朝挨拶する人は?後日譚
その日は特に変わりのない一日だった。
仕事を終えて会社を出ると、たまたま電車通勤の上司と帰りが一緒になった。
夕方の冷たい風の中、他愛もない話をしながら駅へ向かって歩いていた。
街灯が灯り始め、道の影がゆっくり伸びていく。
駅が近づいた頃、上司がふいに横目でこちらを見た。
「お前さ、1ヶ月半くらい……
ずっとあのケアホームの前で頭下げて通ってたやろ。
最近は下げへんし……なんかあったんか。」
その言い方は軽くも重くもなく、
ただ“気になっていたことを口にした”というだけの声音だった。
「いや、あそこに1ヶ月半くらい、毎朝年配の女の人座ってたじゃないっすか。
ニコニコ手ぇ振ってて……みんな無視するし、なんかそれも寂しいな思って。
だから頭下げてただけですよ。」
上司は一瞬だけ眉を寄せた。
驚きというより、理解しようとしているのに噛み合わない、そんな表情だった。
「……女の人?」
「はい。ケアホームの前の椅子に。毎朝ですよ。
俺が挨拶したら、めっちゃ嬉しそうに頭下げてくれて。」
上司は前を向いたまま、ゆっくり息を吐いた。
その吐息は白くならない温度なのに、妙に冷たく感じた。
「……あそこ、朝に誰か座ってるの、見たことないけどな。」
淡々とした声だった。
脅かすでもなく、疑うでもなく、ただの事実として。
駅のホームに着くまで、二人とも黙ったままだった。
電車の到着を知らせるアナウンスが響き、
列がゆっくり前へ進む。
そのとき、ふと頭の奥で、上司の言葉がゆっくり形を変えた。
1ヶ月半。
歩きながら数えてみる。
あの人を見かけた日数。
自分が頭を下げた回数。
いなくなった日。
自然と、ひとつの数字に収束していく。
四十九日。
電車の風がホームに吹き込んできた瞬間、
胸の奥にその数字が静かに沈んだ。
上司は何も言わず電車に乗り込んだ。
自分もその後ろに続きながら、
扉が閉まる音を聞いた。
心の中で、誰に向けるでもなく、
ただひとつだけ思った。
無事に行けるといいな。




