朝挨拶する人は?3
帰りには、その女性はいなかった。
朝に見たあの笑顔だけが、妙に頭の奥に残っていた。
特別な出来事でもないのに、
ふとした瞬間に思い出してしまうような、そんな笑顔だった。
翌日も、その次の日も、
女性はケアホームの前の同じ椅子に座っていた。
背筋を伸ばし、膝の上に揃えた手は微動だにせず、
ただ、通り過ぎる人に向かってにこにこと笑っていた。
こちらも軽く目礼を返す。
すると女性は、嬉しそうに少し深く頭を下げる。
そのやり取りが、いつの間にか朝の習慣になっていた。
けれど、周りの人たちは相変わらずだった。
誰も彼女に気づかない。
視線を逸らすわけでもなく、
ただ、そこに“何もない”かのように歩いていく。
その無関心さが、日が経つにつれて妙に際立って見えた。
自分だけが立ち止まっているような、
自分だけが何かを見ているような、
そんな感覚が少しずつ積もっていった。
そんな日々が、一ヶ月半ほど続いた。
ある朝、いつものようにバスを降り、駅で電車に乗り換え、会社の最寄り駅に着いて歩き始めたとき、
ふとケアホームの前に目を向けた。
椅子は空っぽだった。
「あれ?」と思った。
けれど、さすがに寒くなってきたし、
外に出るのがつらい日もあるだろう、と自分に言い聞かせる。
ただ、毎朝そこにあったはずの“笑顔”がないだけで、
道の景色が少しだけ薄く見えた。
周りの人たちは、いつも通り何事もなかったように歩いていく。
その流れに自分も自然と混ざりながら、
会社へ向かった。




