようにも思う。
顔はどうしても思い出せない。ただ、そこに「誰か」がいたという確信だけが残っている。
それは形を持たない残像のように、夜風の中でぼんやりと蘇っていた。




