趣ある民宿にて 後日譚
あれから三ヶ月。
特に何事もなく過ごしていたが、ふとあの居酒屋にもう一度行きたくなった。
理由ははっきりしない。ただ、気づけばこの街へ向かう切符を手にしていた。
今回は民宿ではなく、駅前のビジネスホテルを取ってから足を運ぶ。
暖簾をくぐると、以前と変わらぬ雰囲気。
カウンターには、あの常連のおじさんが座っていた。
こちらに気づくと、軽く手を挙げて笑みを浮かべる。
「おや、また来たのか。仕事かい?それとも観光?」
「いや、ちょっと気分転換で。ビジネスホテル取ったんで、今日は気楽です」
「そうかい。ホテルなら風呂も部屋も揃ってるし、安心だな」
おじさんはグラスを傾けながら、世間話を続けた。
地元の祭りの話、最近の天気、昔の旅人のこと。
その語り口は穏やかで、どこか懐かしさを感じさせた。
しばらくして、ふと切り出した。
「あの……前に泊まった民宿の玄関にあった日本人形、あれは何なんですか?」
おじさんはしばらく黙り、グラスを置いた。
目の奥に、どこか哀愁が漂っていた。
「女将さんの娘さんがね、大切にしていた人形なんだよ。
まだ若いのに病気で亡くなってしまってな……」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「それからだ。あの民宿の玄関の人形が動くって噂が出回るようになった。
泊まる人も少なくなってしまったんだ」
おじさんはグラスを見つめ、少し寂しそうに笑った。
「まあ、噂なんてのは尾ひれがつくもんだ。けどな……あの人形を見た人は、みんな何かを感じるらしい」
その声には、ただの怪談話ではない重みがあった。
人形にまつわる悲しみと、残された者の思いが、居酒屋の静かな空気に溶け込んでいく。
その夜。
ホテルの部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした瞬間、ふと耳に違和感を覚えた。
最初は空調の音かと思った。だが次第に、それは形を持ち始める。
かすかな笑い声…。
若い女性のような、澄んでいるのにどこか湿った響き。
「ふふ……ふふふ……」
と、耳元で囁くように響いた。
振り返っても、部屋には誰もいない。
ただ、冷たい空気が背筋を撫でていく。
その笑い声は、あの民宿の廊下で聞いたものと同じだった。
いや、むしろ近く、はっきりと聞こえた気がした。
心臓が跳ね上がり、思わずベッドの灯りをつける。
だが、部屋は静まり返り、ただ時計の秒針だけが進んでいた。
耳の奥にはまだ、あの「ふふ……」という声が残っていた。
そしてふと、恐ろしい考えが頭をよぎる。
……自分は本当に、この街に来たかったのだろうか。
気分転換だと口にしたが、なぜここを選んだのか。
まるで何かに導かれるように、この街へ足を運んでしまったのではないか。
その疑念が、笑い声よりも深く心に染み込んでいった。




