初めての一人暮らし 3
あの夜、薄暗い部屋で感じた視線は、帰宅してからも頭を離れなかった。
背中に突き刺さるような気配…。
だが、ベランダ側に大きな家があったことを思い出し、無理やり自分を納得させた。
「きっと、あそこの住人がたまたま窓から見てただけだ」
そう言い聞かせることで、心のざわめきを押し込めた。
それからは日が経つのが早かった。
引越しの準備を進めるうちに、何度か家族と一緒に部屋を見に行った。
ある日、母親と一緒に部屋へ。
「思ったより綺麗ね。広いけど、家具を置いたらちょうどいいかも」
「そうだろ?昼間に来ると全然不気味さはないんだよ」
「夜はまた違うのかもしれないけど……まあ、いいんじゃない?」
母親はまだ少し訝しそうだったが、特に何も感じてはいないようだった。
別の日には親父も一緒に。
「おお、広いな!これなら友達呼んで飲み会もできるぞ」
「いや、そんなに呼ばないって」
「いいじゃないか。若いうちは広い方が楽しいんだ」
親父は相変わらず前向きで、部屋の広さを楽しそうに語った。
弟も一度見に来た。
「広っ!一人で住むの?贅沢だな」
「まあな。会社から近いし、便利だから」
「でも夜はちょっと怖そうだな。廊下とか暗いし」
「昼間は全然平気だよ」
弟は笑いながらも、少し背筋をすくめていた。
何度か足を運んでも、あの時のような視線は感じなかった。
昼間の部屋はただ広く、静かで、新しい匂いがするだけだった。
不気味さは影を潜め、引越しの日が近づいていった。
―そして引越し当日。
荷物を運び込むトラックが到着し、俺は新しい生活を始める準備を整えた。
家族も手伝いに来てくれて、笑い声が部屋に響いた。
広すぎると思っていた空間も、家具が入ると少しずつ落ち着きを見せ始めた。
「よし、じゃあ挨拶回りだな」親父が声を上げた。
紙袋には菓子折りがいくつも入っている。
母親は玄関で靴を履きながら言った。
「こういうのは大事よ。ご近所さんに顔を覚えてもらわないと」
「そうだな。俺も社会人になったんだし、ちゃんとやらないとな」
まずは隣の部屋へ。
チャイムを押すと、中年の女性が出てきた。
「はじめまして、今日からこちらに住むことになりました」
「まあ、ご丁寧に。よろしくお願いしますね」
女性は柔らかく笑い、菓子折りを受け取った。
次に階下の部屋へ。
若い夫婦が出てきて、子供の声が奥から聞こえた。
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ。何かあれば遠慮なく言ってくださいね」
親父が「いい人たちだな」と小声で言い、母親も安心したように頷いた。
最後に、ベランダ側に面した大きな家へ。
門をくぐり、チャイムを押す。
しばらくして、年配の男性が出てきた。
「今日から向かいのアパートに住むことになりまして……」
「……そうですか」
男性は短く答え、菓子折りを受け取ると、ほとんど目を合わせずに家の中へ戻っていった。
「ちょっと素っ気なかったわね」母親が小声で言った。
「まあ、そういう人もいるさ」親父は気にしない様子だった。
弟は「なんか怖い顔してたな」と呟いた。
挨拶を終えて部屋に戻ると、家具の匂いと新しい畳の匂いが混じり合っていた。
家族の笑い声が広い部屋に響き、少しずつ「ここで暮らすんだ」という実感が湧いてきた。
ただ、心の奥底にはまだ、あの夜の「視線」の記憶が残っていた。
それが本当に隣家の住人だったのか――。
答えは出ないまま、新しい生活が始まろうとしていた。




